軽井沢の風に吹かれて、異人館通りの夏(草稿・原案)
草稿。原案になります、
私がこの小説を書こうと思ったのは、「かるゐざわ」と「軽井沢物語」という二つの研究書に巡り合ってからである。
大正時代の西洋婦人の服装が、またテニス姿が、眼に焼きつきました。
こんな田舎に(軽井沢は田舎です)西洋人が大挙して押し寄せた、
そして次から次に別荘を作った。
教会も作った。
まさに信州の田舎に出来た外国租界である。
これを膨らまして何とか物語がかけないか?
それがきっかけである。
タイトル 軽井沢大正・昭和青春群像物語
時代、場所。
昭和の始まったばかりの頃、ようやく避暑地としての体裁も整い、宣教師たちの別荘も立ち並び、折から西武が大規模な開発に乗り出そうとする頃の軽井沢が舞台。草軽電鉄がのんびりと湯治客や避暑に来た外人、セレブを乗せてゴトゴト北軽井沢高原を走り、草津と軽井沢を行き来していた頃。
1917年12月 - 沓掛区の村有地売却に関する最後の区民総会が開かれ、60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で買収。隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていた村は、50軒の別荘を売ることを条件に契約した。堤は当時の妻の川崎文の実家などから買収金を工面した。契約時点でこの大金を実際に持っていたわけではなく、佐久の銀行から1万5千円借り、不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて束ねたものを見せた。区民総会はこうした経緯を知らなかった[8]。千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)、無名の自分の名前では株は売れないと判断して、社長に財界の大物だった藤田謙一を招聘、沓掛の土地を元に軽井沢開発に乗り出す。軽井沢沓掛の土地を、一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始める。
主な登場人物
○グエン・リンドン 軽井沢メソジスト教会の宣教師の娘、父の渡日に伴い来日した、18歳の
金髪碧眼の美少女。将来女優を目指している。
痩せた土地
江戸時代(1600〜1887年)の軽井沢は中山道・浅間の主要な宿場町のひとつとして栄えましたが、その土地は雑穀しか育たない痩せた土地であったため、明治時代に入り、宿場町としての機能が消失すると、すぐに寂さびれてしまいました。
アレキサンダー・C・ショー
そのように人から忘れ去られたこの地を復興させた「軽井沢の恩人」はカナダの英国聖公会司祭アレキサンダー・C・ショーでした。
彼は明治19年(1886年)にこの地に立ち寄った際に幼い時に過した故郷スコットランド類似の風情にいたく感動し、空気、水、太陽の輝きなど、その地の持つ癒しの力に触れました。その後明治21年(1888年)、彼は現在の旧軽にある大塚山に軽井沢における最初の別荘となる建物を建て、一夏を過しました。
日本における最も有名な避暑地
ショーはその後、知り合いの宣教師、知識人、文化人にこの地の良さを宣伝し紹介しました。
その結果、軽井沢は芥川龍之介、室生犀星、与謝野晶子、北原白秋、島崎藤村、内村鑑三等の著名な文人、詩人、宗教家の避暑地として知られるようになりました。同時に日本聖公会教会(明治21年)、軽井沢ユニオンチャーチ(明治30年)、日本人合同教会(明治38年)、軽井沢高原教会(大正10年)、聖パウロカトリック教会(昭和10年)など多くの教会が立ち上げられました。
