「『ハノンと子犬のワルツときらきら星変奏曲と』」
「さあーて、そうと決まれば一丁やっていきますかっ」
就職の決まったその日の夕方、まずはお試しということで数曲演奏することとなった。
ピアノの前に座り、椅子の高さを調整して。
幸せな気分になったわたしは、頬をぐにゅんと緩ませた。
「ふっふっふ……やっぱりいいよなあ~ピアノは~」
昨日は何せ色々とあったから正直楽しんでいる余裕がなかったけど、今日は違うんだ。
第二の人生の始まりは上々で、職場はホワイトっぽくて、コンクールだのなんだの気にしないで好きに弾いていいときてる。
「んっふっふ~、んっふっふっふっ~♪」
ご機嫌で、鼻歌まで出てしまう。
練習曲のハノンですら楽しく感じる。
α波が出て眠くるなるということで有名なあの単調なリズムすらも、歓喜の大波に感じられる。
「……先生、それは?」
わたしの手元を横から覗き込みながら、ウィルが不思議そうな声を出した。
「ああ、これ? これはハノンっていうの。シャルル・ルイ・ハノンっていうドイツの……ええと、ともかく昔の音楽家が考案した練習曲群なの。運指とか音階とか分散和音とか、ピアノの基礎技術を高めるためのものでね……」
「はあ~……先生も練習なんかするんですねえ~」
「そりゃそうよ。技術って錆びつくもんだから。常に鍛えておかないと。とくにわたしの場合はね……」
音大を中退して、ピアノに触らなくなってから十数年。
転生したことによって自分の体でなくなるというハンデまでついている現状、わたしの技術は完璧とは程遠い。
左手は相変わらず添え物だし、右手だってそれほど軽快に動いてはくれない。
長い曲を弾く体力だってない。
はっきり言って、トレーニングする時間はいくらあっても足りないのだ。
「色々あってピアノを弾くのをやめてた時期があったからさ、いま急ピッチで鍛え直してるところなの」
「じゃあ、いまは本調子じゃないんですか?」
「もっちろん、こんなもんじゃないわよ」
「ふわあー……すっごいなあー……」
頬をピンク色に染めて感心するウィル。
その肩越しから、アンナという名のウィルの同級生の女の子が顔を覗かせた。
「ふうーん? そんなこと言って、下手の言い訳にするつもりなんじゃないの?」
いかにもうさんくさげにわたしをにらんでくる。
おやおや、嫉妬かな? もしかしてうちのウィルに(うちの呼ばわり)に恋しちゃってる感じかな? 可愛いのう、可愛いのう。
「へええぇ~、言ってくれるじゃない。アンナちゃんだっけ? ようーっし、ちょうど指も温まってきたとこだし、お姉さんちょっといいとこ見せちゃおっかな~」
ふたりにカッコいいとこを見せるべく選んだ曲は。
「それじゃあ行くわよ~。フレデリック・ショパン作『ワルツ6番小犬のワルツOp.64-1変ニ長調』」
「フレデリック・ショパン……?」
「子犬のワルツ……?」
不思議そうに首を傾げるふたりには構わず、わたしは始めた。
『…………っ!!!?』
モルト・ヴィヴァーチェ、レッジェーロ。
あの有名な冒頭を右手で弾き始めた瞬間、ふたりが息を呑んだのがわかった。
飼っていた子犬が自分の尻尾を追ってぐるぐる回る様子を見たショパンが即興的に作曲したと言われている曲だけに、曲調がとにかく軽やかで明るい。
同じリズムの繰り返しなのですぐに飽きてしまうという欠点もあるのだが、そこはそれ、『一分間のワルツ』という異名がつくほどの短い曲なので問題にならない。
ちなみにこの曲を最後まで聞いたことがないという人もいるかもしれないが大丈夫、あなたの知っている部分でほぼすべてです( *´艸`)ふふふふふ。
「すごい……指がくるくる回ってる……っ」
「子犬のワルツ……そうか、子犬が遊んでいる光景なんだ……」
わたしの指先を見つめる小さなふたりが口々にお褒めの言葉をくれるのが超気持ち良い。
んーでもねー、ホントだったらお姉さんもっと速く弾けるんだけど……これじゃ大型犬のワルツだよ、とほほほほ……。
「ま、まあ今日のところはこんな感じかな?」
内心冷や汗をかきながら弾き終えると。
「すごいすごいっ、すごく良かったですっ。軽快で、聴いてて楽しくなってくるような曲で……っ」
「くっ……ま、まあまあね……。まあその……下手ではなかったわ……」
ウィルは素直に心の底から、アンナはいかにもツンデレっぽく。
種類は違うけれど、ふたりの目には紛れもない賞賛がある。
こんなに可愛い曲を作ったショパンへの、素晴らしき音楽への憧憬がある。
あるいはちょっとは、わたしのこともすごいと思ってくれているかもしれない。
「……」
ふたりの顔を眺めているうちに、わたしはふと、子供の頃のことを思い出した──
自宅の音楽ルーム、昔はプロを目指していたママがグランドピアノに向かっている姿。
その指先が紡ぎ出す魔法のような音色を思い出した。
ママが口の端に優しい笑みを浮かべていたことも、小さなわたしが感動のあまりぴょんぴょん何度も飛び跳ねていたことも。
あの暖かい部屋の、毛布みたいに柔らかな空気感まで。
「……」
あのままでいられたらよかったのに。
そうしたらわたしは辛い青春をおくることもなく、長じてからママに反逆することもなく、今もきっと仲良しでいられたのに。
「……」
今さら後悔したってどうしようもない。
過去へ戻るなんて不可能だし、そもそもわたしは死んでしまい、こうして別の世界へと来てしまっているのだし。
でも──
出来れば──
この小さなふたりには、わたしのような思いをして欲しくないと思った。
音楽の楽しい部分だけを見て欲しい。
楽しみながら弾いて、上手くなって、いつまでも音楽を、ピアノを好きでいて欲しい。
そう思った。
「……先生? どうしたんですか?」
「そうよ、なによ固まっちゃって」
おっとしまった、呆けていた。
ふたりの口々のツッコみに、わたしは我に返った。
「ううん、なんでもないわ。ふたりが可愛いなって思ってただけ」
「ふぇ? え?」
「は? はあああっ!? あなたいきなりなに言ってるのよ!」
「さぁぁぁて、そろそろお客さんも入って来たことだし、次の曲いくわよーっ」
ポカンとするウィルと、瞬時に顔を赤らめるアンナと。
ふたりの困惑をよそに、わたしは次の曲を弾き始めた。
「じゃあ選曲はっと……うん、これにしよう。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作『きらきら星変奏曲K.265 K6.300eハ長調』」
日本でも広く童謡として親しまれているこの曲は、古くはフランスの民謡だった。
それを天才モーツァルトが主題に選んだというわけ。
ちなみに原題は「ねえママ、聞いて」。
小さな女の子がお母さんに語りかける曲になっていてね──
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