「裏庭にて」
~~~ハンネス視点~~~
音楽は好きだしピアノも好きだが、別にそれで身を立てようとは思っていなかった。
クラウンベルガー音楽院への入学を決めたのはあくまで勉強の一環。父が社長を務める音楽出版社を継ぐためのよき経験になると考えたからだ。
つまるところハンネスは、真面目な人間だった。
冷静で、コツコツ計画的で。
一方、人間関係の構築にはいささか消極的な人間だった。
緊張するとどもるクセ、運動神経の欠如、見た目に自信がないことなどが主な理由だが、とにかく友達を作るのが下手な人間だった。
結果、入学早々孤立した。
休み時間も登下校もひとり。
体育の時間のペアは、いつも担当教師と組まされた。
別段寂しくはなかった。
賑やかに騒ぐ同級生たちは書き割りの向こうの非現実的な存在としてとらえればいいし、凪いだ海のような静かな学生生活だって、決して悪くはない。
ハンネスの中にはいつだって、強い諦念が横たわっていた。
そんな彼を揺り動かしたのが、テレーゼの演奏だった。
類稀なる運指、素晴らしい楽曲、円熟した音楽性は、16という年齢にはまったく似つかわしくないものだった。
興味を持って調べれば調べるほどに、不遇な少女であることを知らされた。
王子に婚約を破棄され、王都を追放され、公爵家を勘当され。
一生のうちに一度あるかないかぐらいの大挫折を短い期間に一気に味わい、グラーツの都に流れて来たという。
にもかかわらず、彼女は自暴自棄になっていない。
お付きの執事と共に生活費を稼ぎ、決闘者として活躍し、音楽院でさらなる修練を積もうという。
その心根の健やかさと、踏みつけられてもなお曲がらぬ丈夫さがうらやましかった。
あんな風になりたい、近づきたいと、心の底からそう思った。
でも、やっぱり最初は悩んだ。
自分なんかが突然話しかけてもいいものか、気持ち悪がられたりはしないか。
迷っているその目の前で、アイシャとミントが先に声をかけた。
行くなら今だ、そう思ったハンネスは、一生分の勇気を振り絞って後に続いた。
本当に大正解だったと思っている。
彼女との繋がりは彼の日常を変え、そしてたしかな実を結んだのだから。
彼女の曲は『ジングライヒ社』の出版ルートに載せられた。
ただのコネではなく、厳しい審査をくぐり抜けた上でヒット街道に載せられた。
あとはただ、綺麗な花を咲かすのを見守るだけ。
「ふふ……」
ハンネスはご機嫌で歩いていた。
「ふふふ……」
珍しく笑みなどこぼしながら、音楽院の『裏庭』を歩いていた。
裏庭というのは生徒たちによる呼称だ。
旧校舎の、今は使われていない中庭。
けれどそこを通れば本校舎への近道となることから、時間に追われた生徒が通ることが多かった。
だから裏庭。裏道という意味での呼称。
「ふふふふふ……」
胸に抱いている袋には、たくさんの手紙が入っている。
差出人は孤児院と修道院の子供たち、院へ寄付してくれたテレーゼへの感謝が綴られたものが10数枚入っている。
会社の窓口に届いたのを、社員が気を利かせて音楽院まで持って来てくれたのだ。
「テレーゼ、きっと、喜ぶぞ」
これを受け取ったテレーゼがどんな反応をするのか、ハンネスは楽しみでならなかった。
明るくて純粋な彼女だから、きっと手放しで喜んでくれるに違いない。
躍り上がって歓声を上げて、文面を読んで涙して、それをリリゼットがハンカチで拭いてあげる。
そんな姿まで想像出来た。
「……わぎゃっ?」
あれこれ考えていたせいだろうか、ハンネスは木の枝につまずいて転んでしまった。
胸に抱いていた袋が飛び、手紙が地面にザザッと落ちた。
「わ、わ……どうしよ……」
慌てて手紙を拾おうとしたハンネスは、ふと疑念にかられた。
……いや待て、裏庭の真ん中で木の枝?
