「『レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ②』」
~~~エメリッヒ視点~~~
エメリッヒは音楽を愛している。
だが同時に、熱心な教育者でもあった。
ただ上手く演奏が出来ればいいというものではない。音には心が伴うべきだと考えている。
ゲイルという男にテレーゼの話をされた時、まず第一に考えたのは他の生徒たちへの悪影響だ。
過去に行った悪事の数々、婚約破棄に王都追放に公爵家勘当。
グラーツへ来てからも音楽決闘を頻繁に行い、裏では巨額の賭け金を動かしているそうだ。
不心得者だと考えた。そんな者に自分の生徒を近づけたくないとも。
面接で弾こうとしたが躱された。
事前に用意していたのだろう、上手くまとまった返答をしてきた。
だが、他の先生方に悪印象を与えたのはたしかだ。
今がどうあれ、過去の汚点は消せない。
いくら見事な演奏を披露したところで、皆の評価点はおのずと辛くなるはずであり、それは協議の結果にも反映される。
だが──
しかし──
テレーゼの演奏は、エメリッヒ想像の遥かに上をいっていた。
見事な楽曲、際立った表現力。そして──
(……気になるのは、あの左手だ)
エメリッヒはテレーゼの左手を注視した。
見事な運びを見せる右手と違い、左手にはどこかたどたどしい部分がある。
軽やかに動いたかと思えば、まるでつい最近ピアノを弾き始めたような生硬さを感じさせる瞬間がある。
(……そんなことがあり得るのか?)
エメリッヒは首を捻った。
これほどの技量に音楽理解。
何十年という歳月さえ感じさせる円熟味。
テレーゼがつい最近まで素人だったなんてことがあり得るのか?
(ならばなぜ……怪我でもしていたのか……いや、待てよ? これも表現方法のうちだとしたらどうなる?)
恐ろしい思い付きに、エメリッヒは慄然とした。
そうだ、たどたどしいのではなく、あえて弱くしているのではないか?
同じようなメロディのはずなのにまったく違うように聞こえる瞬間があるのも、それによってアクセントをつけているからではないか?
(そんなことをしていったいどんな意味が……いや、そうか、作曲家の懊悩を表現しているのか?)
悪魔的な発想に思い至った瞬間、エメリッヒの全身からどっと汗が噴き出た。
(そうか、だから全体としてこの構成になっていて……中間部が……だとすると……)
気づいてしまった瞬間、まずいと思った。
今まで疑念の膜で防いでいたものが防げなくなった。
ピアノから発せられる音の粒が勢いを増して肌を打つ、演奏室の壁という壁に反響して耳に飛び込んで来る。
そのまま稲妻のように血管の中を荒れ狂い、全身の神経を焼いていく、痺れさせていく。
(いかん……侵食される……っ?)
心臓の鼓動が強くなり、グラリと視界が揺らいだ。
目の前に夜の闇があるように感じる。
耳の傍を冬枯れの木々の間をすり抜けてきた風が吹き過ぎる。
まるで本当に、自分がそこにいるかのように。
(こんな……こんなことがあるのかっ? たかだか16歳の小娘にこんなことが……これではまるで神様の奇跡ではないかっ?)
時に神は、人に超常の力を与えることがある。
すべての傷や病気を癒す手、あらゆる物を切り裂く剣技、だとするならばテレーゼのこれは……。
(……天上の、音楽)
神に供えるために奏でられる、至上の音楽。
それは恐ろしい想像だった。
グラーツ最高のクラウンベルガー音楽院で教師を、しかも学年主任を務めているぐらいだ、自分の腕には自信があった。
プロとして公演することもあり、そのつど人気を博している。
音楽決闘をしたことはないが、やればそれなりに勝てるという自信があった。
だが、神に味方された女には勝てない。
この先どれだけ努力しても、自分ではどうにもならない。
演奏家としてのプライドが砕けていくのをエメリッヒは感じ、たまらず瞑目した。
□ ■ □ ■ □ □ ■ □ ■ □ ■ □
気が付けば、演奏は終わっていた。
「……先生、エメリッヒ先生」
沈黙を続けるエメリッヒに、先生のうちのひとりが聞いて来た。
「講評を始めますが、先生からは何かありますか?」
先生は全員、興奮したように顔を赤くしている。
早く今の演奏について語りたいとばかりに、息を弾ませている。
そこに音楽家としての、同じ道を歩む者としての恐れはない。
あるのはただ、偉大なるものに接したという法悦のみ。
その愚かしさを、エメリッヒは呪った。
おまえたちにプライドはないのかと毒づきかけて……。
「……っ」
その瞬間、ハッと我に返った。
破滅的な思考をしていた自分の愚かさに、ようやく気づいた。気づけた。
(なんという愚かなことを考えていたのだ、わたしは。ギフト? バカを言え。自分に理解のできないものにレッテルを貼って誤魔化していただけだ。たしかにテレーゼの演奏は見事だった。現状では明らかにわたしの上にいる。だが……決して追いつけぬ高みではない)
ギリ、と奥歯を噛みしめた。
拳を握って机に打ち下ろすと、エメリッヒは勢いよく立ち上がった。
「……どうしたんですか? エメリッヒ先生、真っ赤な顔をして」
椅子に座り講評の結果を待つテレーゼが、口の端に笑みを浮かべながらこちらを見上げた。
「まるで悪魔にでも出会ったみたいですよ? なぁんて、うふふふふ……」
道で行き違えば10人中10人が振り返るだろう、妖精のような美貌。
コロコロと、いかにも少女らしい可憐な笑み。
だが、その奥にいるのは紛れもない悪魔だ。
尖った尻尾を生やし、人を惑わせ魅了する女悪魔。
「ふっ、ふはははははっ」
エメリッヒは笑った。
意図せず、心の底から笑みがこぼれた。
「面白い、面白いなテレーゼ君。君のようなピアノ弾きは初めてだよ」
先生たちに奇異な目で見られながらも、エメリッヒは構わず続けた。
「見事な演奏だった。だが、わたしを侮るなよ。技術はともかく、音楽に賭けてきた時間なら、情熱ならば君には負けない。この程度で壊れるような脆いものじゃないんだよ」
「あら、そうですか。それは残念」
テレーゼはエメリッヒの目を見つめた。
粘性の高い瞳で、じっと。煽るように。
「ではどうなさるおつもりですか? わたしを落とす? 遠ざけて自らの精神を健やかに保つ? それとも……」
「落とす? バカを言え、合格だよ。君ほどの標的を、みすみす逃がしてなるものか」
「標的……?」
訝し気な顔をするテレーゼに、エメリッヒは告げた。
「そうだ。わたしはいつか君を倒す。そしてピアノ弾きとしてのさらなる高みに昇る。これはその、宣戦布告だ」
震える膝を叱咤しながら、精いっぱいの勇気を込めて。
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