27話 『旅立ちの日』
ビンセントはリティスとの戦闘で砂まみれになった。
【ネスタ山】
「ふぅー、砂半端ないな……」
砂埃にまみれたビンセントは二人を連れてネスタ山の河原に来ていた。
というのも、宿をとってしまうと部屋内でまったりしてしまい、そのまま出発できなくなってしまう事が容易に想像できたからだ。
ビンセントは上裸で川に入ると体と服の砂を念入りに洗い落とし、その上流隣ではミルがカミラと共に久しい水浴びを堪能している。
(よし。これくらいでいいかな)
川で服と体を洗い終えたビンセントは、ずぶ濡れのまま河原に上がると境界を開いて中に入った。
(体外の水分は置いていく)
ビンセントがそう思いながら境界から出てくる。
「ふぅ、さっぱりした! 」
境界からは気持ちの良さそうな顔をした脱水済みのビンセントとその衣類が出てきた。
(砂もこれで落とせばよかったな、川で洗ってる最中に思い出したんだが……)
今ビンセントがやった境界を使った脱水は、体を境界内に全て入れ、不要な物を指定して亜空間内に置いてきたという事であり、不要な物とはこの場合『体外の水分』となっている。
何も脱水のみならず、汚れや臭い等も自分の肉体から切り離すことで取り除けるのだ。
この境界の使い方は、ビンセントが初めて勇者一行と遭遇した日に、宿でノースがやっていた使い方で、その時はルディとビンセントの体の汚れを境界で取り除いた。
洗っている最中にその事を思い出したビンセントは、
水浴び自体が気持ちが良かったので良しとした。
脱水されたビンセントの姿を、川から上がるカミラが見ていると何とも羨ましそうにしていた。
「いいわねそれ、髪も乾くのね」
サラっとしたビンセントの紺色の髪が風になびくのを見ると、乾くのに時間のかかる自分の長い髪を乾いた布で拭き始める。
「サッパリしたよ、俺もだんだん境界の使い方が分かってきた」
「リティスさん戦の時も使い方良かったわよ。相手からしたら最悪だけどね」
「ああいう風な戦闘での使い方も前々から思いついてたけど、ああなるから戦いで境界を使いたくないんだよな。もっとも、もう戦う事も無いと思うけどね」
「なるほどね」
カミラが自分の髪を拭きながら、じーっと乾いたビンセントの髪を見ていた。
「私の能力じゃ髪は乾かせないのよね、湿ってるの気持ち悪いし。ねぇビンセント、私のも乾かしてよ」
少し怒っているような表情をしている限り、余程能力の便利さを羨んでるのだろう。
ビンセントは苦笑して答え、個人的にカミラは、濡れた髪の方が好みな事は表に出さずに、さっきと同じように境界を開く。
「境界入ったらちょっと待ってて」
「うん」
カミラが開かれた境界に入ると、ビンセントは自分にやったように、カミラの体外水分を境界内に置いてこさせた。
「出てきていいよ」
そう言われてカミラはひょこっと出てきた。
「おぉ――っ! 乾いてる! しかもサラッサラだぁ――!! 」
下着姿のカミラが両の手で髪をかき上げ天を仰ぎ見る光景は、人に見せていいものではないとビンセントは静かに思っていた。
乾いているビンセントの髪を見ながら、濡れている髪を自分で拭いていた時の表情とは変わり、カミラはミルの様に弾んだ笑顔になっている。
髪がサラサラなのは元々その人の髪がそうであったにすぎないが、境界に隔離された物はあくまで体外の水分であるから、皮膚の潤いや体内中の体液や血液が置いていかれた訳ではない。
ただこの『境界』がどこまで、又どこにまで引けるのかをビンセントが知ることになるのは、もう少し後の話である。
「ありがとうビンセント―!! 」
カミラは礼を言いながらビンセントに抱き着くと、鼻を撫でるカミラの髪の香りが漂う。
一瞬は驚きつつも、冷静になればいつもの事なのでいつもの通りに頭を撫でてやる。
「よかったな。とりあえず服着ようか。風邪はひきたくないからな」
二人のやり取りを川で見ていたミルは、川から飛び出して二人に向かい駆け出した。
ずぶ濡れのミルは走る最中で自己乾燥しながら二人に対して突撃する。
「わーい! 私もまぜて――! 」
ビンセントが二人を抱えながら後ろに倒れ、二人は上に覆いかぶさる。
笑う二人にビンセントもつられて笑った。
暫くそのままだったが、我に返ったビンセントは二人を抱えたまま起き上がる。
