「『二台のピアノのためのソナタ②』」
~~~ハンネス視点~~~
第二楽章──アンダンテ。
軽快かつインパクトの強かった第一楽章とは異なる、スローテンポな始まりの第二楽章。
聴衆の多くはほっとひと息ついた様子だが、弾いている方はそうもいかない。
実際、激しい曲だったら勢いでいけるがスローテンポな曲はそうもいかないので難しいという人はいるし、それがひとりでなく二台四手だったらなおさらだ。
実際ハンネスも、そう思っているうちのひとりだった。
(これはキツい……難しいっ)
顔では平気な風を装っているが、内心ではハラハラだ。
ワンタッチごとに背中を大量の冷や汗が伝って落ちていく。
徹底的に鍛え上げたとはいえ、ハンネスの技術は例えばテレーゼやリリゼットのそれには遠く及ばない。
テレーゼの後を必死で追いすがることでなんとか誤魔化してはいるが、もしひとつでもミスを犯せば途端に底の浅さを露呈してしまうだろう。
失望という名の泥沼に浸かった聴衆は、きっともう二度と、甘い夢を見てはくれない。
(最後まで保つかな……これ……?)
連日の練習は、ふたりでのパートは夜9時まで。
しかし個人としては深夜0時過ぎまで行っていた。
本番が続くにつれその時間は長くなり、昨日などはほぼ一睡もしていない。
今もなお死ぬほど眠いし、ふっと気を抜けば倒れてしまいそうだ。
体調管理のたの字もないバカげた行いであることは、ハンネスも知っていた。
だが、そうせざるを得なかったのだ。
テレーゼの指先の紡ぎ出す、天上の音楽を支えるためには。
第三楽章──モルト・アレグロ。
終楽章に突入すると、曲は再び駆け足を始めた。
猛烈なテンポアップに内心で悲鳴を上げながらも、ハンネスは必死で追いすがる。
しかし、それにしても──
(なんて大きな音……っ)
驚くべきは、テレーゼの発する音の大きさだ。
ふたりのピアノが対角線上にあることを忘れさせるかのように大きな、それでいて粒だちのよい綺麗な音の塊が、ガンガン顔にぶつかってくる。
まったくもって、同じ楽器を弾いているとは思えない。
(ピアノって、こんなに大きな音が出せるものだっけ……?)
しかも速いのだ。
ギャロップする馬のように速く、ぐいぐいと力強く進んで行く。
そのくせ「まだまだいけるでしょ? そのために練習して来たんでしょ?」とでも言わんばかりに口元を緩ませて煽って来る。
(ホントに……この人は……っ)
ハンネスは思わず笑ってしまった。
心臓は爆発寸前なのに、ペダルを踏む足は今にも攣りそうなのに、手の指なんかもつれて絡まってしまいそうなのに。
なぜだろう、猛烈に楽しくて笑みがこぼれる。
沸き立つような喜びの中、ふと思い出したことがある。
──この曲にはね、ちょっとひどい逸話があるんだ。
音楽解析の際、テレーゼはこんな風に言っていた。
──モーツァルトがこの曲を作った頃は四手連弾が主流でね、二台四手はあまり歓迎されてなかった。実際、彼の作品の中でも二台四手のピアノソナタはこれ一曲だけ。じゃあどうしてわざわざそんな曲を作ったのかって言うとね、ある女の子のためなんだ。
アウエルンハンマーという名のその女性は、モーツァルトの弟子の中でもひときわ優秀だったという。
師に恋焦がれる女弟子に捧げた曲、それだけ聞けばロマンチックな恋愛物語を想像する人もいるかもしれない。
しかし残念、彼女はとんでもない醜女であったのだ。
──残された書簡からもね、そのひどさは伺えるんだ。『デブで汗っかきな田舎娘』ってさ。だからこんな風に言う人もいるの。モーツァルトは極力彼女に近づきたくないから四手連弾にしなかったんだって。二台四手なら離れていられるからって。ね、笑っちゃうぐらいひどい話でしょ? そんなの許せないよね? 女の子としては。
でもね、とテレーゼは続けた。
──わたしはこの曲、嫌いじゃないんだあ。だって、考えてもみてよこの曲の難易度。当時最高のピアノ弾きだったモーツァルトとタメを張れるって、相当な評価なのよ? だからわたしはね、こう思うんだ。その女の子は悲しいと同時に嬉しくもあったんじゃないかって。対面にあって手の届かぬモーツァルトを想って身を焦がしながら、一方で猛烈な勢いで難曲を弾きこなす。きっと地上で唯一自分にのみ与えられた贅沢を、骨の髄まで味わえてたんじゃないかって。もちろん最後は失恋するわけだけど……それでも、ね?
