進級
「いいか、君たちはこれからは甘えてばかりはいられない。上級生を支えて、下の学年のお手本にならなければならない」
黒板を背にした教師の話に耳を傾けるものは一人もおらず、そればかりか気の置けない新しい仲間を値踏みすることに夢中になっている子供たちは、目の端に神経を集めてクラスの動向を伺っている。
季節は春。四角い窓から小鳥のさえずり。彼らの止まり木はハート型の花弁を小川に散らす。流れは桃色の絨毯となって、或いは小鮒たちが見上げる天の川となって旅を続ける。
「出席番号二十番、聞こえているのか。二十番、広内」
名前を呼ばれて咄嗟に立ち上がる。椅子が後ろの席にぶつかる。水を打ったような室内に大きな音が響く。
好奇の眼差しが注がれていることに気づいた彰人の顔がリンゴのように赤みがかるのにさしたる時間は必要なかった。
ねぶるような視線を肌に感じる。名も知らぬクラスメートたちの意識の頂点に彰人は佇む。磔刑の聖人のように釘付けにされている。
背中には冷や汗が垂れた。目立つのは苦手な彰人だが、昨晩から練っていた自己紹介の文章をすっかり頭から抜き落とした。待ち兼ねた教師の眉尻が困惑に傾く。
「寡黙であることは問題にならない。想像力が豊かなのだろう。ただし物思いに更けるタイミングは誤ってくれるな。今は授業中だ」
結局口を開くことなく再び席についた。俯いたまま彰人は後続の自己紹介を聞いていたが、最後までその内容が頭に入ってくることはなかった。
午前の授業はつつがなく進行し、給食の時間を迎えた。教師に目をつけられた彰人は初日の配膳当番に任命された。席が近いという理由で選ばれたその他四名の胸の内を思うと彰人の姿勢はどんどん前のめりになっていった。
「あーあお前のせいで重いスープ運ばなきゃなんないのかよ」
案の定責められた。両手を頭の後ろで組む彼は確か真後ろの席の男の子だった。とばっちりを受けたのだから当然だろう。返す言葉のない彰人の顔を下から覗くようにして男の子が立ちはだかった。
「うへえ、女みたいな顔してる。変なやつ」
先頭を歩いていた女の子が振り向いて廊下を戻ってきた。
「やめなよ。当番はどうせ誰かがやるんだから」
それに顔は関係ないよね、と彼女は付け加えた。男の子は後ろで固まっていた二人組に混じって先に行ってしまった。
「あ、あの。どうもありがとう」
彰人は素直に礼を述べた。窮地を救ってくれたことは間違いないのだから。
「広内くんだっけ。あなたもはっきりしないと」
茶色く艶のある髪をポニイテールにした女の子は彰人を諭すように呟く。
「でも私は広内くんの顔を女の子のようだとは思わない」
キャラメリゼしたアーモンドと同じ瞳の色をした藤松小夏の笑顔を彰人は直視できないほど眩しかった。
プリクラを撮るのは初めてだった。
「いい、次のポーズ。どんどん撮影始まっちゃうから」
出てきた写真を鋏で半分にする。小夏は片方をカバンにしまい、もう片方を彰人が受け取った。
「スマホで共有できるけど、モノとして残るのって味があると思わない?」
味がある、なんて時々古風な言い回しをする小夏。彼女が身を乗り出すと姉の道具を借りて巻いたらしいウェーブした毛先が踊るように揺れる。
「でも何だか僕は恥ずかしいや」
小夏の左手は頭の上で弧を描き、鏡写しの姿勢をとる彰人の右手の先とくっついている。彰人の伸ばす左手は、同じようにピンと張った小夏の右手と重なる。
「ハートはちょっとクサかったか」
顔を見合わせて二人で笑った。彰人は貰ったプリクラの片割れを折れないように気を付けながらポケットにしまった。
給食当番事件以来、彰人は小夏と話すことが日毎に増えた。後ろの席の男子から庇われたことも理由の一つだけれど、帰り道が同じことや、好きなアーティスト、ラジオなどの趣味の多くが共通していた。
殊に食の相性が抜群だった。
「これ凄く美味しい」
「うん、色も鮮やかで映えそう」
ごろごろと衣のついた熱々のドッグを頬張ると、甘辛いソースと溶けたチーズがハーモーニーを奏でる。くわえたドッグを体から遠ざける小夏。彰人は伸びてたわんだチーズの写真を慌てて撮った。
ハングル文字が看板に掲げられる風景は、この地に訪れる人々を異国情緒漂うエキゾチックな気持ちに昂らせてくれる。