「よし、じゃあとりあえず服を着ようなカミラ。腹減ったよ、飯食いに行こう」
「ご飯だー! 」
喜び跳ねるミルの横で、カミラが服を着終えると準備が完了した。
「おまたせー」
「何食べる? 」
「……といってもね」
今日は旅立ちの日としている。
できれば狩での食事はしたくないと思うのがビンセントだ。
是非ともクロイス国内で食事をしたいが、店がやっていて美味しい店は今のところ一店しかない。
ビンセントは昼飯所を決断した。
「よし、じゃあとりあえずクロイスに戻るか」
「はーい! 」
境界を開いて、それぞれが空腹な三人は中に入る。
【デリツィエ クロイス店】
境界を開いた瞬間に、その空間の中にも良い香りは漂ってきた。
「今はもう、ここしかないよな」
ビンセントが境界を開いた先は、デリツィエの店前。
ビンセントが空腹と砂埃とリティスに対して怒りを感じ始めたのが時刻十四時十五分。
現在時刻は十四時四十八分。三人にとっては遅めが過ぎた昼御飯である。
「ここでいいかな。うん、ここしかないよな」
「いいじゃない」
「いい匂い! 」
開いている料理店があまりに無いという理由で、通うとまではいかないがそれなりに食べに来るので常連扱いされている三人。
そんな三人だが、ここの料理に飽きた事は一度として無い。
デリツィエはメインとしている料理を残し、日によって食材も変えて、それに連れて提供する料理も変えている為に、飽きがこない。
とはいえ、そもそも全てが美味しいので飽きは来ないのだが、提供される料理が日で変わるという事を知らないがこの店を気に入っている客は、自分のお気に入りの料理が無いことに少しショックを受けている時もある。
しかしその事を知っている客は、自分の気に入った料理が今度いつ食べることが出来るのかを店長に聞いているので、その時になれば食べることができ、客の大多数はそういったショックもなく大満足で帰って行くのだ。
ビンセント達三人は料理の日程を聞いたりはせずに、その時を楽しんでいるが、ビンセントはいつも全く同じ料理を頼むので、店長とトマスが、ビンセントが頼むメニューをメインメニューとした事は、本人を含む三人は知らない。
そんな三人が入店してくると二人はいつものように迎える。
「いらっしゃいませ」
時間帯なのか、店内に客はおらず空席である。
トマスに好きな席へ着くように言われたので、カウンター席へ着いた。
三人が座り終えると、トマスからメニューを渡される。
「今日何にする? 」
「うーんどうしようかなー」
「私スパゲティにする! 」
ミルはサリバンが騎士になった日に、カミラから分けてもらった、否。占領したスパゲティに魅了されてそれが好物に付け加えられていた。
「ミルはスパゲティが気に入ってるわね、今日はどんなのがあるかな――」
カミラは、えへへと笑うミルにスパゲティのメニューを指さす。
・青香菜のジェノベーゼ
・ペンネのアラビアータ
・トマトと茄子のブカティーニ
・カルボナーラ
「うーん。どれがいいかな、ぺんねってなんだろう……」
スパゲティをまだよく分かっていないミルに対して、カミラが順に特徴を説明していく。
青香菜のジェノベーゼとは、青香菜をチーズや木の実をオイルと共に混ぜてペースト状にしたソースをスパゲティに絡めた物。
ペンネのアラビアータとは、トマトソースをベースに、香菜と唐辛子を多く混ぜた少し辛いソースを、筒状の短いスパゲティに絡めた物。
ミルはそれを聞いて特徴をおおまかに把握する。
「スパゲティって種類いっぱいあるんだね。このブカティーニってやつが一番最初に食べたやつかな」
「そうよ、覚えててくれたのね。最後にあるこのカルボナーラっていうのは、凄くクリーミーなのよ」
「くりーみー? なんだろうそれ! 私このカルボナーラっていうのにするよ」
「じゃあ私はこの牛肉のグラタンとトマトとジャガイモのスープとパンにするわビンセントは、あれよね」
「うん。俺は仔羊スネ肉の煮込みとトマトとジャガイモのスープ」
ミルは好奇心で未知の味を探求する。
カミラは昔から好きなグラタン。
ビンセントはというと、デリツィエに来たらこれしか食べていない。
カウンター越しにキッチンに立つ店長にオーダーをすると、トマスが前菜を出してメニューを下げる。
オーダーを受けた店長は調理を開始する。
小さい鍋にオイルを垂らして、グラタンソースの材料を入れて火にかける。
