一之瀬咲良の日常
季節は梅雨も終盤、6月中旬。シトシトと降り続く雨に紛れて、太陽が本気を出し始めるころである。珍しく晴れたと思いきや、久しぶりの太陽が雨に濡れたアスファルトをジリジリと焦がしている。そのせいか、むわっとした夏特有の湿気があたりを包んでいた。
「やっば~、これ間に合うかなぁ」
そんな中を、腕時計を気にしながら全力疾走する一人の少女がいた。制服に学校指定のカバン、片手にバナナを持ち、少し茶色の入った長髪をたなびかせて走るのは一之瀬 咲良。高校二年生のぴっちぴちの女子高生である。
なぜ彼女がこれほどまでに急いでいるか、それは寝坊したからである。本来起きるべき時間を20分もオーバーすれば、焦らざるを得ないだろう。慌てて起き、急いで着替え、カバンとバナナをひっつかんで家を飛び出してきたのだ。
車が来ていないタイミングを見計らって道路を横切り、普段は通らない裏道を通り、その他いろいろな近道を駆使してようやく校門が見えてきた。ちょうど生活指導の先生が門を閉めようとするのが見える。
あと一息、直線五十メートルほど。
「うおおおおおぉぉぉぉぉおおお!!!!」
雄たけびを上げて、ついでに速度も上げる。火事場の馬鹿力とでもいうのか、グングンと咲良のスピードはまし、ギリギリで校門に滑り込む。さっと時計を確認すればチャイム一分前。本当に、ギリギリであった。
「セーーーーフ!」
「何がセーフだバカモン! もっと余裕を持ってだな……!」
一息つく間もなく、先生からの説教が飛んでくる。なるほどごもっともではあるが、寝坊をしてしまったのだから、余裕が無いのはしょうがない。それに今日は説教をくらっているとホームルームに遅れてしまう。
「ごめ~ん先生。説教はあとで付き合うからさ、今は見逃して!」
咲良は一言謝って、校舎へ脱兎のごとく全力疾走する。その見事なまでの遁走に先生はしばし唖然する。しかし、すぐに我に返って怒鳴り声を上げる。
「お、おいこら~! 待たんかい~!」
だがすでに時遅し。咲良の体はすでに校内に消えており、怒鳴り声だけがむなしく響き渡るだけだった。
「ひ~~、あっぶな~~」
廊下を疾走することで何とかホームルームが始まる前に、咲良は教室へ突入する。そして安堵の息とともに呼吸を整える彼女に、さっそく話しかけるものがいた。
「おはよ~咲良。遅かったじゃん」
咲良の一番の親友、西野 早苗である。人当たりが良くスラリとした体系の美人、しかも運動神経も良く、まさに才色兼備といったところだ。
「ちょ、ちょっとね、寝坊を、しちゃって」
息も絶え絶えに咲良は返答する。そんな彼女の回答が意外だったのか、早苗は目を丸くして驚いた表情を作る。
「へぇ、珍しい。健康優良児のあんたがねぇ」
「きょ、今日がね、楽しみでね、眠れなかったの」
「今日っていうと……ああ、転校生?」
「そうそう、小学校の頃のね、親友だったんだ」
それが、咲良が寝坊した理由であった。かつての親友が今日、転校してくるのだ。幼稚園から小学校6年まで一緒に遊んだりしていたが、家の都合で引っ越してしまった。長い黒髪が印象的で、小学生ながらきれいな子だった。長らく連絡をとってなかったが、つい最近手紙が来て、転校してくることを知ったのだ。
久々の再開、それが楽しみで眠れなかったのである。
「へぇ~、じゃあ女の子か。イケメンが来ると思ってたのにぃ」
「そんなこと言って部活の先輩は? 付き合ってなかったっけ?」
「すっげぇガっついてきてウザかったからフった」
「またぁ?」
早苗の悪いところだ。彼女はよくモテるが、肝心の性格がドライであるため長続きしない。よく言えばさっぱりしているが、悪く言えば見切りが早い。その分友達としては付き合いやすいので、咲良は一年の時から仲良くしている。
「私としてはぁ……」
間延びした声を出しつつ、早苗は咲良へ抱き着いてくる。
