「『テンペスト』」
「さあ聴きなさい、リリゼット。これがルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作『ピアノ・ソナタ第17番ニ短調Op.31-2テンペスト』よ」
曲名を発するのと同時、わたしは鍵盤の上に指を落とした。
88鍵の白と黒の連なりに、埋没した。
第一楽章──
ラルゴ-アレグロ──『緩やかに』と『速く』、ふたつのテンポの間を目まぐるしく行き交うように。
──まあ、先ほどの曲とはまるで異なる雰囲気ね。
──暗くて重くて、怖いようだわ。
ハンネスと一緒に弾いたモーツァルトの明るいイメージとは180度違う楽曲に、観客たちは驚いたように目を見開いた。
そしてその通り。
この曲は、数あるベートーヴェンのピアノ・ソナタの中でもダントツに緊迫感の高い作品だ。
全体的に暗く重く、圧し掛かるような不穏さがあり、まさに嵐の訪れを想起させる。
──さっきの曲の印象が強いから、ちょっとこれは……。
──そうね。たしかに上手いけど、なんだか……。
女性客を中心に、非難の声が上がる。
期待外れというような雰囲気が、そこここで醸成される。
男性客もまたそれに感化され、会場全体がいやーな雰囲気に包まれる。
「知ってる知ってる。普通に考えたらここでこの曲はないよね。みんなはもっと明るいイメージの曲を求めるよね。実際、以前のわたしならそうゆーのを選んでたと思う。キャッチーなセットリストってやつ。だけどさあ、たぶんそれじゃダメなんだ。想像の範囲内にいるようじゃ、本当に強い感動は与えられないんだ」
会場の雰囲気などまるで無視して、わたしは左手を振り下ろした。
ドスンとテンポを落とし、さらに陰鬱な空気を強調した。
「聴き手におもねってちゃダメなんだ。もっと自分を信じて、構成を練って、誰もが思ってもみなかった角度から仕掛けなきゃダメなんだ。だってこれは、コンテストなんだもん。最後に勝つ、勝って笑う。そのためにもここは強く、重く、裏切ることを恐れちゃダメだ……っ」
歯を食いしばりながら突入した第二楽章は一転アダージョ──『緩やかに』、だ。
あくまで暗くはあるのだが、第一楽章よりは平穏で、そしてほのかに希望の光が見えて来る。
──あら今、ちょっと可愛いフレーズが……?
──そうね、なんだかホッとしたわ。あのままいったらどうなることかと思ってた。
観客はほっと胸を撫で下ろし、安堵を口にする。
ここから先の、希望に満ちた未来を夢想する。
それすらもがすべてベートーヴェンの罠なのだとも知らずに。
「……まあそう思うよね、わたしもそうだったもん」
かつての自分を眺めるような気持ちで、わたしは楽しくなった。
くすりと笑いながら、指を走らせた。
この曲を作曲するにあたって、ベートーヴェンはシェークスピアの戯曲『テンペスト』にインスピレーションを得たと言われている。
特に第二楽章は、敵の謀略にかかり愛娘と共に海に流された主人公プロスペローが、ボロボロの小舟の上で絶望せずに生きることを決意したシーンにあたるのではないだろうかと言われている。
もちろん、まったく根拠のない妄想ではない。
この時期ベートーヴェンは悪化し続ける難聴に悩まされていて、後に『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれる遺書まで残しているのだ。
その中には自らが難聴に悩まされていること、自ら命を絶ちそうになったが音楽にすがりつくことで生きながらえたことなどが記されていた。
そうだ、かの大天才は、こともあろうに難聴に悩まされていたのだ。
口にくわえたタクトをピアノに接触させて歯で振動を感じ取るなどの信じられない苦労を重ねた後、とうとう完全に聞こえなくなってしまったのだ。
これほどの曲を生み出す才能を持った人が、自分にはもっと素晴らしい曲が作れると確信していたに違いない人が、よりによって作曲家にとっての命に等しい聴力を失ったのだ。
ひしひしと迫り来る恐怖はおそらく、常人のそれとはレベルの違うものだったに違いない。
ちょうどその時期に書いていたこの曲に、反映されていないわけがない。
プロスペローにとっての愛娘、ベートーヴェンにとっての音楽。
それはおそらく同じものなのだ。
どんなに辛い状況であっても頼りになる光であり、凍えた体を温めてくれる炎なのだ。
第三楽章はアレグレット──やや速く。
──……わあっ?
──何これ……何これ……っ?
──怖い怖い怖い……っ。
ベートーヴェンの仕掛けた罠が発動した。
いよいよ訪れた嵐に、観客は恐怖した。
16分音符の奏でる激しいメロディが、存在しないはずの嵐を現出させる。
猛烈な風が、雨粒が、夜の闇が、四方から勢いよく観客に襲い掛かる。
──恐ろしい……、わたしは恐ろしいわ……。
──嵐だ、嵐を感じる……っ。
──そこに無いはずのものが見える。これは魔術か、幻術か……。
恐怖と感動がごちゃ混ぜになったような体験に、観客は驚きを露わにしている。
第二楽章までは平静を保っていたリリゼットもまた自分自身を抱きしめ、内から発する恐れに、ベートーヴェンの偉大さに震えているようだ。
「……怖い? まあそうだよね、怖いよね。わたしも最初聴いた時は怖かったもん。しばらく動けなかったもん。なんて曲を作るんだこの人はって思ったもん、三部形式の恐ろしさを思い知ったもん」
だけどね、怖がってるだけじゃダメなんだ。
人は嵐に立ち向かわなきゃならないんだ。
生きるために。大事な人を、大事な物を守るために。
それがベートーヴェンのメッセージだ。
三部形式の中に、二十分強の演奏時間の中に、彼はそれを全力で刻み込んだ。
「リリゼット、覚えていて。あなたの演奏を好きだと言ってくれた人たちの顔を、言葉を。それらがきっと、幸せだった時間がきっと、あなたの支えになるから。辛い時、苦しい時に頼りになるから。例えその時ひとりであったとしても、いずれそれは、必ず訪れるんだ。自分の胸の内に、光として、炎として蘇ってくるんだ」
リリゼットへのメッセージを発しながら、わたしは指を走らせた。
かの有名なフレーズを、『テンペスト』そのものとすら言われる16分音符の連続形を。
強いタッチで、奔流のようにひた走らせた。
燃えるようなクライマックスを過ぎると、曲は急速にフェードアウトし、不意に終わった。
これまでの物語がまるでプロスペローに仕える妖精アリエルによって見せられた幻であったかのように、不意に。
突然の終演に、あまりのことに、しばらく誰も動かなかった。動けなかった。
恐れ、震え、息をするのすら忘れたかのように硬直していた。
わたしが立ち上がり静かに一礼すると、幻術が解けたかのように動き出した。
歓声が、拍手が、口笛が、嵐のように吹き荒れた。
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