「『月の光』」
エメリッヒ先生の選んだ曲は、かの有名なクロード・ドビュッシーの最高傑作『月の光』だった。
ほとんどのBGMをクラシックのアレンジにしているこのゲームにしては珍しく、この曲はほぼ元のまま採用されている。
つまり、いつもわたしが持っているようなアドバンテージは無い。
先生に『月光ソナタ』を聴かせたことはないはずだから偶然ではあるのだろうけど、月の光の降り注ぐ様を描いた二大楽曲の、激熱マッチングだ。
「……わお、やるじゃん」
ステージ袖から演奏を聴きながら、わたしは思わず唸った。
先生の演奏は素晴らしかった。
長い指先が鍵盤の上をゆったりと舞っている。
極めて低い音量で奏でられる繊細な旋律にはふわふわと揺らぐような幻想的な色合いが滲み、思わずうっとりしてしまう。
──まあ、素敵。
──……ひさしぶりに聴いたが、ここまで弾ける男だったか?
──ひと皮むけたというか、どこか吹っ切れたような清々しさを感じるな。
先生の名演に、聴衆がざわつき出した。
崩していた姿勢を正し、まっすぐにステージ上を見つめ始めた。
「……ホントにすごいわ。もともと上手い人だとは思ってたけど……まさかここまでとは……」
わたし自身も驚いていた。
何せいつも決闘している間柄だ。
先生の実力のほどは正確に把握できてるつもりだったけど、今夜は全然違う。
「娘さんのためとなると、やっぱり気合の入り方が違うのかなあー?」
わたしは感心しながら、先生の指先を見つめ続けた。
曲は序盤を過ぎ、テンポ・ルバートに突入している。
テンポ・ルバートとは「盗まれたテンポ」という意味で、楽曲の基本テンポは崩さずにそれぞれの音符の持つ長さを変化させてオリジナリティを表現する技法のことだ。
この曲最大の見せ場であり、ピアノ弾きとしての先生のスタンスがわかる重要な局面だが……。
「……おっと、ずいぶんドラマチックに弾くね。珍しい」
わたしは驚き、目を見開いた。
わたしの知る限り、先生は原曲に忠実なピアノ弾きだ。
作曲家の意図を組み、激しい変化や濃い感情表現を好まない。
機械のように正確で、絶対にミスをしない。
だけど今夜は違う。
頭を下げ、背筋を丸め。
頭を上げ、背筋を伸ばし。
唇を動かし、詩を口ずさむように弾いている。
「ノッてるなあー……。これはすごい、本気で名演だ。……あ、そっか、そういえばこの曲って……っ?」
そこに至って、わたしはようやく思い出した。
ドビュッシーはこの曲を作るにあたって、フランスの詩人ヴェルレーヌの詩にインスピレーションを得たのだという。
だからこの曲は詩的で、韻の踏み方ひとつとってみてもただ事ではないほどに甘く美しいのだという。
こちらの世界でも同じような設定がされているのだろう、先生はその詩を口ずさでんいるのだ。詩と演奏をシンクロさせているのだ。
だからこそノッてるんだ。詩的表現に満ちたこの曲が、なおさら素晴らしく聴こえるんだ。
「自分で考えて、そこに至ったんだ? すごいや、先生」
向こうの世界のピアノ弾きでもなかなか出来ないような高等表現。
わたしは素直に感心した。
先生のピアノ弾きとしての才能と、この決闘に賭ける執念に。
「ああー、しかどんな内容の詩なんだろう? まんまヴェルレーヌだったり? うわあ、聴きたいなあーっ」
ピアノの音でかき消されているので、内容まではわからない。
わからないが、それほど外れたものではないはずだ。
だって、先生の演奏に反映されてるもの。
ヴェルレーヌの綴った愛と悲しみが。
相反するものへの諦念と憧憬が。
降り注ぐ音符の中に、降り注ぐ月の光の中に、まざまざと見えるもの。
そしてそれは、同時にカーミラへのメッセージにもなってるんだ。
音楽家であることの晴れがましさと、その対極にある恐ろしさ。
他人に評価されることの喜びと、その対極にある不安。
演奏後に待つ『光』と、その対極にある『闇』。
相反するそれらをしかし、逃げるのではなく受け止める。挑む、立ち向かう。
それこそが音楽家なのだと、それ故に音楽は美しいのだと。
それらをすべて、自らの身をもって証明しようとしているんだ。
「先生……」
怖いはずだ、恐ろしいはずだ。
絶望の予感に息が詰まりそうなはずだ。
だって、一番大事な娘が聴いているんだもの。
勝てたら良しだ。でもその結果が負けだったりしたら、カーミラは先生のことをどう思うだろう。彼女は今後、どうするだろう。
だが先生は逃げない。
だが先生は曲げない。
真っ向からわたしに、わたしの『月光ソナタ』に挑んで来る。
「先生……」
わたしは願った。
先生の勝ちを、ではない。
だって、そうしたらわたしが負けることになるわけだし。
どうあれわたしは音楽家で、ピアノ弾きで。
負けを甘受するなんてことはあり得ないし、あってはならない。
だから願ったのは、先生の努力が報われることをだ。
先生の想いが、努力がカーミラに通じることをだ。
それのみを、わたしは願った。
こちらの世界の音楽の女神様に。切に、切に。
やがて旋律はか細くなり、美しく揺れるように消え失せた。
弾き終えた先生はすっと立ち上がると静かに一礼、堂々と胸を張って聴衆に対した。
一瞬の静寂の後、盛大な歓声と、歓喜が会場に吹き荒れた。
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