「序奏」
ピアノを始めたのは三歳の頃だ。
あっさりとバイエル全曲を暗譜して、通しで弾けるようになって。
そんなわたしを天才だと思ったのだろう、ママは変わってしまった。
わたしを世界一のピアニストに育成するべく家に閉じ込め、来る日も来る日も練習。
優しかった顔には厳しさが貼り付き、口を開けば注意叱責。
遊ぶ時間をもらえず、友達を作る自由もなく。
代わりに与えられたのは、監視されながら鍵盤と向き合う暗い青春。
だけどピアノ自体は好きだったから、努力は続けた。
結果としていくつかのコンクールに入賞し、名門音大に入学することも出来た。
けれどそこで、大きな壁にぶつかった。
村浜沙織。
きらびやかな光を放つ天才の前にわたしは屈し、それから十数年──
「心折られて音大辞めて、ブラック派遣会社に就職してまた心を折られて……あ~あ、わたしの人生もうバッキバキだよ」
混み合うプラットホームで遅延した通勤電車の到着を待ちながら、わたしはボヤいた。
「あのまま頑張って続けてたらなんとかなったかなあ〜……。いや〜、音大生なんて潰しはきかないし、就職率も悪いしね。仕事があるだけ今のほうがマシだったり?」
スマホをいじりながらぶつぶつ、ぶつぶつ。
傍から見れば危ない奴だろうが、正直どうでもいい。
連日のハードワークのせいで、わたしの心は完全に死んでいるのです。
「あ~あ、人生もゲームみたいに上手くいけばなあ~」
ぼやきながら、ひたすらスマホゲーをポチポチ。
プレイしているのは『わたしたちの楽園』。女性向けの恋愛アドベンチャー、いわゆる乙女ゲーというやつ。
これがもう楽しいんだよね。ベルばら風の華やかな衣装で着飾ったショタっ子とイケメンとイケオジが主人公を取り合う感じでさあ。
「ああ~、わたしも取り合われたいぃ~。次に生まれ変わるならこういう人生がいいぃ~。イケメンズにちやほやされながら毎日ピアノを弾いていたいぃ~」
くだらない妄想をしていると、不意に背中に衝撃があった。
ホームが混んでいるせいで誰かがぶつかって来たのだろう、わたしはたまらずバランスを崩した。
足がもつれ、スマホが手から離れて飛び──ちょうど入線して来た電車の前に、わたしは体ごと転がり落ちた。
□ ■ □ ■ □ □ ■ □ ■ □ ■ □
「ってうわわわわっ! 死ぬ、死ぬ、死ぬううううーっ!?」
叫びながら、わたしは毛布をはね除けはね起きた。
はね除け……はね起き……あれ、生きてる?
えっと……見た感じここは病院で、ついでに言うならベッドの上で……?
「……ウソでしょ、マジで?」
あの状態から生還するとかありえないと思うのだが、本当に生きている。
頭にでっかいたんこぶが出来ている以外にはさしたるケガもなく……。
「……あれ? なんか変だ」
ものの見え方や体の動きがいつもと違う。
怪しく思ったわたしは、改めて自分の体を見下ろした。
「んー……、んんー……」
着ているのは病院着ではなく、白地に金刺繍の施されたお高そうなネグリジェ。
肌は白く抜けるようで、一点の染みもない。
髪は金髪で……え、金髪?
「は? え? なんで?」
慌てて枕元にあった手鏡を掴むと、そこに映ったのは顔面偏差値三十のメガネ喪女……ではなく、類稀なる美少女だ。
波打つような金髪、サファイアのように輝く瞳。
顔は小さく形良く、頬は薄く桃色に色づいている。控えめに言って天使。
ちょっと胸が小さかったり目つきがキツかったりもするが、それはそれでチャームポイントになっていて……ってんんんんっ?
「これってもしかして異世界転生? もしくは死後に見てる夢? というかこの顔はたしか……」
そうだ『わたしたちの楽園』のキャラじゃないか。
名前はテレーゼ・フォン・バルテル(十六歳)。
いわゆる悪役令嬢というやつだ。作中のメインヒロインに対して行った過激なイジメが露見して王子に婚約破棄され王都を追放され、ついでに公爵家を勘当されと、本当にろくなことがないキャラだ。
いやー、転生にしても夢にしてもさあ、このチョイスはなくないですか神様?
