黒髪清楚なあの子はビッチ
百合に挑戦してみた。
肌寒くなってきたこの時期、まだ厚着するには早いけれどそろそろカーディガンを着始めた子が多い。
学校指定のグレーのカーディガンはぴっちりしている上にあまり可愛くなくて、服装に気を使っている生徒はわざわざ登下校の際は指定外の物に着替えているらしい。
私は別に指定のものでも不満はないのだけれど。二年目に差し掛かったグレーの袖は少し擦れていて、そろそろ穴が開くかもしれない、と思う。
もうすぐホームルーム、席に着いて待っていると少し暇。周りでは仲の良い子達が集まって話しているけれど、朝からそんな元気も出なくて私は座ったままだった。
そんな教室の中で、一際きゃあきゃあと賑やかな人だかりをそっと窺う。
男子、女子。他のクラスの生徒も交えながら侍らすように笑顔を振り撒く、同じクラスの橋田みちかがその中心に居た。
黒髪清楚なあの子はビッチ
橋田みちかはビッチである。告白すればどんな男に対してもオッケーを出すらしい。
それを初めて耳にしたのは去年、一年の秋の事だった。
私のような大人しいグループに所属する人間も聞こえてくるという事は、それは相当有名だということで、当時クラスも違う私はどんな女子なのかと少し空想を膨らませた。きっと派手な容姿をしていて、きらびやかな人間。さほど興味も湧かなかった為に確認に行く事はなかった。きっと怖い女子で、何見てんだようぜーな、そう言われるだろうと思っていたからだ。
それが覆されたのは二年に上がった時だった。同じクラスに橋田みちかの名前がある。目を付けられませんように、平穏無事な一年を過ごせますように。祈りながらドアを開けた私は、そこにギャルに該当する人物が見当たらずに俄に困惑した。
同じクラスになれたね、よろしくね。沢山の友人たちに囲まれてそう微笑んでいたのは、黒くて長い髪が印象的な、一人の清楚な美少女だったのだ。
こんな女子居たかな、とんでもない美少女と同じクラスになったものだ。そう思いながら初めてのホームルーム、自己紹介の時間が訪れた。そうして美少女は艶やかな唇を開いて告げた。橋田みちかです、よろしくね。去年は二組でした━━
驚いて思わず二度見してしまったのが懐かしい。私の挙動不審さは幸い誰にも気付かれないまま、橋田みちかはふわりとスカートを浮かせて腰を下ろした。
ストレートな綺麗な髪、揃えられた前髪、小さい頭を飾っているのはパーツの整った顔、それを支える華奢な体。スカート丈は膝の少し上で、紺のハイソックスは肌の白さを浮き立たせている。
これが、学年で有名な、ビッチ?
私は混乱して、その後回ってきた自己紹介で何を話したのか一切覚えていない。橋田みちかはくすくすと笑っていたから、もしかすると妙な事を口走ったのかもしれなかった。
春が終わり、夏が来た。今は夏休みも終わって秋の足音が近付いている。その間私はモブに徹したまま、橋田みちかを密かに観察していた。
彼女は明るく、人当たりの良い人間だ。私はその輪に加わる事はなかったけれど男女も先輩後輩も関係なくいつも人に囲まれていて、誰のどんな話を聞いても楽しそうにころころと笑っている。性格が良いのか聞き上手なのか、何かあっても無くても友人たちがみちか聞いてよとひっきりなしに彼女の元を訪れる。
これはビッチではなく、人たらしだな。私はそう結論付けた。
盗み聞きのスキルはどんどん発達した。友人の机に近付いて話し掛ける時にも、私の耳は橋田みちかの声を拾う。
どうやら彼女は男子の告白はすぐに受け入れるけれど、二股をかける事はないらしい。フリーの時限定で付き合っているけれど、その付き合う期間がそもそも短い事が多かったり、別れた直後に別の人間に告白される事、そしてすぐに付き合う事からその噂が流れたのではないかと私は判断した。
男子は彼女を放っておかない。人当たりも良く綺麗な彼女は、まるで猛獣の檻に放たれた餌のような存在なのだ。次々と猛獣は彼女の元にやってきて、そして彼女はそれを微笑みと共に応じる。
好きな男子を取られたと怒りをぶつける女子も初めは居たのだろう。けれども彼女の会話センスの成せる業なのか、その女子もみな彼女に取り込まれた。彼女の傍には居心地の良い空気が流れている。みちかなら仕方ないか、皆そうして円満に解決してライバルから友人へとクラスチェンジしたらしい。
大したものだ。私は感心する。気付けば女子たちは皆彼女を恋愛指南の先生だと崇め敬い、様々なアドバイスを受けている。戦績充分な彼女は苦笑いを浮かべながらも真剣にそれに答えて、また友人たちはそれを基にリアルを充実させて女子高生ライフを楽しんでいるようだ。
