「リリゼットロス」
リリゼットが学校を辞めて南部へ旅立ってから、二週間が過ぎた。
その間もわたしは、いつも通りの日々を過ごしていた。
朝起きたらクロードの作ってくれた朝食を食べ、皿洗いはわたしが担当。
カーテンを引いて身づくろいを行うと、肩を並べて音楽院へ向かう(以前はクロードが半歩後ろからついてくる感じだったのを、わたしが言ってやめさせたのだ)。
その後はバルの前でウィルやアンナと合流。
エメリッヒ先生の家を訪れると、やだ出たくないとグズるカーミラを連れ出す。
音楽院の馬車溜まりでハンネスと合流した後は、上級生と下級生で別行動。
これまたママと離れたくないと駄々をこねるカーミラを無理やり引き剥がし、上級生の教室へ。
午前中の授業が終わったら大食堂でみんなで昼食をとり、時には中庭でお弁当を広げる。
わたしが作ったお弁当、アンナの作ったお弁当、エマさんの作ったお弁当。
三者三様のお弁当をみんなで食べ合って英気を養ったら(わたしのお弁当で英気を養えるかどうかは別としてだ)午後の授業の始まりだ。
食後特有の眠気と戦いながら、時に敗北しながら放課後。
隔日で行われるようになった『金曜会』……もはや『金曜会』ではない何かがある日はみんなでピアノ練習。カーミラはみんなの伴奏のもとで声楽の練習。
終わったら一緒に帰宅し、わたしはバルでピアノ弾きのお仕事をする。
お客さんのリクエストにこたえながら数曲弾くと、まかないのお時間だ。
クロードと一緒にテオさんお手製の定食を食べ、時にエールをあおったら、後半へ突入する。
再び数曲弾くと、お仕事はそれで終わり。
たっぷり溜まったチップを回収すると、お客さんに投げキッス(36歳喪女の投げキッスが欲しいかどうかは別として、見た目は超絶美少女だから、ほら)をしてから帰宅する。
帰宅してからはクロードと肩を並べて銭湯に向かう。
グラーツは周辺国家の中でも有数の温泉湧出地で、街中ならどこでもぬるい炭酸泉に浸かることが出来る。
下町でもそれは同じで、近所のおばちゃんたちが子供を連れてやって来る。
姦しい会話を聞きながら、時に全力で巻き込まれながら30分も浸かるとお湯から上がる。
銭湯の外に出ると、先に出て待っていたクロードと一緒に帰宅する。
部屋着に着替えると、そのままベッドにズドン。
朝までぐっすり眠ると、新たな一日が始まる。
平和で何も代わり映えしない、そんな日々が続いてた。
リリゼットの不在について、誰も口にしなかった。
その話題に触れることすら恐れるように、ひと言も。
だけどまったく気にしていないわけではないのだ。寂しくないわけではないのだ。
それはみんなの目線を見ればわかる。
会話の流れの中で、いつもだったらリリゼットがいる位置に話しかけようとしたり、大食堂での注文数がおかしかったり。
彼女の不在はみんなが気にしてて、確実にダメージを受けている。
「あ~あ、これってあれだよねえ~。リリゼットロス」
とある休日のことだった。
バルでのお昼の部の演奏を終えたわたしは、クロードが待っていたテーブルに着くなり突っ伏した。
「リリゼット様ロス……ですか?」
「そうだよ。今までいつだってそこにいた人がいなくなったりした時に感じる喪失感的なあれのことを言うんだよ。ペットロスとかさ、飼い猫とか飼い犬が死んじゃったりした時によく使われる言葉なんだけど」
リリゼットは遠くへ行ってしまった。
もちろん永劫の別れって距離じゃないし、そもそも同じ都市の中なんだから、会おうと思えば会えるはず。
でも、いざとなると尻込みしてしまうのも事実だった。
だって最初は、生活基盤を整えるだけでも大変だろうし。
住む場所に働く場所に、そこでの人間関係に、それらを築き直すだけでも大変だろうし。
「ああ~、リリゼットに会いたいなあ~。でも今行ったら迷惑かなあ~邪魔かなあ~。今まさに忙しいところに押しかけたら迷惑だろうし、ん~……」
などとわたしがうねうねしていると……。
「なんだいテレーゼちゃん。リリゼットちゃんが南部へ行ったんだって?」
エールのジョッキを手にしたザムドさんがやって来た。
クロードの冷たい視線も構わず(なんでかこのふたりは仲が悪いのだ)、わたしの隣にどかっと座る。
「ん~、そうなの~。行っちゃったんだよお~。武者修行をするって言ってさあ~。音楽院まで辞めてさあ~」
「なるほど。そいつは心配だねえ。よりにもよって南部じゃあなあ……」
「うんうん、そうなの~。よりにもよって……ん? よりにもよって?」
ザムドさんのおかしな言い回しに、わたしの心の中の警報が鳴った。
「え、どうゆーこと? ザムドさん、よりにもよってってどうゆーこと?」
「あー……その調子じゃ知らないみたいだな。あのな、南部ってのは工業地区で、労働者を相手の歓楽街があるんだ。ギャンブルも盛んで、ご禁制のドラッグだって流行ってて。マフィアもいるし、街中じゃ昼間も犯罪が絶えなくて……」
南部産まれ南部育ちのザムドさんとしては、一般人が気軽に住めるところでは決してないという。
「うわあ~……リリゼットってばそんなところに住んでるのお~……?」
わたしは頭を抱えた。
「なんだよ~、南部って自由な音楽が売りだから、もっと開放的でハッピーなとこだと思ってたよお~……」
「俺にはよくわからないが、音楽自体は流行ってるよ。街角で弾いてる姿もよく見るし、この手の音楽バルもよくある。コンサートやらなんやらもそれなりにな。住民は総じて明るくて賑やかで、その陽気さが音楽に表れてるのかもしれない」
「……でも、犯罪は多いんでしょ?」
「陽気だから平和ってことにはならないさ。貧しい現状を変えようと思うなら、犯罪ってのは一番手っ取り早い手段だからね」
「んん~……」
わたしは唸った。
南部出身のザムドさんは簡単に言うが、日本に産まれ育ったわたしにとって、それはあまりに恐ろしいことだ。
今まさに友人が、どこぞの外国のスラム街で暮らしていますというのと同じぐらいの恐怖がある。
ましてやあのケンカっ早いリリゼットのことだ。
売り言葉に買い言葉でケンカを買い、ひどい目に遭っているかもしれない。
そうでなくてもあの美貌だもん。おかしなことを考える男のひとりやふたりいるかもしれない。
もしそうなったら、そうなってしまったとしたら……。
「よし! 決めた!」
バァンとテーブルを叩くと、わたしは立ち上がった。
驚くザムドさんに向き直ると、まっすぐ目を見てお願いした。
「ねえザムドさん! わたしと一緒に南部に行こう! 行って、今のリリゼットの生活を確かめるの! それがもし危険で、このまま放ってはおけないとなったら連れ戻すの!」
南部篇の始まりです。
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