「音楽は人を変える?」
音楽堂を借り切ってコンサートを開く。
それが昔からの夢だった。
音楽堂は小さくてもよくて、客席だって少なくてもいい。
自分の名前を冠したコンサート。
それが許されるのは本物のピアノ弾きの証だから。
もちろん簡単なことではなかった。
グラーツは音楽の都であり、コンサートが開ける音楽施設はどこも数か月、物によっては数年先まで借り手が決まっているという状況だ。
ましてやわたしの身分はまだ、音楽院の一学生。
音楽決闘や楽曲の出版で名が売れてきているとはいえ、何よりも権威の優先される音楽施設の貸し借りにおいては後回しにされがちだ。
今回の音楽堂だって、最初は管理者に鼻で笑われて断られたのだ。
にも関わらず最終的に借りることが出来たのは、ドミトワーヌ夫人の口利きによるものだ。
グラーツの音楽業界に隠然たる権力を有する彼女が保証人になることで管理者の態度がころりと変わり、なんと二日後という強行スケジュールまで組むことが出来た。
「わたくし、あなたのことが気に入ったの。演奏もだけど、その立ち居振る舞いの破天荒さもね。本当に見ていて飽きないわ。今回のことだけでなく、何か入り用ならそのつどわたくしを頼ってくださいな。出来る限りのお力添えをいたしますから。もちろんそのつど、特等席で鑑賞させてもらいますけど」
とは、ドミトワーヌ夫人の弁。
そういやあのサロンの日も超ワクワク顔でわたしのことを見ていたっけ。
ピアノ弾きというよりは珍獣を見るまなざしのような気がしないでもないが、結果が伴うならそれでヨシだ。
「さぁぁぁて、カーミラは来てくれたかなあー……?」
ステージ袖から会場の様子を眺めるわたし。
ドミトワーヌ夫人のお知り合いがひしめく観客席の中に、くるくる天パの金髪少女の姿を認めると──
「やったっ。カーミラ、来てくれたっ」
わたしはぐぐうっと拳を握った。
「うんうん、あんなかぼちゃの馬車みたいなお迎え、女の子だったら誰しもが憧れるはずだもんね。やっぱりリリゼットに頼んで良かったっ」
とは言え、根っこがコミュ障のカーミラだ。
引きこもりの彼女にとって、こんなに大勢の人前で過ごすのはさぞやキツいことだろう。
今現在はリリゼットが傍にいて何とか引き留めてくれているようだが、それだっていつまで保つかはわからない。
なんとかして彼女の心を射抜いてこの場に留め、そして──
「……ねえ、テレーゼ。あなた、さっきのこと本気で言ってるの? 音楽で人を変える、だなんて……」
わたしのドレス(今日はラメ入りの真っ赤なビスチェドレスだ)の腰紐を調整していたアンナが、いかにもうさんくさげな調子で言った。
「家に行って、直接話して、その上でダメだったんでしょ? あなたのファンなのに。だったらもう無理じゃない」
万事につけシニカルな、いかにも彼女らしい意見。
そして、その言い分はおおむね正しい。
言葉による説得ですら人の意志を変えることが難しいように、感性次第の音楽で人を変えるなんてのは、なかなか出来ることじゃない。
ましてや現在進行形で引きこもってる人の心を変えるだなんて、普通に考えたら不可能だと言っていいだろう。
「もちろん100%じゃないのはわかってるよ。失敗する確率の方が全然高いのも。……でも、わたしは知ってるんだ。一曲の音楽で変わった人たちがいることを。一曲の音楽ですべてを変えた人がいることを。その事実を」
「それっていったい誰のことよ?」
「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。かつて楽聖と呼ばれた、伝説の作曲家」
「何よそれ、あなたお得意の空想上の人物の名前でしょ? この世にいない、架空の人物の逸話なんか披露してどうするつもり?」
おおーっと、さすがはアンナ。心にザクザクくるぜい。
でもねえ、お姉さんはもう、それぐらいでは揺るがないんだ。
ウィルにハンネス、リリゼットにエメリッヒ先生。
みんなに得意絶頂で語っちゃってるからね。
痛いオタク特有の『設定』にしか聞こえないだろうお話を、さも見て来たかのように。
「あっはっは、言わば言えだよ。アンナ」
開き直ったわたしは、ニカッとやんちゃな男の子みたいに笑って見せた。
「だけどね、そういうセリフは演奏を聴いてから言ってもらえるかな?」
「へえ……言うじゃない。自信満々ってこと? カーミラの気持ちを、そのベートーヴェンとやらの曲で変えてみせるって?」
「おうともよ。姿勢を正してよく聴きな」
煽り気味に言うアンナを即座に煽り返すと、わたしはステージに向かって歩き出した。
頭の中にあるのは、ひとつの曲だ。
『ピアノソナタ第14番Op.27-2 嬰ハ短調 幻想曲風ソナタ』
かつて日本中に一大ムーヴメントを起こしたベートーヴェン。
彼の遺した数々の名曲の中でも代表曲とされるその曲は、愛称で『月光ソナタ』と呼ばれている。
そしてその曲には、とある逸話が存在するのだ──
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