観察しているだけでお腹いっぱいになる彼女に、近付く事はないけれど同じクラスになれて良かったと思う。退屈しないのだ。
ふう、と満足して息を吐いた私に、わざわざ席まで来たのにため息なんて吐いてと友人が怪訝そうな眼差しを向けていた。
「え、かなちゃん後期美術じゃなかったの?」
「気が変わったから茶道に変えた。まだギリギリ定員空いててラッキーだったよ、言わなかったっけ?」
何という事だ、私は頭を抱えた。
他の高校は知らないけれど、この学校には二年から選択芸術の科目がある。音楽や美術など好きに選んで良いそれは息抜きのような授業で、前期と後期で違うものを選択しなければならない。
興味のあるなしもだが、仲の良い友人と同じ授業を選択するかどうかも生徒の中ではかなり大きな比率を占めていた。クラスが離れた友人とも一緒に受けられるのだ。
昨年同じクラスだった、この学校で私が一番仲の良い友人、かなちゃん。今年も同じクラスになれて良かった。そう思って前期は同じ書道を選択したのだけれど、後期は離れてしまったようだ。
「りん、美術頑張って。同じクラスからも美術選んだ人いたみたいだから、その子と行きな」
茶道の授業ではお茶とお菓子が出るらしい。うきうきと準備を始めるかなちゃんをじっとりと見つめる。美術はあまり人気がなくて、希望すればすぐに入れる。ぼっちを避けるべくかなちゃんと相談しながら選択したと言うのに、私は寸前で裏切られてしまったようだった。
「美術行くのって、誰なの」
「私が知る訳ないじゃん」
「びっくりするほど冷たい」
恨みがましい目を向ける私を軽くあしらう友人。今更どんなに嘆こうとも行くしかない。やる気も出なくて筆箱を片付けていた私に、祝福の鐘を思わせるほどに軽やかな声が掛かったのはその時だった。
「りんちゃん、…矢崎りんちゃん。選択、美術だったよね? 私もなの。一緒に行かない?」
友達、みんな別の選択取っちゃって。
そう言いながら私に微笑んでいたのは、観察対象ではあったけれど未だに挨拶以外を交わした事のない、橋田みちかその人だった。
「美術だけど、…橋田さん? 一人なの?」
「そう。前期は音楽だったから、後期は茶道にしようかと思ったんだけど。私だけあぶれちゃった」
どういう事かとかなちゃんを見るが、定員が空いていたと言ったかなちゃんも分からないようで首を振った。
橋田みちかが老若男女問わずに人を寄せるのは、恐らく教員も知っている事だろう。もしかしたらその辺に何かあって、ただでさえ人気の授業である茶道に入れるのは、と彼女だけ弾かれてしまったのかもしれない。
「ねえ、もう予鈴鳴りそう。私行くね、りんと橋田さんもそろそろ行った方が良いよ」
「本当だ。じゃあ行こ、りんちゃん」
「あ、…うん」
初対面、ではないけれど、まともに会話をしたのはこれが初めてだ。りんちゃん、あっさりと名前を呼ばれて何だか幼稚園児にでも戻ったような気持ちになる。
心までそこに戻ってしまえれば私からも平気な顔で橋田みちかに話し掛けて簡単に友人になれたのかもしれないのに、そこから十年以上年を経た私の口はなかなかその鍵を開けてはくれなかった。
「りんちゃんと話すの、初めてだね。同じクラスなのにね」
何がおかしいのかくすくすと橋田みちかが笑う。そうだね。私は曖昧に笑みを返した。
選択芸術は特別棟で行われる授業が多い。普段授業を受けている教室とは離れているから、五時間目の前、昼休みだというのにみんなもう移動しているのか廊下は何だかいつもより静かだ。
美術室は特別棟ではなく本館三階にあって、私たちは二人だけ、上履きをきゅっきゅ言わせながら階段を昇る。かなちゃんは本館一階の茶室に着いただろうか。寝心地が良いと聞いたそこに私は入った事がない。
「りんちゃんって、去年五組だったんだっけ。部活はしてるの?」
「してないよ。してないというか、幽霊部員」
「そうなの? ふふ。何部?」
「かなちゃんが文芸部作りたいって言うから、協力して名前貸ししただけの文芸部」
「文芸部なんてあったんだね」
「まだ愛好会だけどね」
無言は嫌なタイプなのか、橋田みちかは次々と私に話し掛けてきた。好きな食べ物、よく行く店。質問責めにされているのに嫌な気持ちがしなかったのは、橋田みちかのその顔面とそこに湛えられた微笑みのお陰だろうか。
私に訊いてきた分だけ彼女も訊かれてもいないのに様々な情報を開示してきた。学校裏のクレープ屋にハマっている、駅前のバーガーショップには週一で行っているからそろそろ顔を覚えられそう。心配せずとも私なら一発で覚える、橋田みちかは周囲が霞んで見える程の美少女なのだから。言わないけれど。
そろそろバイトしないとお金ヤバいかも。そう呟かれてぎょっとした。そのバイトは、ヤバいバイト?
