「いってらっしゃいませ」
~~~エマ視点~~~
ステージ袖にエマはいた。
ハンネスとテレーゼによる二台四手を聴きながら、ふと気づいたら頬が濡れていた。
「これはいったい……?」
それが涙であることに、しばらく気がつかなかった。
手で拭って舐めてみて、塩味があるのをたしかめて、ようやくそうだと気が付いた。
それほどに彼女は感情の動きの少ない人間であり、実際ほとんど経験が無かった。
何かに心を動かされて泣くなどということは。
「覚えている範囲では大叔母様が亡くなられた時ぐらい……いえ、違うわね。グラーツにいた頃にたしか一度……?」
そうだ、たしかグラーツにいた頃だ。
今から9年ほど前のことだから、まだハンネスのお付きでいた頃だ。
「そうだ、あの時……」
大きなお屋敷の中、エマに行って欲しくないとハンネスが泣いていたのを覚えている。
おまえがいないと嫌だと、おまえがいないとダメだと、身を震わせていたのを覚えている。
自分がハンネスを泣かせた。
ふわふわ可愛いらしいご主人様の顔を、みっともなく歪ませた。
そう認識した瞬間、エマの頬を自然と涙が伝ったのだ。
「坊ちゃまを泣かせて……それで……」
思い出したところでしょうがない。
しょうがないのだけれど、エマは思い出し続けていた。
ハンネスと共にいた、陽だまりのように暖かったあの日々を。
「わたくしが……坊ちゃまを……」
呆然とつぶやいているうちに、当のハンネスがステージから降りて来た。
テレーゼと組んでいた肩を離すと、こちらに向かってやって来た。
これ以上ない、満面の笑顔を浮かべて。
エマの手をとると、ハンネスは言った。
「エマ! やった! やったよ! 僕、やったんだよ! 見てた!?」
「ええ、はい、ええ……」
「頑張って弾いたんだ! ねえ、見てた!?」
「ええ、ええ、お見事でした」
ハンネスの弾けるような笑顔に、エマは一瞬、虚を突かれた。
ポーカーフェイスを保つことが出来ず、素のままの驚き顔を見せてしまった。
「僕、僕、僕さ! ホントは凄い不安だったんだ! テレーゼと一緒に弾くには力不足なんじゃないかって! テレーゼ自身は認めてくれても、他の人が認めてくれないんじゃないかって! 具体的にはお客さんたちにバカにされるんじゃないかって! ブーイングが鳴りやまないんじゃないかって! でも聴いてよほら!」
「ええ、そうですね……」
歓声は未だ鳴りやまず、音楽堂を揺るがすように轟いている。
「ねえ、わかる!? 僕とテレーゼに向けられたものなんだ! これ! 全部!」
「ええ、すごいですね……」
全身で喜びを露わにするハンネスに、エマは困惑していた。
このコはこんなに感情を露わにするコだっただろうか?
このコはこんなにピアノが弾けるコだっただろうか?
いったいどれほどの努力をして、ここまで……?
「ええ、ええ……はい、そうですね。わたくしもそう思います」
「……あれ、どうしたのエマ? なんで……急に?」
衝動のままに、エマはハンネスを抱きしめていた。
ふたりの身長差の20センチ以上、それを埋めるためにわずかに屈んで。
「なんでもありません。すべていつもの如くの平常運転でございます……」
もどかしかった。
小さな頃のハンネス、信じられないほどに成長した今のハンネス。
その間を知らないということがもどかしかった。
悔しかった。
ここまで来るためにハンネスがしただろう苦労を、おそらくはあっただろう挫折を、それらを乗り越えるための努力を、汗と涙を。
知らないということが悔しかった。
出来ることならすぐ傍で見ていたかった。
時にアドバイスを送り、時にからかい、時に慰め。
その役割を自分のものとして独占したかった。
だが実際には、そうは出来なかった。
しょせん自分は一介のメイドであり、主命とあれば従わないわけにはいかなかったから。
王都に赴き大叔母様の介護をし臨終を看取る、そのお役目はもちろん大事であり、メイドとして誇らしい気持ちもあった。
大叔母様との親交は、今もなお宝物のように感じている。
だが、それでもエマは、自分がハンネスの唯一でありたかった。
「……ねえ、坊ちゃま」
エマはハンネスの顔を覗き込んだ。
急速に大人になりつつあるご主人様の顔を、もどかしさと悔しさを飲み込みながら。
「うん? どうしたのエマ? そんな真面目な顔して……」
「今ですよ。本当に、たった今でございます。坊ちゃまの宿願を叶えるのは」
「え、え、僕の? 僕が何を?」
「先だって説明しましたでしょう。坊ちゃまの懸想するお相手であるあの女の……ゴホン、テレーゼ様の……」
咳ばらいをすると、エマは言った。
内からこみ上げる、嫉妬にも似た感情に逆らうように、まっすぐにハンネスの目を見つめながら。
「ねえ、せっかく探したのでしょう? テレーゼ様への真心のこもったプレゼントを、渡すのはまさに今じゃないですか。二台四手がこれ以上ないほどの成功を納めて、それでいてこれからの契約を結べる機会じゃないですか」
「契約って……そっか。でもそうかも、今をおいて他にないのかも」
「ええ、その通りでございます。いいですか坊ちゃま、あなたは幸せになる資格がおありです。だがそれは、自らが動くことでしか掴めない。ならばこそ、ここで迷っていてはいけません。ブリュンベルグ家のご嫡男として、堂々と」
エマはハンネスの背中をぐいと押した。思い切り。
テレーゼの方へ、ハンネスが愛する女の方へ。
「いってらっしゃいませ、坊ちゃま」
今まで誰にも見せたことのない、優しい笑みを浮かべながら。
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