「もう少しマシなさあ……メインヒロインとは言わないまでもさあ……」
「お嬢様! お目覚めになられましたか!?」
物凄い勢いでドアが開いた……ってなんだこのイケメン!?
驚いたわたしは、思わず毛布で体を隠した。
「え、ええと……どちらさまで……?」
短く刈り上げた清潔感のある黒髪、キリリと引き締まった凛々しい目元、背はスラリと高く足もめっちゃ長い。
黒のスーツ上下に臙脂のベストという執事服の組み合わせがまた魅惑的で……ってあれだ、テレーゼの執事だこの人。
十歳にして眉間の皺がよく似合う苦労人で、落ちぶれたテレーゼを唯一見捨てなかった忠義の人で。ええと、名前は……。
「たしか……クロードだっけ?」
「たしかとは……はっ? お嬢様っ、ひょっとして記憶が……っ?」
衝撃のあまりだろう、クロードがよろめいた。
しまった、長年付き添ってくれている執事の名前を確かめるのはさすがにまずかったか。
「ごめんなさい、どうも頭がぼんやりしてて……。ねえクロード、今の状況を説明してくれる?」
一時的な混乱のせいだということでごまかすと、クロードは心配そうな顔をしながらも状況を説明してくれた。
聞けば、流れ流れてたどり着いたここグラーツの都での貧乏暮らしに耐えられなくなったわたしというかテレーゼが、よろめいて転んだ拍子に道端の石ころに頭を打って意識を失ったらしいのだ。
「ん~……つまりバッドエンド後のエクストラシナリオってわけか。にしても死体にドロップキックかますようなひどい展開ね……製作陣はこのコに何か恨みでもあるのかしら……」
でっかいたんこぶを擦りながら、しみじみとわたし。
「お嬢様、申し訳ございません。わたしの働きが及ばず……」
クロードが申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいのよクロード、あなたは悪くない。というかそもそもこれは、わたしが不注意だったせいだから……」
「ですがお嬢様……」
謎の譲り合いをしていると、外からピアノの音が聞こえて来た。
窓から顔を覗かせてみると、病院の裏手のバルに人だかりが出来ている。
音楽バルとでもいうのだろうか、酒場の中心がステージになっていて、アップライトのピアノが置かれている。
チョビ髭の紳士が弾いているのはゲーム中のBGM。勇壮な行進曲だ。
演奏自体はたいして上手くもないのに、聴衆は大いに盛り上がっている。
んー……ちょっと忖度くさいかなあー……。
「少なくとも真っ昼間から人だかりを作ってまで聞くもんじゃないと思うんだけどなあ~……」
怪しんでいると、演奏を終えたチョビ髭紳士が拍手を浴びながらステージを降りた。
入れ替わりで上がったのは十歳ぐらいの少年。
ふわふわ栗毛で女の子みたいに可愛くて、白シャツと半ズボンとサスペンダーの組み合わせが犯罪的に似合うその少年は、なぜだろう泣きそうな顔になっている。
「おら小僧、さっさと弾けよ!」
「それとももう負けを認めるか!?」
「まあドミニク様の演奏に勝てるわけがねえからな!」
いかにも悪そうな顔をしたゴロツキたちが、少年をはやし立てる。
「何よあいつら、あんな子供によってたかって」
ムカついたわたしは、クロードが止めるのも構わず病室を飛び出した。
ネグリジェにサンダル履きでパタパタと駆けて病院の裏手に回り、バルの聴衆の中に混じると……。
「おじさんおじさん、今っていったいどういう状況なんですか?」
近くにいたおじさんに事情を訊ねると、返って来たのはこんな答えだった。
グラーツでは『音楽決闘』が盛んに行われている。
基本的には奏者同士が名誉を賭けて行うものだが、時に具体的な金品を賭けることもある。
今回の賭けはバルの主人テオが店の権利を、金貸しアルノーが借金の帳消しを、それぞれ賭けているのだとか。