思わず私からも質問をした。初めての質問。バイトって何してるの? 彼女は嬉しそうに答えた。親戚がやってる喫茶店のお手伝い、紅茶の種類覚えられて楽しいの。私は想像する。橋田みちかが運んでくるお茶はきっと、通常より美味しい。
「もっと早くりんちゃんと話してみれば良かった。楽しいね」
彼女はそう言って私に笑い掛けた。それは無理だ、彼女の取り巻きの壁は厚い。私が入り込む余地はない。
「私、橋田さんのお友達とちょっと、雰囲気違うからね」
何か返さなくては、焦って答えたそれは何だか中二病のような返事になってしまった。けれど彼女は笑うでもなく、そうだねりんちゃんにはうるさいかもね、と真剣に返してくれる。いつもうるさいよね、ごめんね。謝罪までされてしまって、慌てて首を振った。
「賑やかで良いと思うよ。橋田さんの周りいっつも楽しそうで」
「りんちゃん。みちかで良いよ」
遮るように橋田みちかがそう言って、私は思わず唾を飲み込んだ。
昨日まで、今朝までには考えられないほど、私は今橋田みちかに近付いている。
「みちか、…ちゃん」
「なあに、りんちゃん。ふふ。美術、一緒に頑張ろうね」
いつの間に着いていたのか、美術室の扉に橋田みちかが手を掛けていた。本鈴がもうすぐ鳴りそうだ。
「席、どこでも良いみたいだね。一緒に座ろう」
彼女の唇はやっぱり桃色に艶めいていて、何か塗っているのだろうか、━━舐めたら甘そう。私はそんなことを考えてしまった。
「りん、選択どう?」
「美術? 普通だよ」
週一回、木曜日の五時間目。眠気を誘う時間に選択芸術は入っている。
もう何度目かのその授業にはすっかり慣れて、かなちゃんも今日は何のお茶菓子出るのかなと嬉しそうにお弁当をぱくつきながら話していた。
至って普通の美術の授業。陰影の付け方だとか、立体感の持たせ方だとか。本業は画家だという先生は木曜日だけ現れて、その知識を分け与えてくれる。
段々上達していく自分の絵が何だか楽しくて、私は思ったより真剣にその授業を受けていた。
それは橋田みちかも同じだったようで、お喋りしたりするのかな、と思っていた私の予想は外れた。彼女は意外なほど真剣に先生の話を聞いて鉛筆を滑らせる。
ただしこちらも意外だったけれど、彼女は想像以上に絵が独創的だった。苦手なんだよねえ、笑った彼女は言い訳する子供みたいで、その笑顔は何だか私の胸をざわつかせた。
「かなちゃん、もうご馳走さま? 何かお弁当小さくない?」
「お茶飲んでお菓子食べるでしょ。六時間目満腹過ぎて眠くなるからさー」
七分目くらいにしておかないと。そう言いながらかなちゃんはお弁当を仕舞う。なるほど、六時間目はかなちゃんの苦手な数学だ。寝てしまっては大変な事になるのだろう、主にテストが。
「美術って何描いてるの?」
「先週までは自分の手を描いてたよ。利き手じゃないほう。今週からは何だろうね」
最後の一口を平らげて、私も片付ける。予鈴が鳴り始めるとみんな移動するから、それまでは一休みだ。橋田みちかは学食で食べているのか姿が見えない。
「橋田さん、どう? 今まで喋ったことなかったでしょ」
「普通。近くで見てもめっちゃ美少女」
「見たら分かるよ」
苦笑しながらかなちゃんはミルクティーを啜った。じゅごご。空気の音が聞こえる。
「無くなっちゃった」
「捨てたら」
「うい」
ゴミ箱に歩いていくかなちゃんを見ていると、がやがやと人が近付いてくるのが聞こえた。学食組が帰って来たのだろう、ぼちぼち準備をしなければならない。巾着の紐を結び直し、かなちゃんの前の席、借りていた椅子を元に戻す。