「ちょ、ちょっと」
「咲良がぁ、一緒に陸上してくれたら嬉しいんだけどなぁ」
「だから無理だって。今更だし、それにバイトだってしないといけないし……」
早苗を引きはがしつつ、咲良は言う。案外素直に離れた早苗は、しかし残念そうだ。
「体力だってあるし、足だって速いのにぃ。あ~もったいない。おばさんだって、バイトはしなくてもいいって言ってるんでしょ?」
咲良の両親はすでに他界している。現在は親戚のおば夫婦に引き取られ、生活している。
「けじめみたいなもんだよ。それに、そういって私にユニフォームを着せたいだけでしょ」
「まあ、それもあるんだけどね」
悪びれず、早苗はそう言って舌を出す。その様子に呆れたように、咲良はため息をついた。こういうやつなのである。もしや、そっちの気でもあるのではと、彼女は最近疑っている。
ところで、と早苗は聞いてくる。
「そのバナナは?」
「え? 朝ご飯。食べようと思って」
「……咲良って結構変わったところあるよね」
「そうかな? 栄養補給に最適なのに」
咲良は首をかしげる。そして、さっそく皮をむくと口に押し込み、もぐもぐしながら席へ向かう。この食べやすさ、栄養、そしてエネルギーの吸収力を考えると、やっぱ最強だわバナナって。
・ ・ ・
「えー、聞いているとは思うが今日転校生が入ってくる。仲良くするように」
ホームルーム。教室に入るや否やの担任の言葉に、教室がざわつく。転校生が入ってくるというイベントにみんな浮かれているのだ。男子はどんな美人が入ってくるのか、女子はどんなイケメンが入ってくるのかそれぞれ楽しみな様子だ。それは、転校生の性別が分かっている咲良も例外ではなく、一体かつての親友がどのように成長しているのか楽しみであった。
じゃあ入って、との先生の言葉で視線が扉に集まる。ガラリと開いたドアからは、一人の少女が入ってきた。まず目を引くのは腰まで届く長さの黒檀のように深い黒髪。その両目はくりんと大きく、その唇は朱をさしたように紅く、その肌は透き通るほどに白い。
まるで人形のような美しさだ。あんまり美しすぎて、なんだかオーラが見えるように咲良は感じた。
そんな絶世の美少女の登場に、男子も女子もしばらく言葉を失っていた。その少女は一礼をして黒板に自身の名前を書くと、これもまた玉を転がすような心地よい声で自己紹介を始める。
「香取 絵里です。この時期の転校と言うことで至らない点があるかもしれませんが、早くなじめるよう頑張ります。よろしくお願いします」
そう言って花が咲いたように微笑む。一瞬遅れて歓声が上がった。男女問わず大盛り上がりだ。それも当然だろう。こんな美人にこんな健気なことを言われたら誰だって盛り上がるだろう。
「あー静かに、静かに! 浮かれるのもいいが、再来週はテストだぞ。きちんと気合を入れて勉強するように。香取も、こんなタイミングで悪いが、分からないところがあればクラスの人に聞くように。じゃあ、あ~、後ろに席が空いてるからそこに座って」
「分かりました」
絵里はその言葉に頷き、指定された席へ向かう。歩くごとにふわりと黒髪がたなびいて、たったそれだけで絵になる様だ。
その姿に咲良はぽーと見とれていたが、ふとした拍子に目が合う。すると絵里はたおやかに微笑んで、それに咲良は思わずドキッとしてしまう。私にそっちの気はないはずではあるが、気をしっかり持ってないと一気に傾くかもしれない。しっかりしよう、と咲良は自分に言い聞かせる。
その後、担任が適当に伝達事項を話した後、ホームルームは終了する。
それと同時に、絵里は男女問わず囲まれてしまう。美人が転校してきた場合、女子が男子から転校生を守るというのが定番だが、今回は女子も男子に混じってあれこれ質問したりしてる。好きなものは何ですかとか趣味は何ですかなんかの質問から、中には付き合ってくださいなんていうバカもいて、絵里は困ったように笑う。