手入れのされていないアカシアの木は生えていたはずだが、あれはたしかもっと外縁の方だったはずで……真ん中にはなかったはずで……。
「……っ!?」
慌てて上体を起こしたハンネスは、ようやく自らの失敗に気づいた。
「おいおいおーい、ハンネスちゃんよおー。どこに目ぇつけて歩いてるんやあーっ?」
「ものすっごい勢いで踏まれて、わし足が痛いんやけどおーっ?」
ミゼルとアルゴ。
音楽院きっての不良が、ハンネスを見下ろしている。
位置関係からすると、木の枝と思っていたのはアルゴの足だったのだろう。
次の授業をサボろうとしていた彼らに、運悪く遭遇してしまったのだ。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
ハンネスは慌てて謝った。
ペコペコ頭を下げて、それでも足りなさそうな雰囲気なので地面に手をついた。
それでも双子は許してくれなかった。
長い足で何度も何度も、ハンネスを蹴り転がした。
「ごめんですんだら衛士はいらんのや」
「せやせや、もっと目に見えるものにしてくれんと」
「目に、見える、もの?」
痛みに耐えながら顔を上げたハンネスに双子が要求して来たのは金銭だった。
額は金貨5枚。それ自体は決して払えない額ではないが……。
「今は、持って、ないから、あとで。あとでで……いい、ですか?」
「はあーん? 寝ぼけたこと言ってんな。今すぐや、今すぐ出せ。それが無理なら家まで走って取って来い」
「言っとくが、他の者に言うなよ。言ったらほんまどうなるか……」
パキポキと指を鳴らしてすごむ双子にビビったハンネスは、こくこくと必死にうなずいた。
「よっしゃよっしゃ、素直でええぞー」
「やあしかしミゼルよ、それだけでもつまらんくないか?」
「あ? 他になんかあるか?」
「ほら、あの女。テレーゼや」
アルゴはケケケと邪悪に笑うと、ハンネスの胸倉を掴んだ。
「なあハンネス。おまえ最近、あの女と仲良うしとるやろ」
「て、テレーゼのこと? う、うん。してる……けど……」
「あの女がひとりになる瞬間がわかったら、わしらに教えろ」
「え」
「え、やないわ。なあ、意味わかるやろ? あの女、ひとりやったら何も出来んくせにぎゃーぎゃーぴーぴーと騒いで、ムカつくんや。しかも最近じゃ聖女やなんやとやかましくてな。一度へこましたろと思ってたんや。なあハンネス、ええやろ。わしらとおまえの仲なんやから。それぐらい、なあ」
「え、や……」
テレーゼがひとりになる瞬間を知った双子がどうするのか、考えるまでもない。
ただでさえ暴力的で、女子生徒に性的ないたずらしたなど悪い噂が絶えない彼らだ。
ただ単に罵倒したりでは絶対済まない。
きっとテレーゼに暴力をふるって、そして……。
「やだ、できない」
ハンネスは反射で答えた。
「できないやない、やるんや。やれ」
「やだ、やだ」
胸倉を掴まれ、すごまれた。
証拠が残らないようにだろうか、腹を何度も殴られた。
それでもハンネスは、決して首を縦に振らなかった。
歯を食いしばって、必死に耐えて、耐えて……。
「ちっ、ほんましつっこい奴やな……」
「おー、なんやこれは? 袋? 中は……手紙か、これ?」
呆れるアルゴの後ろで、ミゼルが不思議そうな声を出した。
見ると、ハンネスが転んだ拍子に落とした袋の中身を取り出して広げている。
「なんやこの汚い字……あ? 『テレーゼおねえさんへ、ぼくたちのためにきふをしてくれて、ありがとう』。なんや、感謝の手紙か? これ全部? うわ、気持ち悪っ」
子供たちが頑張って書いた文面を、感動するどころか一読するなり吐き捨て、放り投げた。
放り投げただけにとどまらず、唾まで吐きかけた。
「ちょっと、やめて」
「気持ち悪い気持ち悪い、こんなん見てられんわ」
「やめて、やめてってばっ」
ハンネスの制止を無視して、ミゼルは手紙を踏みつけた。
何度も踏みつけ、踏みにじった。
子供たちが頑張って書いた手紙がぐしゃぐしゃになり、一部は地面と靴との摩擦に耐えきれず破けていく。
「やめてよ、お願い、だからっ」
ハンネスは必死になった。
アルゴの体を押しのけると、手紙の上にのしかかるようにして地面に伏せた。
自分はともかく、これだけは守らなければならない。
テレーゼの善行に対する子供たちの感謝を、世間の正しい評価を、必ず本人に届けなければならない。
そのためならば、自分の体などどうなってもいい。
本気でそう思った。
「おい、どけや」
「どかんと、手紙の代わりにおまえをぐしゃぐしゃにしてまうぞ」
恐ろしい声で脅され、何度も踏みつけられたが、ハンネスはどかなかった。
目を閉じ、歯を食いしばって痛みに耐え続けた。
その時だった。
鋭い声が辺りに響いたのは。
「──やめなさい!」
テレーゼだ。
テレーゼがこちらに向かってやって来る。
怒っているのだろう、髪を振り乱しながら駆けて来る。
しかし周りには誰もいない。
クロードもリリゼットも、頼れる者が誰もいない。
にも拘わらず、彼女はひとりでやって来る。
それと気づいた瞬間、ハンネスは身を起こした。
人生初めての大声で、思い切り叫んだ、
「ダメだ、テレーゼ! ひとりじゃ、ダメ!」
だが、それでもテレーゼは止まらなかった。
駆け寄るなり、双子を突き飛ばした。
ハンネスを後ろにかばうようにして立ちはだかった。
「あなたたち、なんてことするの! よってたかってハンネスをいじめて! 恥を知りなさい!」
強く、鋭く、迷いなく。
テレーゼは双子に相対した。
ゆるゆる書いていきます。
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