「ひどいもんだよ、決闘を断るなら今すぐ借金全額返せなんて言ってさ、半ば強制なんだ。テオが雇った決闘者が来ないのもひっくるめて、全部罠なんだろうよ。しかも代わりに息子のウィルに戦えだなんて。音楽院に通ってるとはいえ十やそこらのガキが本職の決闘人であるドミニクに勝てるわけがないんだ」
「……」
そういえばそうだったっけなと、わたしは思い出した。
このゲームって、大きな選択肢ごとに音ゲー要素があるんだ。
しかもキャラごとに難易度が違ってさ、テレーゼのなんかもうーひどかったの。
普通のキャラだったらぽつぽつ小雨みたいなタイミングで音符が上から降って来るところを、バケツをひっくり返したような大雨でさ。
もちろんわたしにとってはそんなの余裕で、ネットじゃ攻略不可能とされてたのをことごとくクリアしてきたんだけども。
「うっ……ぐ……っ」
可哀想に、ピアノの前でウィルはガタガタ震えている。
鍵盤に手を伸ばしてはやめ、手を伸ばしてはやめ、そのたびガラの悪い連中に罵られて。
「やだよう……怖いよう……っ」
最終的には泣き出してしまった。
頭を垂れて、唇を噛んで、今にも崩れ落ちそうな様子だ。
「なるほど……」
自分が負ければ店が奪われる。
その責任は、わずか十歳の少年が担うには重すぎる。
「なるほど……」
胸の痛みと共に思い出した。
来る日も来る日もピアノを弾かされたあの頃を。
怒鳴られ叩かれ、あれは本当に辛かった。
「……なるほどね」
胸の内に、メラリと炎が灯った。
足元から怒涛のように、闘争心が湧き上がる。
音を楽しむと書いて音楽だ。音楽は楽しまなければならない。
怖くて苦しい──そんなのは音楽じゃない。このわたしが認めない。
「おじさん、曲は? 何を弾いてもいいの?」
「ああ、コンクールじゃないからな。自由曲だ。だがなんだってあんた、そんなことを?」
「──その決闘、ちょっと待ったあーっ!」
気が付けば、わたしは叫んでいた。
衝動のままに手を挙げ、一歩を踏み出していた。
「なんだてめえ」
「おい、どこへ行くつもりだ」
「……お嬢様っ!?」
ゴロツキAB、クロードの制止を順に振り切ると、わたしはステージの上に立った。
勢いをつけてざわめく聴衆に向き直ると──しかし一瞬口ごもる。
胸の内に渦巻くのは、重い後悔と自責の念だ。
あの時ピアノから逃げたわたしが、再び勝負の場に挑むことは許されるのか。
重大な背信行為を働いた自分を、はたして『相棒』は許してくれるのか。
いや、そうじゃない。
今大事なのは何よりウィルの幼い精神だ。
音楽界の将来を担うかもしれない若者の芽を、こんなところで摘んではいけない。
許すとか許されないとか、そんな甘ったれた心根はポイーっだ。
「すうううー……っ」
深く息を吸い込むと、わたしは大きな声で言い放った。
「わたしの名は絵里……じゃなくっ、テレーゼ・フォン・バルテル! ウィルに代わって決闘を行う者よ!」
ポカンとするウィルの肩を叩くと、「任せて。あんなチョビ髭よりわたしのほうが上手いから」と笑いかけた。ウィルに負担にならないよう、なるべくあっけらかんとした調子で。
「え? はい? え?」
わたしの勢いに気圧されたのか、ウィルは慌てて椅子を降りた。
代わりに椅子に座ったわたしは両手の指をわきわきと動かして──まずは駆動域の確認。
「ふむ……素人の体だから、やっぱり指が動かないか。右はいいけど、左がほとんど添え物ね。となると曲は……」
頭の中に楽譜を思い描いた。
右手の旋律が印象的なあの曲を、和音を絞ってアレンジして……うん、いけそうね。
「……ただいま、相棒。元気だった?」
懐かしき鍵盤の手触りを確かめながら、わたしはつぶやいた。
ドンドンと脈打つような胸の動悸をわいながら、そっと。
「ひさしぶりに暴れるわよ。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作『バガテル第二十五番イ短調エリーゼのために』簡易版」
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