「もう行くの?」
「とりあえず準備しとく」
「そだね」
今日は何を描くのだろう。楽しみに思う気持ちと、緊張する気持ちが陰陽のマークのようにぐるぐると巡る。絵を描くのは楽しい。緊張するのはすっかり選択の授業ではペアとして定着した相手の、
「りんちゃん。ちょっと早いけど行かない?」
学食から戻って来たのだろう、友人たちにまた後でね、と挨拶をしながらにっこりと笑って橋田みちかがそう言った。
「今日は人物を描いてみましょう」
先生の声に、ざわついていた教室に一瞬静寂が訪れた。
俺お前なんか描きたくねーよお。俺だって。文句を言い合う生徒たちを見て先生が笑う。
いつものペアで良いね。先生の言葉に、誰かがはあいと返事をしていた。
「りんちゃん…私頑張るけど怒らないでね…」
一番始めの授業で渡されたスケッチブックを開いていると、正面から情けない声がした。見上げたそこにはへにょりと眉を下げて悲しげにこちらを見ている橋田みちかが居て、思わず噴き出す。
怒られた子犬のようだ。よしよしとしたくなる。
「みちかちゃん、大丈夫。みちかちゃんの画力は知ってる」
「それも酷い」
ぷくりと丸めた頬は幼く見えて、酷く愛らしい。私もそんなに上手じゃないから。告げた言葉にはそんなことないよと返されて、りんちゃんは上手じゃないと褒められる。正直、彼女に比べれば誰もが上手に思えるレベルだ。
「ね、描こ。お互い描き終わるまで見せっこなしね」
「…私、完成させるのだけを目標にするね」
選択で取らない限り、この学校に美術の授業はない。
だから、勉強もスポーツも成績の良い橋田みちかが絵が得意ではないことを知っているのは、この教室に今いる生徒と先生だけ。
そして、そんな橋田みちかに絵を描いて貰っているのは、この学校できっと私だけ。
奇妙な優越感と共に、私は鉛筆を握り締めた。
それから三週間が経った。橋田みちかは私が大人しいグループで平和な日常を送る事を良しとするのを知っているからか、普段教室で話し掛けてくる事はない。木曜日、昼休み。美術室に移動する時と、授業中と、それが終わってクラスに戻る時。まともな会話をするのは週に一度だけだった。
それ以上を求めた訳ではない。そもそもカーストが違う。彼女は頂点に居て、私は下位のほう。それが覆る事はなかったし、覆そうと思ったこともなかった。
ただ、私以外と居る時。彼女が取り巻きと話している時とか、また違う相手と付き合っているんだってさ、そんな噂を耳にした時に、私のどこか、心臓の辺りがむかむかとするようになったのはいつからだったのだろう。
それが落ち着くのは木曜日だけで、…もう落ち着くとも言い難かった。橋田みちかと話している時ですら、二人きりで廊下を歩いている時ですら。私はまだ足りない、もっとだというどす黒い自分の胸の内を耳にするようになっていた。
「それでねえ、るみちゃん。知ってる? 隣のクラスの。るみちゃんもう飽きちゃった、なんて言っててね」
「…うん、よくみちかちゃんのとこに来てる子?」
「そうそう。髪茶色い子。りんちゃん話したことあるっけ?」
「無いけど、聞こえてくるから、」
ハッとして口をつぐむ。二年になって以来、日課としていた橋田みちかの観察。こうして話すようになってもその癖はなかなか治らず、むしろ悪化して聞こうとせずとも彼女の声を私の耳は拾い続けていた。るみちゃん。彼女の声がよくその名を呼んでいるのは聞こえていた。私はかなちゃんと話しながらも、その時どう思っていただろう。━━私もりんちゃんって呼んでよ。そう思っていなかっただろうか?