そんな人込みをかき分け、咲良は絵里へ抱き着いた。
「久しぶり~! エリちゃん!」
「! 久しぶり! さくちゃん!」
そのまま再会のあいさつをする。ついでに邪魔すんなオーラをだして周囲に対してけん制する。が、気づかなかったかあるいは無視したか、周りは構わず絵里に質問する。
「咲良、香取さんと知り合いなの?」
「そうそう、親友だったの。いやぁ~しかし、きれいになったねぇエリちゃん」
が、それをきっちりブロック。君らも話したいことがあるだろうが、こっちもいろいろあるのだよ。見れば早苗も協力してくれているようで、徐々に人込みは散っていく。と、言うことで、周りに構わず咲良は旧交を温める。
「さくちゃんこそ、髪伸ばしたんだね! 似合ってるよ!」
「私も少しはおしゃれをってね! おじさんたちは元気?」
「うちの両親、引っ越ししてすぐ、亡くなったんだ……」
これは、地雷を踏んだか。絵里の両親は二人とも真面目そうな人で、遊びに行くと必ずお菓子を出してくれる人たちだった。なので、咲良はこの二人のことはよく覚えていた。まさか亡くなっていたとは知らなかった。
「あ……ごめん。無神経だった……」
「いいの。遠くに引っ越しちゃったし、知らなかったろうから。それにもう4年も前の話だしね」
一瞬空気が重くなる。と、そこでチャイムが鳴った。
「あ、後で学校案内してあげる! この学校も結構広いからねぇ」
「お願いね」
そう約束して咲良は席に戻るのだった。
4時間目終了のチャイムが鳴る。昼休憩の時間だ。
授業終了とともに勢いよく咲良は立ちあがり、さっそうと絵里のもとへ歩いていく。
「エリちゃん! 学校案内するよ!」
「よろしくね、さくちゃん」
そう言って絵里は立ち上がる。二人で教室を出ようとしたところで、待ったがかかった。早苗だ。
「はい、ちょい待ち」
「早苗、どしたの? もしかして一緒にきたいの?」
「いやそれもそうなんだけどね……」
早苗は自分のお腹をポンと叩く。と、同時に咲良の腹がグゥ~となった。咲良は思わず、お腹を押さえて赤面する。
「結局、バナナしか食べてないんでしょ。まずは昼ごはん食べよう、ね、香取さんも」
「え、ええ。そうですね、ええと……」
「西野早苗だよ。よろしく。弁当持ってきてる?」
「あ、あの、いいえ」
「じゃ、学食だね。一緒に行こう、案内するよ」
早苗は絵里の手を取って歩き出す。
「ま、待ってよぅ」
咲良も置いて行かれまいと、慌てて後に続くのだった。
食堂までの道中、絵里は早苗に質問する。
「その……西野さんは、さくちゃんと仲がいいのですね」
「ああ、早苗でいいよ。まあなんというかね、目が離せないじゃん咲良。ほっとけないというかなんというか」
「……そう、そうですわね」
それっきり絵里は黙ってしまう。早苗の後についていくがままだ。そんな絵里の様子を見て、咲良は不思議に感じる。なんだか、小さい頃と比べておとなしくなったように感じる。もっと活発だったのに。
そこまで考えて、はたと理由に思い当たる。恐らく両親が亡くなったことが最大の原因だろう。それが彼女の性格に影を作っているのだ。私も経験したからよくわかる。けど、それだって周りの人たちがいてくれたから乗り越えられた。だったら、私が力になってあげるしかない!
「エリちゃぁん~!」
唐突に走り出した咲良は、その勢いのまま絵里に抱き着く。
「ひゃあっ!」
「さびしくないからねぇ~! 私たちがいるからねぇ~!」
「おいおい……」
突然抱き着いてきた咲良に、絵里は驚いておろおろしている。その様子を早苗は苦笑しながらも見守っている。
「ま、そういうこと。仲良くしていこうよ、絵里!」
早苗はポンと、絵里の肩に手を置く。
「……ええ、よろしくお願いしますわ」
絵里はそう言って、微笑むのだった。