「『月光ソナタ①』」
調律師さんと入れ替わるように、わたしはステージの上へと上がった。
音楽堂の容量いっぱいに入ったお客さんの数は50人。
ドミトワーヌ夫人のお友達関係の、いかにも身なりのいい人たちばかりだ。
わたしの演奏を聴いたことがある人もいればそうでない人もいて、好奇と期待の入り混じったむず痒いような空気が肌を刺す。
この間のサロンで慣れているので今さらそのぐらいのことでびびりはしないのだが、今日は特別に聴かせなければならないお客さんがいるので緊張している。
その特別なお客さんは客席中央やや後ろの、最も音が聴こえる位置に座っている女の子だ。
エメリッヒ先生のひとり娘で、絶賛引きこもり中のお嬢様──カーミラ。
よっぽど慌てて家を出たのだろう、足元はサンダルで、着衣はネグリジェ。
自らの格好を恥じているのだろうか、ガウンを被るようにして顔を隠している。
「そんなことしたら逆に目立つと思うんだけど……ま、その辺も可愛らしいとこよね」
たははと笑いながら、わたしは客席に向かって優雅に一礼した。
すぐにピアノの前に座ると、立て続けに3曲弾いた。
ショパンの『子犬のワルツ』。
モーツァルトの『きらきら星変奏曲』。
ヘンデルの『調子のよい鍛冶屋』。
陽気な小品を3曲重ねると、お客さんがわっと喝采を上げた。
拍手をし、満面に笑みを浮かべ、大いに盛り上がってくれている。
ドミトワーヌ夫人は子供のようなわくわく顔で、リリゼットは悔しそうに唇を歪めて、そしてカーミラは──
カーミラは、まだガウンを被っていた。
自ら作った暗がりの奥から、こちらを窺うように目だけを光らせていた。
「……おっと、なかなかしぶといな」
それほど厚いガウンじゃない。
だが、ある程度の遮音効果はあるはずだ。
つまり彼女は、まだわたしの生音を聴いていない。
つまり彼女は、まだわたしの本気を耳にしてない。
「まずはそれを剥ぎ取らないと話にならないか。天の岩戸の前で踊るアメノウズメの気持ちだねえ」
武者震いに身を震わせながら、わたしは薄く笑んだ。
岩戸に引きこもったアマテラス大神を外に出すために踊った神様の気持ちが、今ならよくわかる。
わたしの場合は踊りじゃなく演奏だけど。
「ロックじゃあるまいし、『俺の歌を聴けー!』と叫ぶわけにはいかないけどね。でも、クラシックにはクラシックなりの戦い方があるのよ。さあ、意地でも顔を出してあげるわ」
背筋を伸ばし、天井を見上げてひと呼吸。
両肩を持ち上げてコキリと回し、両手の指をぽきぽき鳴らして準備運動をして、わたしは鍵盤にすっと手を伸ばした。
「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作『ピアノソナタ第14番Op.27-2 嬰ハ短調 幻想曲風ソナタ』」
第一楽章──
アダージョ・ソステヌート──ゆっくり、音を支えて。
繊細で柔らかな3連符。それがどこまでも続いていく。
ゆっくりと、柔らかく。
東から昇った月が、闇の世界を徐々に徐々に照らしていくように。
今までに弾いてきた陽気な3曲とは明らかに違う立ち上がりに、お客さんたちがざわめき始める。
──なんでしょう、とても幻想的な……。
──これは……夜の情景でしょうか? 微かな夜風に、月の光?
──深く透明感のある祈り……どこか葬送曲のようにも聴こえるな。
──……なんだか、胸が締め付けられるようですわ。
女性たちが胸を押さえ、男性たちは唇を噛んで。
突如生じた内なる感情の揺れ動きに、みんなが戸惑い始めた。
無理もないことだと、わたしは思う。
『月光ソナタ』の愛称で知られるこの曲は、ベートーヴェンの三大ピアノソナタの一角だ。
特に第一楽章は静謐で幽玄。
月の光の降り注ぐ湖上で揺れる小舟に例えられることがあるように、極めて幻想的に描かれている。
その色合いは淡く柔らか。だが、恐ろしいほどの引力を有する。
ぎゅっと心を掴んだらもう最後。決して離してはくれない。
──………………わあ。
客席中央。
もっとよく聴きたいと思ったのだろう、カーミラがガウンを後ろに引いたのが見えた。
天パがかった金髪が覗いた、そばかすの散った頬が覗いた、エメラルドのように美しい双眸が、シャンデリアの光を反射したのが見えた。
天の岩戸の向こうからアマテラス大神が──カーミラが顔を出したのが見えた。
「……ふふっ、ようやく顔を出してくれたかい」
主旋律を奏でながら、わたしは笑った。
陽気な曲調で続けた3曲から一転した、物悲し気な立ち上がりの『月光ソナタ』。
それが人の心を揺さぶるだろうことはわかっていた。
もっとちゃんと聴きたいと、カーミラが前のめりになるだろうことも。
だけど、それだけで選んだわけではない。
この曲には『物語』があるのだ。
遥か昔に作られた、優しい優しい『物語』が。
「……ねえカーミラ、この曲はね? とある盲目の少女のために作られた曲なんだ。家から出ることの出来ないあなたのように、そのコも家から出ることが出来なくてね……。でもある時、そんな彼女のもとに『奇跡』が訪れたんだ」
つぶやきながら、わたしは弾き続ける。
そっと、そっと。
涼やかな夜風が、草原の上を舞うように。
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