嫌な感情を覚えてそれから黙った私を、彼女は不思議そうに見ていた。伝わっていませんように。俯いた私の腕を橋田みちかはぽんぽんと叩いてきた。
「私の周り、うるさいよね。りんちゃんも言って良いよ、うるさーい! って」
「言えないよお」
ごめんねえ。そう笑った彼女にほっとしながら首を振る。誤魔化してくれたのか、━━何を? 私が聞き耳を立てていると、彼女は気付いているのだろうか?
上機嫌に鼻歌を歌いながら歩く彼女は、まるで絵画から出てきたかのようだ。抱えたスケッチブックと筆箱。タイトルを付けるとしたら何が良いだろう。
「ね、そろそろ完成させてって先生言ってたでしょう。りんちゃん出来そう?」
「…分かんない、今日次第かなあ」
来週からは違う課題を出すから、出来れば今日までに完成させること。確かにそう言われていたけれど、私の絵はまだ完成していなかった。
そもそも彼女をモデルにしている時点で完成することはないのかもしれない。描いても描いても満足出来ない。プロでも何でもない私はどうしても納得出来なくて、手を入れては消して。大体の輪郭は二週間前に出来ていたのに、細部はちっとも書き込めずに進んでいなかった。
「私のは大体出来たよ」
「みちかちゃんのはねえ…」
「ちょっと。見てもないのに貶すのはやめてね」
くるりと振り返った橋田みちかが拗ねたように言う。今は三年の男子と付き合っているらしい。その男にも、こんな愛らしい仕草を見せているのだろうか。
「描き終わったら、せーので見せようね」
「そうだね」
約束しあってくすくすと笑う。私たちは友人になれたと思う。一週間の内の一日、この時間限定の。
だから、踏み込む事は出来ない。
放課後一緒にどこか行こうだとか、今彼氏居るの? と直接訊く事だとか。連絡先すら知らない関係。
私は彼女と、橋田みちかとどうなりたいのだろう。握ったスケッチブックがぎしりと音を立てた。
「終わった?」
「…終わらなかった」
今日の美術が終わってしまった。そして、私の絵は完成しないままだった。
俯いて真剣に絵を描く橋田みちかの姿。彼女が描いているのは私、それを描く私。無限ループのような絵。
目を伏せた彼女の長い睫毛であるとか、綺麗に整えられた爪であるとか。部分部分は納得のいく出来だったけれど、全体としてはまだまだだった。
彼女は見れば見るほど美しい。まるで神の造り上げた芸術品だ。私はここまで綺麗な人間を、テレビ越しにも見たことがない。
真っ黒い目が私を見る度に心臓が跳ねるこの感覚を表現してみたかったのに、私が彼女を構成するパーツで一番好きな目は下を向いていて見えないし、次に好きな唇は俯いているからよく見えない。
見えないなりに時間をフルに使って精一杯描いたのに、チャイムが鳴って、ペアでお互いを描く授業は終了してしまった。
もう彼女を合法的に眺める事が出来ない。俄に落胆する。
よほど落ち込んで見えたのか、教室に戻りながら歩いていた私の袖を橋田みちかがそっと引っ張る。
「…どうしたの?」
「…絵、完成させない?」
「でも、授業は終わっちゃったよ」
「まだ見せて貰ってないもの。お互い完成したら見せっこの約束でしょ。りんちゃんが描き終わったら見せて貰って、私のも見せる約束」
だからね。彼女が私に囁く。━━放課後、ちょっと教室に残らない? 完成させちゃおうよ。
にこにこと笑った彼女には、善意しか見えない。傾けた首筋から濡れたような黒い髪がさらりと前に流れた。
「…私は大丈夫だけど、みちかちゃん予定とかないの?」
「あったら言わないよー。暇暇、暇なの。駄目?」
「…良いよ、ありがとう。今日中に何とかするから、完成させるまで付き合ってくれる?」
「勿論!」
ぱたぱたと走り出した彼女を追う。彼氏は大丈夫なの、言えなかった言葉は廊下に置き去りにして私たちは階段を駆け降りた。
教室に戻ってすぐに手を振ってお互いの席に別れる。いつもはそれでおしまい。けれど今日は放課後を橋田みちかと共に過ごす。
