「上手くなることがすべてではない」
わたしがピアノを弾くようになってから、バルのお客は日増しに増え続けた。
昼、夕方、夜と時間によって客層は違うが、最近ではどの時間もだいたい満席。
調子がいい時は通りに臨時でテーブルを並べるほどだ(都庁に時間単位で申請出来る。もちろんお金はかかるが、飲み食い代に上乗せすることで最終的にはプラスになるのだとか)。
「いやー、なんとも忙しい」
昼の部の演奏が終わってのんびりエールをあおっているわたしの傍で、テオさんはアルバイト募集の張り紙を書いている。
なんでも忙しすぎて人手が足りず、追加が欲しいのだとか。
「ま、嬉しい悲鳴ってとこだがな。ん~んん~♪」
昔はテノール歌手志望だったというだけあって、しっかりビブラートの効いた鼻歌を歌っているテオさんは、実に機嫌が良さそうだ。
「ふふふ、それは嬉しいですねえ~」
おつまみで出してくれたウィンナーにマスタードをつけてかぶりつきながら、わたしもご機嫌で微笑んだ。
お客さんが増えて店の売り上げが増えてテオさんが喜ぶ。
チップの量が増えてわたしが喜ぶ。
まかないで出されるお酒も美味いし料理も美味い。
まさにウィンウィンな関係だ。
「これもお嬢ちゃん様々だな」
「いやいやいや、このお店の力ですよ。料理とお酒が美味しくてみなさんの接客もハキハキとして気持ちいいから、みんながリピーターになってくれてるんです。わたしは最初のきっかけを与えただけにすぎません」
容姿の素晴らしさはそもそもテレーゼのおかげだし、曲の素晴らしさは偉大なる巨匠たちのおかげだ。
わたし自身はただ単に暗譜が得意で、ちょっと人よりピアノにかけてきた時間が多いというだけの超凡才。
「わたしの演奏なんてそのぐらいのもんなんですよぉ~」
手をパタパタ振ってケラケラ笑いながら言うと、なぜだろうテオさんはいかにも感心したというようにため息をついた。
「はああ~、お嬢ちゃんは本当に謙虚だよなあ~……。普通はそんだけ弾けたら調子に乗るもんだと思うが、そういう部分がまったくないもんなあ~……」
あれ? もしかして謙遜してると思われてる?
ん~……全然そんなことなくて、完全に過大評価なんだけどなあ~……。
単純に偉大な作曲家たちがすごいだけで……などと思っていると。
「そんなことないですっ。先生はホントにすごいです。ボク、尊敬してるんですからっ」
いつの間にか音楽院から帰って来ていたウィルが、キラキラと目を輝かせながらわたしの隣に座った。
「音楽院の先生とか、プロの決闘者とか、ピアノ弾きとか、グラーツの誰も勝てないと思います」
「ええ~? それは言い過ぎだよぉ~」
「言い過ぎじゃないですよ、絶対ですっ」
ウィルは拳を握って力説した。
「だからボクも、早く先生みたいなピアノが弾けるようになりたくて……」
休み時間も休まず練習して、昼休みにはパンをくわえながらピアノに向かって、昨日わたしが与えた課題を全部こなしてきたのだとか。
そんでもって、すぐに次の課題が欲しいのだとか。
「……ホントにあんたって練習の虫よね。まったく何が楽しいのかしら」
一緒に帰って来たのだろうアンナがしみじみと言う。
自分の肩を抱いて怖気を振るうようなしぐさまでしているところを見るに、ウィルはよっぽど集中して練習していたのだろう。
「おおー、偉いねー。偉いけど、休む時はきちんと休もうねー」
頭を撫でながらのわたしの言葉に、しかしウィルは鋭く反発する。
「ダメですそんなの、せっかく先生に教えてもらってるんだから。いっぱいいっぱい努力しないと失礼ですから」
「うっわ……あなたけっこう体育会系なのね……。しかしんんんー……新しい課題かあー……どうしよっかなあー……」
わたしはしばし悩んだ。
今のウィルに課している練習量は、向こうの世界の一般的な子供たちよりやや少ないぐらい。わたしの子供の頃と比べると三分の一弱といったところか。
ウィルの素質を考えるなら、たしかにもう少し早くステップアップさせてもいいのかもしれないけど……。
「うう~ん……」
しかし、なかなか踏ん切りがつかない。
音楽院を優秀な成績で卒業し、プロのピアノ弾きになりたい。
テオさんのお店でピアノを弾き、親子で店を盛り立てたい。
そう願うウィルの心根は素晴らしいものだ。
わたしの課題を忠実にこなし、貪欲に技術を吸収し、上手くなろうという姿勢も、他に替えがたいものだ。
でも、上手くなることがすべてではないとわたしは思う。
子供は子供らしくあるべきだし、音楽は楽しむものである。
辛いだけの練習や高いだけのハードルは、本人が苦労をするだけ。
もしこの先どこかでつまづいたりしたら、このコはピアノを嫌いになってしまうかもしれない。
それだけは嫌だった。
かつて自分自身で味わったあの辛さが、大好きなピアノを一度でも嫌いになってしまった事実が、今も胸の中でわだかまっている。
ウィルにはそんな風になって欲しくない。
いつだって楽しく、目をキラキラさせながらピアノに向かって欲しい。
「先生……?」
悩むわたしに、不安そうな目を向けてくるウィル。
「あーダメダメ。そんな可愛い顔したってダメだから。い~い? 休むのだって練習なんだからね? 腱鞘炎になってからじゃ遅いんだから」
「け、けんしょうえんですか?」
ド・ケルンバ病、ばね指、上腕骨上顆炎、総じて腱鞘炎と呼ばれるそれは、ピアノ弾きの永遠の敵だ。体の未成熟な子供がとくに気を付けなければならない病気だ。
何せ一度かかってしまうとまともな練習が出来なくなるし、予定していたコンクールに出場出来なくなることもあし、それが原因でピアノをやめてしまうコだっているぐらい。
「そ、そんな怖い病気が……?」
わたしの説明に、ウィルは青い顔をして怯んだ。
「そうよー。そうならないために大事なのは脱力、ストレッチにマッサージ、つまり血行をよくすること。あとはなんといってもおおおー……」
「わっ? せ……先生っ?」
「休憩だっ」
「わひゃっ……? ひゃあああああっ!?」
全力で脇をくすぐると、ウィルはたまらず悲鳴を上げた。
顔を真っ赤にして、手足をバタバタさせて悶え苦しんだ。
「た……助け……っ、せんせい、許して……っ」
「今日は休むと誓ったら許してあげる。どう?」
「わ、わかりました休みますっ。休みますからあーっ」
とうとう耐えきれなくなり、涙目になって懇願して来るウィル。
「ようーっし、じゃあ決まりねっ。今日はお休み。先生とアンナと3人で、他のことして遊ぼうかーっ」
「ちょ、ちょっとなんでわたしまで……っ」
とか言いつつも、ウィルに気があるのだろうアンナはまんざらでもない様子。
「ま、まあたしかに休憩は大事だしね。わたしも最近頑張りすぎてたから、他のことをするのも悪くないかも……?」
髪の毛の先をいじりながらのそのセリフは、まさに正統派ツンデレ娘のもの。
ウィルは絶対彼女の気持ちに気づいてないんだけど、そこも含めて実に観察しがいがあるふたりだ。
あー、こりゃ飯がススむわい。
「ああ~……少年少女のほのかな恋の予感……癒されるうぅ~……」
ニマニマしながらわたしは、ふたりの様子を眺めていたのだった。
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