「『レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ①』」
夜想曲第20番 嬰ハ短調 KK.IVa-16『レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ』。
ショパンがまだ新進気鋭のピアニストだった時代、年齢でいうなら二十歳の頃に書かれたこの曲は、かの有名な夜想曲の中の一曲だ。
ノクターンの語源はラテン語にあり、修道院で行われる夜の祈祷を意味している。この曲は、夜を想い夜に祈る、若きショパンが綴った曲なのだ。
当時のショパンは、ひとりの女性に恋していた。
コンスタンツィア・グワドコフスカ。
音楽院の声楽家に在籍する学生であった彼女に伴奏をしてあげ、曲を作ってあげと、とにかく首ったけだった。
しかしその恋は、身分違いにより実らず終わる。
彼女はワルシャワ国立歌劇場でデビューするが、すぐに貴族の青年と結婚して引退する──
ついに叶わなかったショパンの恋を想いながら、わたしは緩やかに序奏を始めた。
シフトペダルを踏み込み音を弱めながら、小さく歌うように奏でていく。
イメージは夜だ。
亡命者ショパンは旅先の地で、二度とは戻れぬワルシャワを想う。
北欧の長くて寒い冬を、冬枯れの木の間を吹き抜ける風の音を、彼女の美しい横顔を。
彼はふと、喪失感を覚える。
最初はごくわずかだったそれは徐々に大きくなり、やがて耐えられないほどの重さになる。
背を丸め胸元を掴み口を開いたが、そこから言葉は漏れて来ない。
漏れるのは叫び、声なき叫び。
──繊細かつ軽やかなトリル……っ。
──なんだこれは……まるで人の声のような……?
トリルというのは、ドレドレドレのようにある音とその隣の音を交互に素早く弾く技法だが、音を装飾することで抜群のアクセントを生み出すことが出来る。
この場合、ショパンが意図したのは叫びだ。
失われた少女と、二度と故郷に戻れぬ寂しさに耐えられずにこぼれ出た、声にならない叫び。
──この曲のことをわたしは知らない。だが、何を表現しようとしているかは伝わって来るぞ。
──わたしもです。技術もだが、なんといっても素晴らしいのは表現力だ。
先生たちの口から出るのは感激の言葉。
──正直、技術をひけらかすような難曲を選択するものとばかり思ってました。
──例の開始前のやり取りからですね? わたしも同意見です。ですが、これでよかった。緩やかな曲だからこそ、奏者の腕前がよくわかる。
先生たちの印象はおおむね良好のようだ。
ひとりエメリッヒ先生だけが、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
口元がわずかに動いているのは、呪いの言葉でも吐いているのだろうか。
「……ま、どうでもいいけどね」
曲は中間部を過ぎ後半へ。
ショパンの悲しみはさらに深さを増していく。
彼の綴った絶望が、聴く者の目の前に夜を現出させる。
冬枯れの木の間を吹き抜ける風の肌ざわりを感じさせる。
例えそこが南国だったとしても、陽光降り注ぐ気持ちのよい日であったとしても。
ショパンの声が、それを許さない。
ショパンの想いが、世界を変える。
──……夜だ、夜になった。北国の冬の夜だ。
──なんてことでしょう、風の音すら聞こえてくるようだ……。
──空恐ろしいほどの表現力……っ。
──こ、こんなことが本当にありえるのか? この娘はわずか16歳だぞっ?
驚愕のあまり、先生たちは恐慌状態に陥っている。
エメリッヒ先生は目を閉じ、じっと何かに耐えている様子だ。
さあ、どうする?
他の先生たちを説き伏せればわたしは不合格。
でも、そんなこと出来る?
この演奏を前にしてウソをつける? 音楽家としての誇りを捻じ曲げられる?
「さあ、フィナーレよ」
ゆっくり静かに、囁くように弾き終えると、わたしは口の端に笑みを浮かべた。
席を立って先生たちのほうに振り返り、スカートの裾を摘まんで優雅に一礼した。
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