「暗闇のミュージック」
モーツァルトの父レオポルトは宮廷音楽家だった。
自らの地位を上げるための努力を惜しまない向上心のある男だったが、願いは叶わず地位は低いままだった。
ならばと自らの代わりに目をつけたのがモーツァルトだ。
三歳の時にクラヴィーアを覚え、五歳で作曲を始めた神童を売り込むため、レオポルトは長い長い演奏旅行に出た。
モーツァルトが青年になるまで続けられることになったその演奏旅行の中で、レオポルトは様々な要求を課した。
即興演奏はもちろん、後ろ向きに鍵盤を弾かせたり、目隠ししてピアノを弾かせたり。
とにかく聴衆の意表をつくことを積極的に行わせた。
その偉業は後にモーツァルトの伝説性を補強する担保になってもいるのだが……。
「……ねえテレーゼ、ホントにやるの?」
照明を落とす少し前、最後の確認とでもいうかのようにリリゼットが聞いて来た。
その表情には、明らかな戸惑いがある。
そんなことがホントに出来るのかというような恐れがある。
そうね、リリゼットみたいな優等生にはわからないかもね。
逆境の中にある人間のあがき方が、その理由が。
それがどんな結果をもたらすかすらも。
「やるよ、もちろんやる。言っとくけど、こうゆーのは最初が肝心なんだからね? 前奏で外したら、誰もまともには聴いてくれないんだから」
「そうかもだけど……。でも他に方法が……」
自らの肘を抱え込むようにしながら、リリゼットは目を左右に動かす。
その恐れはよくわかる。
ただでさえ毎日毎度バカにして来た連中が観客席にいるのだ。
少しでも落ち度があったら途端にバカにしようとして待ち構えているのだ。
すべての懸念材料を取っ払っておきたいと考えるのが普通だろう。
少しでも怪しげなことはしたくないと考えるのが普通だろう。
でもね。ねえ、リリゼット──
守ってばかりじゃ見えない境地ってものがあるんだよ──
こと音楽というものに関してはね。最初のパンチが大事なんだ──
「だーいじょうぶ、任せてよ。わたし、事こういう曲芸に関しては自信があるんだから」
音大生時代はストレス解消で毎日やってたからね。
などという裏事情はともかく、わたしはニカッと笑ってサムズアップして見せた。
「……わかったわよ。ホントに頑固な奴ね、あなたって」
最終的に折れたリリゼットは呆れたように肩を竦めると、速やかに照明を落とした。
店内にふっと闇が落ち、観客席からざわめきが聞こえて来る。
ステージ袖で待機するホステスさんたちが息を詰める気配がする。
観客席の一番奥で、心配そうに息をひそめるクロードたちの気配がする。
そんな中──わたしは弾き始めた。
「行くわよ。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作『ト長調K. 525 アイネ・クライネ・ナハトムジーク』」
天才モーツァルトの遺した、最後のセレナードを。
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