「戦う、挑む、絶対逃げない」
~~~エメリッヒ視点~~~
エメリッヒがピアノの前に座ると、客席にざわめきが起こった。
そのざわめきは、やがて予期せぬ音楽決闘への興奮へと変わり、テレーゼの『月光ソナタ』と戦うことの無謀さへの憐憫に変わった。
プロとしてのエメリッヒの経歴を知らない者は、侮蔑のまなざしすら送って来た。
──誰だか知らんが、身の程をわきまえてほしいものだね。
──せっかくいい気分でいたところに水を差して、台無しだわ。
──どうでもいいから、さっさと終わってくれ。こちとら先ほどの名演の感想を話したくてうずうずしてるんだ。
そこかしこで囁かれる悪口雑言。ため息、舌打ち。
これ以上ない圧倒的なアウェイ感の中、エメリッヒは極度に緊張していた。
と言って、場に呑まれたわけではない。
正直、そんなものはどうでもよかった。
思い返す──
5歳の頃にピアノを初め、それから24年。
思い返す──
18歳で音楽院を卒業してすぐにプロとなり、それから11年。
伊達や酔狂で弾いて来たわけではない。
勝利の美酒も敗北の涙も、星の数ほど味わって来た。
だがそれでも、今夜だけは怖かった。
ドミトワーヌ夫人とその友人/知り合いたちに聴かれるのが怖い? ──違う。
テレーゼに再び負け、屈辱を味わうのが怖い? ──違う。
今夜は客席に娘がいるのだ。
目に入れても痛くない愛娘のカーミラが、大のファンであるテレーゼの演奏を聴きに来ているのだ。
しかもあれだけの名演を聴き、陶然と息を吐いているところだ。
ここで無様な演奏でも聴かせようものなら、それはもう父の威厳の喪失どころの騒ぎじゃない。
人間として否定されかねない。決定的に嫌われかねない。
それだけは避けたい。
避けたいのだが──それでもなお、挑まないわけにはいかなかった。
天才に憧れるのは簡単だ。
非才を認めるのは簡単だ。
すべてを諦め、投げうち、細々と生涯を送る。
そういう人生の在り方を否定はしない。
だが、カーミラには素質がある。
紛れもない、天からもたらされた才能がある。
今はまだ幼く、馬群に没してはいるけれど、きちんと磨けば将来きっと大輪の花を咲かすことだろう。
テレーゼのただのファンで終わらすには、あまりに惜しい。
だからエメリッヒは立ち向かうのだ。
自らがテレーゼに挑むことで、諦めないことの意味や努力の大切さを教えるのだ。
教科書に掲載される物語のような人情劇、そんなことが実際問題として可能なのかはわからない。
ただ鼻で笑われ、バカにされるだけかもしれない。
だがやる。
エメリッヒは決めていた。
「戦う、挑む、絶対逃げない」
自らに言い聞かせるように、エメリッヒはつぶやいた。
思えば今まで、音楽に打ち込むばかりで家族のことを顧みて来なかった。
「わたしよりピアノが大事なの?」と妻からなじられ、カーミラの件でも嫌というほど責められ、結果的に離婚を切り出された。
家政婦を雇うことでかろうじて生活自体は回っているが、カーミラの心のケアまでは出来ず、今も彼女は引きこもっている──引きこもっていた。
今夜ようやく、彼女は家の外に出て来てくれた。
音楽堂に来てくれて、ここ数年見たことがないほどの、生き生きとした表情を見せてくれている。
ならばここだ。
鉄は熱いうちに打ての格言の如く、ここなのだ。
「……先生、大丈夫?」
ステージ袖に下がったテレーゼが、じっと心配そうにこちらを見ている。
「今ならまだ、無かったことにも出来ますけど……」
「……ふん、バカを言え」
テレーゼの気遣いに、しかしエメリッヒはかぶりを振った。
強く強く、否定した。
「わたしはね、親なんだ。どんなに情けなくても、みっともなくても、ここまでさんざんやらかして来て、それでもなお。なあ……親なんだよ」
エメリッヒは口元を緩め、薄く笑んだ。
観客席からこちらを眺めるカーミラを見つめた。
カーミラは戸惑った様子で立ち上がっていた。
ガウンを胸に抱き、心配そうにこちらを見ていた。
パパ、やめて。
パパダメ、絶対勝てない。
遠く離れているのにも拘わらず、その心中が聞こえてくるようだった。
情けないことに、それは事実だ。
自分はたぶん、このあと負ける。
バルでの敗戦どころの騒ぎではない。
ドミトワーヌ夫人の知り合いの音楽界のお歴々にバカにされ、嘲笑われる。
だが、それすらも──
このコのためなら、惜しくはない──
エメリッヒはつぶやいた。
唇の動きだけで、気持ちを伝えた──見ていてくれ、カーミラと。
それだけを。
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