「南部へ」
~~~リリゼット視点~~~
演奏が終わってからも、リリゼットはしばらくの間動けなかった。
皆がスタンディングオベーションをする中、ひとり座席に座り込んでいた。
いつもより何倍も重い重力が体にかかって、動くことが出来ないでいた。
称賛する気持ちは当然ある。
素晴らしい楽曲に素晴らしい演奏、音楽堂の中に現出した嵐。
よくぞ聴かせてくれた、お見事だった。
ひとりのピアノ弾きとして、そういう気持ちはたしかにある。
「ち──」
だが、悔しかった。
それはやはり、ひとりのピアノ弾きとして。
この演奏をしたのが自分でないことが悔しかった。
この称賛を浴びているのが自分でないことが悔しかった。
テレーゼがこの演奏にこめたメッセージの意味、その正しさも含めて。
「くしょう──っ」
悔しい。
はらわたが煮えくりかえるほどに悔しい。
「やってくれるじゃない──」
怒りのあまり手が震える、怒りのせいで目の前の景色が歪む。
強く噛みしめたせいで、唇から血が滲む。
「天才ね、ホントに、あなたは。認めてあげる。今まで見て来た中で、あなたほどのピアノ弾きはいないわ。でもね──」
歯を食いしばると、リリゼットは肘掛けを掴んだ。
重力を断ち切らんと渾身の力をこめて、立ち上がった。
「このままで、済ますと思うなよ──」
低くつぶやいた。
「わたしがこのまま、終わると思うなよ──」
恨みごとを述べるように、低く低く。
「ツキカゲ、コウゲツ。帰るわよ」
ステージ上を一瞥すると、リリゼットは後ろに控える護衛のふたりに呼びかけた。
「……わかりました。しかしお嬢、最後まで結果を聞いていかなくてよろしいので?」
背の高いツキカゲが疑問を呈す。
「この後すぐに、発表のはずですが……」
背の低い、でっぷり太ったコウゲツもまた、心配そうに聞いてくる。
「結果? はん、そんなの聞くまでもないでしょ。これで満点出さない奴は審査員を名乗る資格がない。そんなの、この会場の誰もが知ってるわ。下手な点数つけたら袋叩きよ」
大歓声はなおも続いている。
皆が立ち上がり、手を叩いて称賛の言葉を叫んでいる。
今まで数多くの音楽決闘やコンテストを見て来たが、これほど凄まじいのは聞いたことがない。
しかもテレーゼが弾くのはこれが二度目。
二台四手の時だって、採点結果に関しては相当なブーイングがあったのだ。
それを考えれば、ここでおかしな点数はつけられまい。
「過去最高の演奏だった。それだけわかってれば十分でしょ」
渡されたコートを羽織ると、リリゼットはコツコツと足早に歩き出した。
「……ふん、この中にいったいどれだけのピアノ弾きがいるのかしらね」
歩きながらつぶやいた。
「そいつらのどれぐらいがテレーゼを称賛して、その上で絶対勝てないと諦めてるのかしらね」
ピアノ弾きである以上、その道で生きていくと決めた以上、自らが下であると認めることは出来ない。絶対に。
今は下でもそのうち勝てる。そう思わなければ、そのための努力をしなければ、ピアノ弾きとしてのそいつの人生はそこで終わる。
テレーゼはそう考えていた。
史上最高のピアノ弾きに自分はなれる、そう思っていない者はなれないのだと。
「わたしは違う。わたしは諦めたりなんかしない。わたしは……わたしが勝つ、勝ってみせる……っ」
決意の炎を胸に燃やしながら、リリゼットは歩き続けた。
「ツキカゲ、コウゲツ」
ロビーを出て馬車溜まりに着いたところで、リリゼットは後ろのふたりに呼びかけた。
「あの話だけど、やっぱり決めたから。わたしは家を出るわ。家を出て南部に住む」
グラーツの都はその地域によって音楽性が変わる。
北は堅牢、南は自由、東西はその中間。
「南部の音楽を学んで、もっと華麗に、もっと強く演奏してみせる。そしてテレーゼに勝つ。あなたたちは好きにしていいわ。このまま家にとどまるでもいいし、他の仕事を探すでもいい。もしそうするなら、お父様に口を利いてもらえるよう頼んであげるから……」
「「わたしどもは、どこへ行くにもお嬢と一緒でございます」」
食い気味に、ふたりは答えた。
「……ついて来る。ホントに? 本気で言ってるの?」
「「はい」」
「家を出るってことは、もう家の援助が受けられないってことなのよ? わたしはただのリリゼット。給金だって出ないのよ?」
「「はい、存じでおります」」
「……っ」
驚いた。
リリゼットが小さな頃から傍に仕えて来たふたりの護衛が、リリゼットが家を捨ててもなおついて来てくれると言っている。
なんの保証もないのに、生活すら怪しいのに。
そしてそうだ、その関係は、テレーゼとクロードのそれによく似ている。
「あ、あははははっ。あなたたちって、ホントにバカね」
リリゼットは笑った。
こんなバカみたいな悪条件を好んで飲む奴がグラーツにもいたのだと。
それがおかしくておかしくて、しかたがなかった。
「でもいいわ。そういうの、嫌いじゃない」
笑いを納めると、リリゼットは腰に手を当てた。
いつも通りの彼女に戻ると、頭をそびやかすようにして命令を下した。
「それじゃ、ついて来なさい。わたしと一緒に、南部へ。とんでもなく忙しい日々が待ってると思うけど、せいぜい振り落とされないようにね」
少女は南へ向かう。
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