そう思っただけで何だか顔に熱が集中するようで、どうせ誰も見ていないけれど念のために机に顔を伏せた。
何なの。分かってる。そんな馬鹿な。
ここ最近ずっと自問自答しているそれは、答えが出てはいけないものだ。 寸前で押し止めて、大丈夫、何ともない、大丈夫。ゆっくりと深呼吸をする。
落ち着いてきて顔を上げると、橋田みちかの笑う声が聞こえた。よく響くのか、耳に心地良い彼女の声は集団の中でも分かりやすい。
早く先生、来て下さい。
退屈な数学が始まって教室が早く静かになりますようにと、教科書を引っ張り出しながらため息をついた。
「りんちゃんってさ」
クラスメートは皆帰った、静かな教室。吹奏楽部のパート練習の音と、野球部が走り込みながら掛け声を上げているのが聞こえる。
教室の中で立つ音は、私の鉛筆が紙を擦る音と橋田みちかのぽつりと溢した声だけだ。
「何?」
「完璧主義者? 美術の時凄い熱心だよね、いつも」
「…そういう訳ではないよ」
下手なりに、私が思うあなたの魅力を最大限引き出したいだけ。それが完璧主義だと言うならそうなのかもしれないが、到底描き切れるものではない。
言えないけれど。
顔を上げると、橋田みちかもこちらを観察していたのか面白そうににまにまとする視線とぶつかった。どこかばつが悪くて、なに、と低い声が出る。
「どこが描けないの?」
「どこ、って…」
「難しそうな顔してたから。何かお手伝い出来る?」
すっきり通った鼻は我ながら上手く描けたと思う。問題なのは目と唇。
「お手伝いって?」
「触る?」
感触確かめたら、上手に描けるかもよ。いたずらっぽい声で嘯く。
ああ、彼女はこうして男を落とすのかな。私は催眠術にでも掛けられたみたいに、言われたままに迷うことなく頷いた。
操り人形にでもなったみたいだ、私の手は私の意思を無視して誘導されるように彼女の顔に近付いていく。
ころりと鉛筆が転がった。
「…凄いね、みちかちゃん顔小さい。すべすべ」
「くすぐったい」
ふふふ、と私の指に合わせて彼女が笑う。首を竦めて、その拍子に鎖骨にぶつかった。ぴくりと指が跳ねる。
「顔は描いたんじゃないの?」
「まだ、描ききってない」
「あとはどこ?」
「…目と、くち」
橋田みちかが目を細めながら、私たちの間にあった机に身を乗り出した。今までで一番近い距離。瞬きの度に空気が動くのを感じ取れるようだった。
「見える?」
「うん」
「ちゃんと見てね」
私が描いていたのは、俯いて絵を描く橋田みちかの姿だ。だから、こんな正面で観察したところでそれに意味はあるのか。
それを言えば彼女は、そうだね、と言って離れていくだろう。だから私は何も言わずに、息がぶつかる程の近さで彼女の顔をまじまじと見つめる。
きっとこんな機会は、これを逃したらもうない。
「みちかちゃん、睫毛長いね。化粧してる?」
「肌だけ、ちょっとね」
毛穴の一つも見えないそれは、もしかしたら人形に命が吹き込まれたものなのかもしれない。人はあまりに美しい物を目にすると、どうやら思考に異常をきたすようだ。私は今、それを身をもって実感していた。
「…ねえ、みちかちゃん」
「なあに」
「…唇、触っても良い?」
ちゃんと描きたいから。言い訳のように告げた言葉ににこりと笑って、ん、と彼女は上を向くように差し出してきた。
桃色のそれ、普段より赤みが強く見えるのは教室に夕陽が射し込んでいるせいかもしれない。
「…べたべたする」
「あは、グロスだ。ごめん」
「これ、いつも付けてるね」
「そうでもないよ」
柔らかいのかとか、そういう感触よりもべたついたそれが気になっていまいちよく分からない。
にっこり笑って口を動かすから、指を退けようとしたのに彼女は私を逃すまいとするように唇で私の指を食んだ。
捕らえられているのは親指だけだというのに、彼女は私の全身を捕まえているように私を支配している。
驚いて跳ねた肩が何だかみっともなく思えた。
「お気に入りなの。このグロス」
「…そう」
話す為に開いた唇は指を解放したけれど、私の親指はまだ彼女の口に触れたままだった。