現在では日本で最も有名な避暑地として知られるだけでなく、四季を通じての静養の地として変貌を遂げつつあります。
○南白川・薫子 南白川公爵の娘。病弱で夏はその所有する別荘にお供の家令と避暑に
来るのを通例としている。17歳。学習院高等科在学中
ぞくぞくと外国人の別荘が建つ
日本人で軽井沢に初めて別荘を建てたのは、英国留学の経験を持つ海軍大佐、八田裕二郎でした。
この別荘は100年を経た今も、彼の親族が大切に使っています。明治28年にはアメリカ人宣教師マクネアや英国人実業家ジョンストン、明治29年には英国公使館書記官ガビンスらが別荘を建て、明治31年には末松謙澄や鹿島岩蔵ら日本人も別荘を建築しました。明治35年には軽井沢の別荘は100戸を超え、多くの避暑客を迎える万平ホテルも現在の場所に移動し、完全な洋式ホテルとなりました。
軽井沢の歴史2
大正初期 旧軽井沢でレジャーを楽しむ宣教師と家族たち
高級別荘地の開発行われる
大正4年、野沢源次郎が離山から三度山にかけての広大な土地の開発を手掛け
高級別荘地として販売しました。加賀百万石の前田家や旧津軽藩主の津軽家、徳川家、細川家といった華族の人々が広大な土地を購入し、豪奢な洋館別荘を建築しました。このほか、大熊重信や鈴木喜三郎ら政財界人も別荘を所有しました。 大正6年、堤康二郎の千ヶ滝開発が始まりました。沓掛区所有地の70万坪に始まり、鬼押出し周辺80万坪、さらに発地や地蔵ヶ原など入手。この土地が後の西武王国を築き上げる基礎となりました。
軽井沢の歴史3
軽井沢に建つ高級別荘
文化人や著名人が訪れる、別荘を所有
室生犀星、芥川龍之介、堀辰雄など文人たちが訪れるようになったのも、大正時代から。
室生犀星も堀辰雄も軽井沢に別荘を持ち、軽井沢を舞台に多くの作品を生み出しました。
また、新渡戸稲造、後藤新平、尾崎行雄など、実力者たちが次々と軽井沢に別荘を持ち、軽井沢のステータス性は高まっていきます。戦後、天皇ご一家は千ヶ滝プリンスホテルに滞在され、軽井沢との結びつきが強くなっていきます。南ヶ丘に別荘を持つ正田家の美智子さんと皇太子さまとの「テニスコートの恋」も話題となりました。
昭和42年になると、別荘戸数は4000戸以上となり、昭和60年代のバブル期に入ると地価は高騰。
昭和63年には10000戸を超し企業の山荘が115戸にのぼりました。
軽井沢の歴史4
○小暮・野梨子 地元軽井沢でで老舗旅館を経営する、小暮旅館の一人娘。
16歳、活発でお転婆なお嬢さん。将来は旅館の跡継ぎとなる運命。
明治37年(1904)、山本直良(15銀行役員)は三笠山の麓の湯沢一帯約25万坪を買収して、三笠ホテルの建築に着手しました。設計は岡田時太郎、監督に佐藤万平、棟梁は地元大工の小林代造でした。建築様式はアメリカのスティックスタイル(木骨様式)、戸のデザインは英国風、下見板はドイツ風で、用材は小瀬の赤松を現場で製材して建設しました。
明治38年秋に落成式を行い、翌39年の5月に営業を開始しました。客室30(内ダブル10室)宿泊料一等12円、2等8円、3等5円(普通の旅館は1円〜2円)でした。
開業当時の記念パーティの写真には、ガス燈のシャンデリヤの室に大テーブルがおかれ暖炉の前に毛利夫人、その両側に近衛・徳川公爵・西尾子爵やその夫人たちが並び、ひげの山本直良や有島武郎がみえます。
明治39年(1906)5月から8月初旬までの宿泊者46人は全部外国人で、住居の欄には東京・横浜・大阪のほか、上海・ホンコン。マニラ。ロンドンの都市名と、イングランド、アメリカ、フランスなど国名だけの記載が見えます。
