「MPはゼロ」
今日も今日とて『酔いどれドラゴン亭』にてピアノ弾きの仕事をしていた最中のことだった。
不意に背筋に、ゾゾゾと寒気が走った。
「うっ……なにかしら、背筋に悪寒が……? まるで誰かに呪いでもかけられたような……?」
嫌な感覚に首をすくめていると、わたしの手元を覗き込んでいたウィルが心配そうな声を漏らした。
「大丈夫ですか? 先生。春とはいえまだ寒いですし、風邪とかひいたら……」
んー、わずか10歳にしてもう他人に気遣いの出来る、実にいいコだねキミは。
瞳を揺らし、不安そうに唇を噛むしぐさがまた可愛らしくて、思わず抱きしめて家に持ち帰ってしまいたい衝動にかられるよお姉さんはってあー、いかんいかん。この発想は性犯罪者のそれに近い。
「落ち着いて落ち着いて、そうだこういう時は素数を数えるの。2、3、7……あ、5が抜けた……」
強めにかぶりを振ると、わたしはドンと胸を叩いた。
「大丈夫よ、ウィル。先生はピアノの腕と健康だけが取り柄なんだから」
自慢にもならない自慢だが、わたしは子供の頃からブラック派遣会社に至るまで、どんな過酷な状況に置かれても病気らしい病気をしたことがない。
逆に言うならそのせいで休むことが出来ずにハードな練習やら仕事やらを延々させ続けられてきたわけだが。
テレーゼの体もそれに近いものを感じる、
見た目は体は細くたおやかでちょっと手荒にすると折れてしまいそうだが、胃も歯も丈夫ですぐお腹が空くし、寝つきも超絶良い。
よく食べてよく寝る人はなかなか病気にかからないって言うけれど、まさにあの感じがする。
「さ、そんなことはいいから練習、練習。さあウィル、この前出した宿題の続きよ、弾いて聞かせて」
わたしは笑顔を作ると、ウィルの肩をぽんと叩いた。
「はい、わかりました。では聴いてください」
ウィルはこくりとうなずくと、緊張した面持ちで鍵盤に手を伸ばした。
弾き始めた曲は『エリーゼのために(簡易版)』。
代理決闘でわたしが弾いた例のやつね。
初心者向けとかいうくせに原曲はけっこう難易度高いんだけど、簡易版なら大丈夫。
「ふんふん、いいんじゃない? よく弾けてるわ」
まだ暗譜は出来ていないものの、わたしが書いた譜面を頼りに頑張って弾いている。
強弱の付け方や拍の取り方などはまだまだだが、きちんと最後まで通しでやれる。
うんうん、始めて2週間でこれならかなり良いほうだと思う。
ウィルはけっこう優秀な生徒なんじゃなかろうか。
「ホントですか? ありがとうございますっ」
褒められたことが嬉しかったのか、ホワアと頬を染めて喜ぶウィル。
「でも、ホントに綺麗な曲ですよね。これって誰が作ったんですか? ベートーヴェン……とか言ってましたけど、どこの方なんですか?」
「ええと……ベートーヴェンはヨーロッパのドイツのボンの人で……」
ってダメだ。
その辺の『設定』全然練れてなかったわ。
考えてみればわたしはこれ以外にも様々な巨匠たちの作品を弾いてきた。
どれもこれもこっちの世界じゃオーパーツ級の名曲揃いで、そのたび感動の嵐が吹き荒れたものだが……。
考えてみれば、これだけの曲を書ける人が無名なわけがない。
いやまあ、死んでからようやくヨーロッパ中に名前の知られたシューベルトみたいな例もあるけどさ、普通はない。
とすると、何か上手い言い訳を考えないと……んんんん~……。
「ううーんとね、ええーと……。一応その……わたしがその……作曲する時に気分で別の名前を使ってるというか……」
「え、つまり先生が作ったってことですか?」
「ええと、わたしではないんだけどわたしでもあるというかその……」
悩んだ末に決めたのは、わたしが本名ではなく他の名前を使って書いているという『設定』だった。
だってそうすれば、作曲家の身元を探られる恐れがないから。
つまりこの瞬間からわたしはベートーヴェンでありモーツァルトでありチャイコフスキーであり……ともかくウルトラゴージャススーパーアメイジングパーフェクト超絶天才作曲家となってしまったわけなのだ。
「なんでそんなことをしたのかというと、本名で出すのは恥ずかしいからで、その……」
かなーりしどろもどろな説明だったが、ウィルはあっさりと納得してくれた。
それだけでなく……。
「わあ、すごいや先生っ。あんなにたくさんの種類の曲を、あんなにいろんなタッチで書けるなんてっ」
手を叩いて褒めてくれた。
汚れを知らない純粋な瞳が、キラキラ輝きを放ちながらわたしに向けられる。
「ぐうっ……?」
胸を押さえ歯を食いしばり、罪悪感に苦しむわたし。
十字架を向けられた吸血鬼ってこんな気持ちなのだろうかというぐらい強烈なダメージがある。
「ボク、こんなに素敵な曲初めて聞きましたっ。きっとみんなもそうだと思いますよ? うわあー、すごいなあーっ。みんなに自慢したいなあーっ。こんなすごい人がボクの先生なんだぞって、大声で言って回りたいっ」
「うううぅっ……?」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、あなたたちの成果を横取りしちゃってごめんなさいパブリックドメインってことでどうか勘弁してくださいうあああああでも、名前を騙るのは完全にアウト? うわああああああああんっ。
偉大な巨匠たちへ、わたしは胸中でスライディング土下座した。
「と、とりあえずそういうわけで、作者名を口にするのはナシってことでいいかしら? わたしもなるべく言わないようにするし……聞かれたら答えるけど、そうでない限りは答えないというか……。ほらその……自分の実力を吹聴するようなのってちょっと恥ずかしいし?」
「ええ~……そうなんですか~……?」
残念だよう、とばかり顔を曇らせるウィル。
だが、すぐに気を取り直したように拳を握った。
「でも大丈夫ですよね。この曲のすごさにみんなが気がつかないわけないですから。先生は作曲の方でもすぐに有名人になりますよ。新聞に載って、殿堂入りだってしちゃうかも」
「ううううううう……っ?」
やめて、先生のMPはもうゼロよ。
心の中で叫びながらもそんな風に、わたしはウィルにピアノを教え続けた。
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