だって、グロスでよく分からないから。まだ触って確かめないといけない。
「いつもは違うの付けたり、リップだけの時もあるよ。これは、木曜日専用」
「何で?」
「りんちゃんに似合うと思って」
言葉の意図が分からずに見つめた私を、橋田みちかはまるで聖母のような微笑みをたたえて見守っていた。
不意に手首を掴まれる。
「りんちゃん、色素薄いから。きっとこの色似合うよ」
「…ありがとう? 貸してくれるの?」
「分けてあげる。もっと私の感触を確かめる方法、あるよ。一石二鳥の」
ぺろりと彼女が唇を舐めた。何となく意味が分かって、手首を引くけれどびくともしない。彼女の力が強いのではなくきっと、私の体が彼女から離れるのを拒否しているのだ。
「…みちかちゃん、今彼氏居なかった?」
「日曜日、別れたとこ。気にしちゃう?」
「…ていうか、私、付き合ってる人が居る人とどうにかなるのとか、自分と付き合ってない人とどうにかなるのとか。無理」
「名は体を表してるね。だから私、りんちゃんと仲良くなってみたかったの」
じゃあさ。彼女が私にどんどんその身を寄せてきて、耳元で囁く。━━私と付き合ってくれたら、りんちゃん、もっと確認してくれる?
肯定も否定も出来なかった。私たちは女同士で、どうにもならない。付き合うって? 何をするの?
動かない私に焦れたのか、それとも反対しないなら受け入れたのだと思ったのか。私は返事をしないまま、彼女はそっとその唇を私に押し付けてきた。
男子と付き合った事もない私は勿論キスの経験なんてなくて、だからこの柔らかさはみんなが持ち合わせているものなのかそれとも橋田みちかの特別なものなのか、判断が出来ない。
べたついていたグロスは離れるのを惜しむように私たちの唇をくっつけていて、とうとう隙間が空いた時にはぷちゅりと何だか変な音がした。
「どう、分かった?」
「…えっと、」
「ふふ。女の子とキスしたの、初めて」
「私だって」
うっとりと橋田みちかが私を見る。見ているのに、視線が合わない。目ではなく、やや下。私の唇を見ているのだろうか。
「やっぱりりんちゃん、この色似合うよ」
彼女のグロスが移ったのだろう。すっぴんなのに唇だけつやつやしていたって、不恰好だろうに。橋田みちかは満足げに私を見ていた。鼻先がぶつかる程の距離。
「足りないかな。もう少し付けたらきっと、もっと可愛くなるよ」
そっと顔を近付けてきた彼女に私は抵抗せずに、静かに目を閉じてそれを受け入れた。
「…ねえ。どうして私と仲良くなってみたかったの」
一度目より少し長かったそれが終わって、彼女が離れた隙を見て私は問い掛けた。
少し桃色が取れかかった口を三日月の形に彼女が歪める。
「りんちゃん、自己紹介何て言ったか覚えてる?」
「自己紹介?」
それは、橋田みちかを確認して動揺していたホームルームの時の話か。私は何と言ったのか直後ですら記憶になかった為に、ただ左右に首を振る。
「矢崎りん、漢字は倫理の倫です。筋道を違えないようにと親が付けてくれました。よろしくお願いします」
「…それが、何?」
思ったより変な挨拶ではなかった事にほっとする。確かに言ったような気がする。彼女が一語一句違わず記憶するような、妙なものではない。
「私たち、共通点あるでしょう? 同じクラスの女の子、それだけじゃないよ」
「…みちかちゃん」
「私の漢字は倫理の倫に、佳人の佳で倫佳。でも私はこんなでしょ? だから、同じ漢字で名付けられて、その通りに生きてるりんちゃんとね。話してみたかったの」
今、ちょっぴり道、踏み外しちゃったね。元凶そのものの彼女が笑う。神に愛されたような容貌で。
きっと私はこの絵を完成させる事は出来ない。まだ足りない、もっと確かめなくては。何かが私に囁き続ける。
三度目に彼女が近付いてきた時も、私はやっぱり押し退ける事が出来ないでいた。
遠くから硬球を打つ音がする。夕陽に染まった青春そのものの教室で、私たちは何度もキスを繰り返していた。