明治41年の8月中旬までの43人の宿泊者の中には、乃木希典夫妻と「おたか」の記名があり、このほか東京の木下・中村と漢字で善かれたサイン、そしてローマ字で善かれた4人の日本人らしい名前が見えます。乃木大将もM.S.NOghiと横文字で書き、その下に乃木静子と漢字で書き、さらにその下に Otakaと女性の名前が善かれています。
明治40年8月には日本館が完成して日本人の宿泊客が増えますが、乃木夫妻の外に住友吉左衛門、渋沢栄一、薄儀壬、井上準之助、幣原喜重郎、団琢磨など、財界人・外交官のほかに清朝最後の皇帝の名前があり、利用していることがわかります。
○黒岩・広樹 北軽井沢の開拓農家の18歳の青年、酪農とキャベツ栽培を父がして
いる。
その後を継ぐべきか、それとも東京に出て大学に行くべきか迷っている。
文学にも興味を持っている。
高原野菜をはじめとする農耕文化から芸術文化や教育文化に至るまで、外国人や文化人避暑客から伝播した文化が卓越していることが、軽井沢の特色です。わが国の高冷地における高原野菜の栽培は、軽井沢高原で始められました。
ここでは、明治18年(1885)雨宮敬次郎が拓いた雨宮新田で初めてキャベツが栽培されたといわれています。さらに明治26年(1893)、避暑に来ていた外国人の注文によって、常時キャベツを栽培するようになりました。
当時キャベツは農民の間では玉菜、また官庁においては甘藍と呼ばれていましたが、新しい商品作物のため珍重され、軽井沢の西洋料理屋ではロールキャベツなどにして提供されていました。生産されたキャベツは、東長倉村沓掛(現中軽井沢)における「玉葉屋」と呼ばれた青果仲買商の手で、地元の各市場に出荷されていました。
さらに第一次大戦後から信越本線を利用して、東京へ貨車単位で出荷されるようになり、一部は名古屋・大阪まで送られました。大正末期になりますと、キャベツは軽井沢に隣接した小沼・伍賀両村(現御代田町)でも栽培されるようになり、その作付面積は120町歩(120ヘクタール)におよびました。昭和恐慌期まで軽井沢の甘藍は、夏から秋にかけての東京市場で独占的位置をしめていました。
昭和10年から軽井沢町産業組合では、スウィートコーンを栽培し、これを缶詰に加工して、内外の避暑客に販売して好評を得ています。また高原に自生するクロマメの木の実を採果してジャムに製造しましたが、これは現在でも軽井沢の特産物になっています。さらに民芸品の軽井沢彫も、避暑客相手の地場産業でした。
○前野・洋二 草軽電鉄勤務の青年、北軽井沢駅の近くに住む。軽井沢の将来に悲観的。
木下恵介監督の名画、「カルメンこきょうへ帰る」でもこの草軽鉄道の
場面がふんだんに出てきますね。ユーチューブに映像があります。
今も残っていたらなあと悔やまれます。
レトロムード満点でブレイクしたことでしょうに。
○堀川・立夫 小説家、軽井沢に投宿している。胸の病で闘病中ながら,詩情豊かな作
品を執筆し続けている。
美しい軽井沢高原を措いた文学者や詩人の作品が実に多いです。古くは『万葉集』の東歌から、堀辰雄や川端康成らを経て今日まで、高原の至るところが、小説や詩の舞台となっています。軽井沢は古くから歴史の槍舞台に登場しており、また近代に入ってからは多くの文化人が避暑客として訪れたことも、ここで生まれた文学作品をより豊かなものにしています。また、軽井沢高原では、テニス・ゴルフ・ハイキング・サイクリング・スキー・スケート・馬術などのスポーツ施設がよく整備されています。これらのスポーツを楽しむには快適な軽井沢高原は、スポーツ文化の面でも水準の高い地域であるといえましょう。
○川原・未知造 堀川に師事する若い詩人。繊細でやわらかい詩を書く。この青年も