作曲活動をする際に使う幾つかの筆名のうちのひとつに過ぎないモーツァルトとその人生を、彼女はまるでその目で見て来たかのように寂しげに語る。
その精神性と心の豊かさを尊ぶと同時に、ハンネスはハッと胸を打たれたような気分になっていた。
だって、アウエルンハンマー嬢のその境遇は──
(……それってまさに、僕のことだもん。容姿は醜いし、デブだし……。今はちょっと痩せてるけど……)
こんなきっかけでもなければ、彼女とデュオを組むことなどあり得なかった。
(ああ、もうすぐ終わりなんだ……)
彼女と共に過ごしたこの一ヶ月を思い返した。
何度も目が合ったことを、何度も指が触れ合ったことを。
肩を叩かれ、肩を組まれ、そのつどドキリとさせられたことを。
向かい合って旗揚げゲームをした日の夜は、胸が高鳴って眠れなかったことを思い返した。
(もう二度と、こんな機会はないんだ……)
曲が終盤に近付くにつれ、頭をよぎるのは敗北の恐れではなくこの瞬間への愛しさだった。
ふたりで過ごしてきた時間が終わり、きっと戻らない。それがたまらなく寂しかった。
すでにハンネスは自覚していた。
自分はテレーゼを愛している、友人としてではなく特別な異性でありたいと願っている。
そして出来れば末永く傍にいて、陽気に笑う彼女を眺めていたい。
まったくもって恐れ多い、そして絶対に叶わぬ想いを抱いている。
(どうして僕は、僕なんかに産まれたんだろう)
どうしてクロードのような美形の男性ではないのだろう、どうしてウィルのような可愛らしい男の子ではないのだろう。
ふたりのような容姿であるならば、きっともっと自分に自信が持てるのに。
思い切って気持ちを打ち明け、あわよくば、なんてことも考えられるのに。
(……いや、そうじゃないか。僕が僕でなければこんな状況にはなってはいなかった。そもそも論テレーゼと友達にすらなれていなかった)
束の間両親に抱いた恨みを恥じると、ハンネスは唇を噛んだ。
鉄の味が口内に広がったが、構わずに噛み続けた。
(物思いはもう終わり。集中だ、集中しろ)
曲はすでに最終盤に突入している。
目まぐるしい速弾きの応酬、その中にあった。
(ここまで来て振り落とされてたまるかっ、絶対最後までついて行くんだっ)
体力はとうに底を突いている。
視界が霞み、指が震え、ちょっとでも気を抜けばその場で倒れてしまいそうだが……。
(そんなわけにいくかよっ!)
胸中で絶叫しながら、ハンネスは最後の力を振り絞った。
(僕の大事な友人のために! 明るくて気高くて美しくて、この世で最高の女性のために! あんな双子なんかまとめてぶっ飛ばすんだっ!)
何度も叫んだ。何度も吼えた。
激情のままに鍵盤を叩き続けた。
目の前にはもう88鍵の黒と白の連なりしかない、それ以外の何物も映らない──
ふと気が付いた時には、ハンネスは倒れていた。
頬を床にくっつけるようにして、横倒しに。
ぼやけた視界の中に、急にテレーゼが飛び込んで来た。
テレーゼはなぜか泣いていて、何ごとかをわめきながらハンネスに抱き付いて来た。
大歓声が沸き起こっていた。
万雷の拍手が鳴っていた。
じんじんと耳が痛んだ。
テレーゼが何かを叫んでた。
何を叫んでるのか聞きたかったが、上手く聞き取れなかった。
喜んでいる、ただそれだけがわかった。
テレーゼはハンネスの体を強く抱きしめると、頬に頬をくっつけて来た。
その頬は柔らかく紅潮し、熱い涙で濡れていた。
(ああ……そうか)
ようやくわかった。
ようやく気づいた。
(僕は……僕たちは……勝ったんだ……っ)
双子戦決着!
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