近年日本では多かれ少なかれ全国的に外国人の流入が盛んである。特にこの大久保周辺では、街を練り歩けば三人に一人くらいは外国人と合間見える。
流行りに敏感なティーネージャーたちにとって、ちょっと足を伸ばせば非日常を味わえる刺激的な空間を満喫できる。彰人と小夏も足しげく通うホットクの店は、週末なら数十分待ちはくだらない人気ぶりだ。
早速SNSで短いライヴ配信動画をアップする。遠近法を利用して、彰人の掌に載せたマカロンの上で小夏がジャンプする映像が撮れた。
「うまく撮れてるね。彰人センスあるじゃない」
「小夏の蛍光カラーのスカートとマカロンの色の取り合わせもいい感じ」
「派手な服なんて子どものときにしか着れないしさ」
子どものときにしか、なんて年輩じみた小夏の言い種に彰人はクスリと笑みを綻ばせる。
「それにフォロワー全然ついてないけどね、私たち」
「個人で楽しむ範囲が一番だよ。変に目立ちたくないし、デジタルタトゥーも恐い」
「タトゥー?」
「ネットに一度流れた情報はあっという間に拡散されて曝されたら最期、誤った行動を訂正しようとしても消えることがないんだ」
ピンクと黄緑のマカロンを口に放り込みながら小夏は目を丸くして頷いている。小夏が理解してくれたかどうかは別として、彼女を傷つけないように動画の投稿には細心の注意を払っているつもりだ。
「明日学校だね。彰人宿題終わってる?」
「家を出てくる前に済ませてきたよ」
「一生のお願いだから、答え写させて」
手を合わせて拝むような仕種をされるのは毎度のことだ。
「一生のお願いはそんなに簡単に使うものじゃないよ。大切なときに取っておくのがいい」
リュックからノートを取り出す。悪戯っぽく舌を出す小夏と過ごしていると、現実かどうか不安になる。彰人のこれまでの人生で最も幸せな日々。これがピークだとしたら、先が思いやられる。心が浮かれるほど、彰人はその分辛くなる。
小学生低学年まで彰人は周りを女の子で囲まれていた。それが女子たちの王子様だったら、彰人は悩みとは無縁の生活ができた。
おままごとにあや取り、彰人が興味を持つことには男子諸君は見向きもしなかった。彰人自信も車やサッカーボールを触るなら、毛糸で三つ編みの練習をする方がよっぽど退屈しなかった。
「あきとくんてさ、きれいね」
おままごとではお父さん役、お母さん役のように一般的な分け方の中に彰人専用の美人役が存在した。今思えば不思議な配役だが、当時の彰人たちにとっては違和感の欠片もなかった。事実彰人は街ですれ違えば誰もが振り向くほど美しかった。
幼少期特有の両性的な顔立ちによって女の子からは特別視され、男の子たちからは相手にされず、いずれにしても一線を画する存在だった。
均衡は長くは続かなかった。三年生を過ぎたころから雲行きが怪しくなった。性教育が行われるタイミング。つまり生理が女の子の性を無抵抗に顕在化するようになると、彰人に対する女の子の態度はあからさまにとはいかないまでも憚られるようになった。
休み時間いつものように声をかけた親しいあの子。素っ気なかったのは生理用品を持って女友達と一緒にトイレに行くためだったことを知った。
彰人は卒業を控えた最高学年になったが、文集を彩るべき思い出など数えるほどもないことに気がついた。寧ろトラウマだらけの日々だった。
修学旅行の夜、男子たちの入浴。互いに覗き合う股関。そこかしこから黄色い声が飛び交う。
「うわ、こいつ本当にちんこ付いてたんだ」
ふらりと彰人の前に現れた学年のお調子者が叫んだ。賑やかだった浴場は一瞬水を打ったように静まり、刹那にどよめいた。手で口を覆いこそこそと耳打ちする者、今後の展開にほくそえむ者、彰人の下半身をこれ見よがしに凝視する者。
鏡を見てはっとした。彰人の頬を伝う涙が一滴。旺盛な男子諸君は黙っている彰人への興味を失い、一寸前の活気を取り戻した。まるで何も問題などなかったかのように。
恐らく誰も覚えていない、或いは初めから記憶になど残っていない修学旅行の出来事は、彰人に一生かけても消えることのない心の傷を刻み込んだ。
中学入学以降一年間は周囲と親しもうとはしなかった。無遠慮な中傷も怖いが、去っていった女友達のように築かれた関係が壊れることこそ恐ろしかった。