やがて師の病気と同様に胸を病んでいくことになる。
○山岡・多恵 15歳の少女。開拓村のかわりもの、源一爺さんのところにいる娘。
天衣無縫、野生の少女。狐や栗鼠と話が出来る特技?の持ち主。
○アレクサンダー・ウエズレー 軽井沢サナトリウムに勤めるイギリス人医師。
陰のある紳士で、もう、二十年以上ここで勤めている、
謎が多く、故郷には妻子もいるらしいが帰れないわけがある
ようだ。軽井沢の植物に詳しい。
あらすじ
昭和という御世が始まったばかりの頃、大東亜戦争も、まだ遠い先、ひと時の安寧が世上にあったころの青春群像を詩情豊かに描いた作品。
青春のほろ苦さ、ノスタルジー,郷愁に彩られた、ロマンティックな迷いと希望の交錯する
青春物語である。
背景に国際観光避暑地としてセレブや外人、新興財閥、華族様たちが夏をすぎしていた、
軽井沢の風物,四季折々の自然、草軽電鉄の風景などが点描される。
もちろん、以上は全てフィクションであり、実在の人物と似た様な人が登場した場合も、それは全て作者の空想の産物であることをお断りしておきます。
したがって実在のいかなる人物とも何の関係もありません。
あらすじ、
時は大正に始まる。大正4年、野沢源次郎が離山から三度山にかけての広大な土地の開発を手掛け
高級別荘地として販売しました。加賀百万石の前田家や旧津軽藩主の津軽家、徳川家、細川家といった華族の人々が広大な土地を購入し、豪奢な洋館別荘を建築しました。このほか、大熊重信や鈴木喜三郎ら政財界人も別荘を所有しました。大正6年、堤康二郎の千ヶ滝開発が始まりました。沓掛区所有地の70万坪に始まり、鬼押出し周辺80万坪、さらに発地や地蔵ヶ原など入手。この土地が後の西武王国を築き上げる基礎となりました。
大正時代になると、文人墨客も多数別荘を構えるようになり、
室生犀星、堀辰雄なども、滞在していわゆる軽井沢文学が執筆されるようになった。
そんな中、時は昭和が始まった頃。
明治創業の小暮旅館も、新しい需要層に向けて変身を迫られていた、
主人の小暮銀之助は改築して洋風のホテルへの立替を計画、
一人娘の野梨子への跡継ぎに期待に胸を膨らませていた。
一方奔放な野梨子は、宣教師館を訪れては、親しく新任のリンドン牧師やその娘のグエンとも交流し新しい文明の息吹を、アメリカの息吹を感じるのだった。
更に華族の娘、北白川薫子とも、教会のミサで旧知の間柄だったのだ。
さて、軽井沢から少し隔たった、開拓村では、急造する外人避暑客、華族財閥などの最新流行に
添うため、玉菜の大々的栽培が普及し始めていたのであった。
そこの一番の先覚者が、黒岩市兵衛つまり,黒岩広樹の父である。
彼は高原野菜の未来に目覚めて、外人客への食材提供の経験から、キャベツの未来に大きな夢を持っていた。広樹は食材の納入で小暮旅館にもしばしば行き、野梨子とも旧知の間柄だった。
また、コーン、つまり家畜用でなく生食用のとうもろこしの生産も未来があると踏んでもいたのであった。
それに反対するのが、多恵の父、千木良源一である。
彼は頑強に、開拓村はどうにもならないほうがいいと主張して、孤高のすね物暮らしを続けるのだった。
娘の多恵は一種の自然児で、北軽井沢はこのままで、外人なんかいなくなって狐と栗鼠の楽園になればいいという野生児だった。
密かに黒岩広樹に思いを寄せてもいたがそんな感情を決してあらわさない娘でもあった。
前野洋一はここらの開拓村の先駆者の家であり、北軽井沢一体は半分が彼の父の秀太郎のものであった。
当然のように、軽井沢開発を目指す西武の堤からもオファーがしばしば来るのだった。
