「『木星』」
注目の中、リリゼットは演奏を始めた。
さすがは歴戦の決闘者にして西地区最強の女、まったく臆することなく堂々と弾き始めた。
「へえ……やるじゃない」
わたしは思わず感心した。
乙女ゲー『わたしたちの楽園』で使われているBGMは、クラシックの名曲をアレンジしたものが多い。
ゲームへの没入感を邪魔せず高級感を演出するといった趣向らしいが、編曲家の腕が良いのもあって、なかなかに聞かせる曲が多い。
リリゼットが選んだ曲は『グランノヴァ』。
大いなる新星を意味するゲーム中の音楽で、たしかグスターブ・ホルストの組曲『惑星』の中の一曲である『木星』を元にした独奏曲だ。
戦没者への哀悼や平和への祈りが込められた『木星』は讃美歌として歌われ、広くイギリス国民に愛されている曲でもある。
位置づけとしてはこちらの世界でも変わらないのだろうか、みんなはうんうんとうなずきながら耳を傾けている。
よほど耳に馴染んでいるのだろう、中には歌を口ずさむ人もいる。
勇壮な第一主題、躍動的な第二主題、舞い踊るような第三主題──
──……見ろよ、あの指。鍵盤の上を踊るような。
──さすがは『舞姫』、こっちまで雄大な円舞の中に巻き込まれたようだ。
──あの表情……自信満々だな。さあこの曲を聴けと言わんばかり、そしてたしかに見事だ。これは拍手せざるを得ない。
──西地区25連勝だって? こんなの誰が止められるんだよ。
賞賛の声がそこかしこから漏れ聞こえる。
第二部の、木星の中で最も有名なメロディに差し掛かると、素晴らしさに涙を流す人まで出て来た。
「ふうーん……」
わたしはリリゼットの横顔を見つめた。
緩く笑みを形作る唇、自信に満ち満ちた藍色の瞳。
特に印象的なのは、背中のアーチだ。
日々の研鑽の賜物だろう、鍛え上げられた背筋が美しくたわみ、時に反り返る。
そうして生まれた力が肩、肘、手首、指先を伝わり鍵盤を押し下げる。
押し下げられた鍵盤がハンマーを持ち上げ弦を打つ。
生まれた音がピアノの中を共鳴し、音楽として店の中を跳ね回る。
さながら、超新星爆発のように。
「……なるほどね」
確信した。
お嬢様の手遊びじゃない、リリゼットは生粋のピアノ弾きだ。
感心しているうちにも曲は進む。
転調の連続、複層和音──ここぞとばかりにフォルテッシモを重ねて弾き終えたリリゼットがツインテールを揺らしながら立ち上がると、万雷の拍手が沸き起こった。
口笛が吹き鳴らされ、足踏みが鳴らされ、至る所でジョッキが持ち上げられた。大型カメラのフラッシュが閃光を放った。
「さあ、次はあなたの番よ」
息を弾ませ、頬をわずかに上気させながら、挑みかかるような目でリリゼットがわたしを見つめてくる。
「これを超える曲、弾けるもんなら弾いてごらんなさい」
真っ正面から煽り立てて来るが……。
「ふん、上等よ」
しかしわたしは、小さく笑った。
そんな煽りなど効くものかとばかりに勢いよく立ち上がると、まっすぐにピアノへと向かって歩いて行く。
リリゼットの演奏はわずかなミスもなく完璧で、曲もまた素晴らしいものだった。
西地区最強の看板に偽りなし。今までの決闘者とは比べものにならない、本当の強敵だ。
聴衆の反応次第では負ける可能性だってある。
連勝が止まり、新聞でこき下ろされ、バルの看板に傷つく可能性だってある。
だけど──
「……それがどうした」
わたしはつぶやいた。
「こちとら、くぐった修羅場の数なら負けてないのよ」
落とせないコンクールがいくつもあった。
負けられない戦いがいくつもあった。
ここぞというその局面でこそわたしは力を発揮し、ことごとくに勝利して来た。
村浜沙織。
そう、あの天才以外には──
「リリゼット。たしかにあんたは上手いわ。自分自身でもそれはわかっていて、だから信じてるんでしょうね。プロのピアノ弾きとして成功するだろう未来を、輝きに満ちた人生を。でも甘いわね。この世には天井があるんだってことを、あんたは知らない。それを今から、教えてあげる」
椅子に座って高さと位置を整えると、わたしは息を吸い込んだ。
背筋をピンと伸ばすと、まっすぐに鍵盤に手を伸ばした。
「……行くわよ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作『ピアノソナタ第23番ヘ短調Op.57 熱情』」
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