「『熱情』」
リリゼットの演奏があまりにも素晴らしかったので、聴衆はこれで勝負あったとばかりに集中力を切らしている。
大声で喋り、料理に舌鼓を打って酒を酌み交わす人もいる。
わたしに賭けている人たちは固唾を呑んで見守っているが、どことなく諦めにも似た表情を浮かべている。
ウィルは胸の前で手を組んで神に祈るように目を閉じ、アンナはその横から食い入るような視線をこちらに向けている。クロードは膝の上で拳を握り、歯をギリギリと食い縛っている。
リリゼットは黒服たちに飲み物を持ってこさせ、汗をタオルで拭って余裕の態度だが……。
「……行くわよ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作『ピアノソナタ第23番ヘ短調Op.57 熱情』」
ひっそりと曲名をつぶやくと、わたしは低く低く、地を這うように始めた──
ピアノの弟子でもあった貴族の娘ヨゼフィーヌへの叶わぬ恋を描いたこの曲は、ベートーヴェンのピアノソナタの中でも最高傑作とされている。
最も特徴的なのはその強弱。
第一楽章最初の非常に弱くは徐々に荒れ狂うような旋律となり、激しい転調を繰り返し、やがて非常に強くのクライマックスに到達する。
ピアノの持てる音域を上から下まですべて使わんとするかのようなダイナミックな構成に、聴衆が息を吞む気配が伝わって来る。
──おいおい、こっちもすごいぞ。さすがは東地区最強。
──誰だよ、西で決まりなんて言ってた奴は。
──この曲はいったいなんだ? どこの誰が作ったんだ?
──や、曲もだが、あのペダル……。
さすがは音楽の都だ。
運指や曲だけでなく、ペダリングまで気にする人がいる。
ちなみにグランドピアノには3つのペダルがあって、それぞれに機能が異なる。
音に伸びや広がりを与えたり、特定の音のみを伸ばしたり、逆に響きを弱めたり。
全然使わなくたって弾くこと自体は出来るが、使えば音に色付け出来て、より曲の方向性を明確にすることが出来る。
元々難しい機能ではあったので、昔の作曲家はいちいち楽譜の上では指定せず奏者各自の判断に委ねていたのだが、ハイドン以降、楽譜の上で指定する人が増えた。
中でもベートーヴェンのそれは特徴的だ。
それまでハッキリと澄んだ音色こそ至高とされていた作曲界に、この人はじわり滲むような色合いを持たらしたのだ。
あえて、意図的に。
──おい聞いたか? 今のとこペダルを踏みっぱなしだったぞ。
──ミスじゃないのか? そんなの普通じゃない。普通はもっとこうキッパリと……。
──や、だが効果はあったんじゃないか? たぶんだけど、ぼんやりしたニュアンスを持たせたというような……そこが逆に胸を突くというか……。
数多くの作曲家の中でも、ベートーヴェンほど実際に演奏される際の音にこだわった人はいない。
自身が難聴に悩まされたせいだろうか、その楽譜からは病的なまでのこだわりが垣間見える。
その最たるものがペダリングだ。
ペダルの踏みっぱなしは混沌を産む。
しかしその混沌こそが感動を産むと、彼は考えていたのだ。
──冗談でしょ、そんな使い方が……?
音楽革命といっても差し支えのないペダリングの意図に気づいたのだろう、リリゼットが立ち上がった。
手にしていたタオルを取り落とし、そのまま呆然と立ち尽くしている。
「……わかったんだ? 偉い偉い」
わたしはくすりと笑った。
笑いながら、『不滅の恋人』ヨゼフィーヌへの『熱情』を弾き続けた。
『君こそがわたしの人生のすべて』
『長く長く、我らの愛が続きますよう』
『貴女の忠実なるベートーヴェン、永久に貴女のために』
『さようなら、わたしの天使 』
死後に発見された十三通の恋文にしたためられていたという熱く狂おしい恋慕の情が、店内に響き渡る。
そのあまりもな純粋さに、時に狂気を感じる執着に、ついには誰もが言葉を失った。
固唾を飲んでベートーヴェンの恋の行く末を、悲しみを見守っている。
それは決闘相手であるリリゼットでさえも。
「……」
たしかに今のわたしは本調子じゃない。
全盛期の半分ちょっとぐらいで、純粋な運指だけで言うならリリゼットのほうが上だろう。
だけどピアノはそれだけじゃないんだ。
ペダルを踏む、音のバランスを意識する、楽曲への理解度を深める。身体を効率的に使うことで、後半でもダレない余力を作る。
ひとつひとつは些細なそれらが、やがて大きな力となって跳ね返ってくる。
ただの曲を名曲にし、名曲を超名曲へと昇華させる。
すべてのピースがかっちりはまった瞬間、そこには感動が産まれる。
激情のアルペジオで第三楽章を弾き終えると、万雷の拍手が沸き起こった。
その量は、勢いは、リリゼットのそれよりも明らかに上だった。
テレーゼの活躍が気になる方は下の☆☆☆☆☆で応援お願いします!
感想、レビュー、ブクマ、などもいただけると励みになります!