近代的な別荘やホテルを作り外人、華族、富豪、文人に売り出しましょうよ。そういう誘いが来るのであった。息子の洋一は草軽電鉄に勤務しているがそれはまあ、副業程度、別に困ることはなかったのだが、出来ることなら、交通業界に行って活躍したいという夢もあるのだった。
草津と軽井沢を結ぶこの軽便鉄道を解して何か、観光開発が出来ないか。
西武の開発を見てそう思う洋一であった。
折から軽井沢には、文人墨客も多々訪れ、野梨子の宿にも、堀川立夫がしばしば宿泊していた、
彼は繊細な作風で、軽井沢の自然や、哀調帯びた風物を描き、野梨子もそれを読ましてもらって、感動するのだった。
その堀川に師事するのが、川原未知造で彼は若干20歳の東大建築学科の学生ながら、詩をたしなみ、叙情あふれるソネットを作るのだった。
その題材も多くは浅間高原の忘れ草や木々を読み込み、高原の涼風のような可憐な詩であった。
この未知造をめぐって野梨子と薫子は恋の鞘当を高原で、軽井沢プールで軽井沢テニス場で繰り広げるのだった。更にそこに、宣教師の娘金髪碧眼のグエンも加わって、恋のいくえは混迷を深めるのだった。
そうした青春群像が繰り広げる青春絵巻も、やがてはひと時の霧と化かして、軽井沢の高原に消えていくのであった。
未知造はサナトリウムで亡くなり、野梨子は傷心のまま、東京の大学へ進学することになり軽井沢を離れるのだった。
一方、薫子は万里公路公爵の長男との婚儀が整い、はれて嫁入りすることになり、詩人の思い出は心の中に封殺するのであった。
グエンも父が香港教会へ転任となりまた、思い出の軽井沢を離れるのであった。
黒岩広樹も急に東京農業大学に進学が決まり決意を胸に北軽井沢を後にするのであった。
残ったのは結局前野洋一と千木良多恵だった。
洋一は黒岩広樹を送りながら、ここ北軽井沢で生きていくことを思うのだった。
多恵もまた、こんな山奥でありながら、外国人がたくさんいるという特殊な環境について深く考え、自然児から、観光避暑地軽井沢での行き方を模索していくことになるのであった。
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堤康次郎
南軽井沢の落ち葉松林の朝霧
浅間牧場(柵にもたれて風琴弾けば名も知れぬ小鳥が独り答える)
軽井沢御水場(二条公爵邸内)
軽井沢テニスコート(長いドレスと羽の帽子でテニスに興じる外国婦人)
軽井沢市街地(日傘とロングドレスの外国夫人。店の看板は英文)
the street at karuizawa
碓氷峠アプト式
くさつおんせんへは草軽軽便鉄道で
白鳥の池
三笠ホテル
白糸の滝
参考資料 北軽井沢ブルーベリー YGHホームページ 軽井沢の歴史
かるゐざわ
軽井沢物語 宮原安春
思い出の草軽電鉄
軽井沢写真集
軽井沢歴史民俗資料館(軽井沢町営)
美しい村(堀辰雄)
風たちぬ(同上)
軽井沢戦前絵葉書
ミカドの肖像(猪瀬直樹)
インターネット上の軽井沢紹介サイト
銀のボンボニエール 秩父の宮妃勢津子
後宮の世界 堀江宏樹
徳川慶喜家の子ども部屋
ミカドの淑女 林真理子
ミカドと女官 小田部雄次
万平ホテル wikipedia
旧三笠ホテル wikipedia
流転の王妃の昭和史 愛新覚羅浩
李香蘭 私の半生
http://www.mogsan.net/
http://kita-karu.net/
※この作品はフィクションであり、登場人物、小説の内容、設定等全て事実ではありません。
もちろん、以上は全てフィクションであり、実在の人物と似た様な人が、たとえ、登場した場合も、それは全て作者の空想の産物であることをお断りしておきます。
したがって実在のいかなる人物とも何の関係もありません。