その最中に、下ごしらえをされた牛肉と羊肉を取り出して包丁を入れていく。
非常に手際がよく無駄のない動きなので、茹で加減や焼き加減、鮮度に関してミスをすることはない。
素晴らしい調理の最中に客と話をできるのだから、素晴らしい。
「実はですね、店長さん。俺達三人、定期的に旅に出ることにしたんですよ」
しかしこの三人が国から離れるような内容の会話は、少し動揺が隠せないらしい。
一瞬調理の手が止まり、顔をビンセントの方に向けてしまった。
「国を、出られるのですか……」
「あ、出るって言っても、ただの旅ですから。それに七日周期に帰ってきますけどね。その他用があればすぐ戻ってきますし……」
店長は旅を経て、このクロイスという国の土地で仮店舗をしている訳で、旅がそんな短期で、しかもすぐに戻ってくる事などできない事をよく知っている。
おそらくは、ビンセントが自分に対して気を使った言い回しだと、店長は思っていた。
しかしその考えは改まる事となる。
「旅は、馬車で行かれるのですか? 」
「いえ、あ。そういえば、店長さんにはまだ見せてなかったのかな」
ビンセントが手元で小さく境界を開く。
「コレで行きます」
次はクリームを器に流す調理手順であるのに、店長はまたもや調理の手を止めてしまう。
料理人が腕を止める程の物が見えたらしい。
それはビンセントの手前で、別の景色が見えているという物だった。
「今この境界はココと、ネスタ山に繋がっています」
そう言ってビンセントは別景色の空間に手を突っ込み、木の枝をとって店長に見せた。
店長は言葉なく唖然としてただ見ている。
「これがあれば、遠い所に行ってもすぐにクロイスへ戻ってこれますからね。デリツィエの味が恋しくなってもすぐに戻ってこれますよ」
ビンセントが笑いながら境界を消した。
ハッとした店長が話を聞きながら調理を再開し、トマスにディナータイム用の食材を仕入れに行かせる。
「な、なるほど、それならば確かにどこでも行けそうですね。魔法ですか? 」
「いや、残念ながら魔法ではないと、このカミラが言っていました」
「そうなのですか」
カミラは苦笑いをして返す。
「魔法じゃなくて、特殊な能力みたいな物よ。魔法と違って限度が無いもん」
「そうなんだ。でもさ、俺思ったんだけど、魔法使いだけど魔法一つも使えないんだよな、今の俺……」
「すぐに覚えられるんじゃないの? 」
「そうなの? 」
「わかんないけど、私も魔法はそんなに使えないし。使えるの付与と防御魔法くらいよ」
「それはカミラ、必要ないからだろ」
「そんなことないわ」
ビンセントの言う魔法の事を考えると、カミラは店長の調理を一心に見つめているミルを見て、頭をな撫でる。
「ミルの使うような回復魔法を使いたいけど、使えないのよね。まぁ覚えればいいだけなんだけどね」
「でたカミラの力技」
「師匠からは、物理攻撃面しか教えてもらってないからね」
カミラの師匠といえばミルの親仇の勇者一行の大賢者エリスだが、ミルは以前と変わり、その話をされても自然でいられるようになった。
これもまた、彼女の成長だ。
カミラに頭を撫でてもらってご機嫌の様子で調理見学をしている。
そんなミルの横でカミラは、ビンセントと共に魔法を題材に化物の話をしている。
「確かにあの人はガントレッドとか装備してたけど、本職賢者だろ? 魔法が本領じゃないのか、俺も初めて会った時瀕死状態だったが、一回の回復魔法で全快してもらったよ。今思えばミル級だよな」
「賢者って言うか、大賢者ね。回復魔法もたまたま一回使ってもらったんだと思うけど、戦場での師匠の回復魔法は永続的な持続回復魔法だったわ。
師匠がいた時の見方兵は体の一部が跳ぶような致命傷を負っても、師匠の魔法がかけられているせいで体が傷ついた傍から再生して元通りに戻ってたわ。そりゃ一方的な魔物殲滅戦にもなるわよね。アンデット掃討戦とか、どっちがアンデットなのかと思ったわ」
その様子を想像したビンセントは、エリスを内心で少し引きながら、冷や汗を垂らしていた。
「魔法も教えてくれればよかったのにな」
「師匠は基本的に何でも努力をさせるのよ。私に『力』を分けてから、私はさっき言った通り物理攻撃面を教えてもらったけど、それも基本的な動きだけだからね。後は全部師匠の見様見真似よ。師匠はそれで満足気だったけどね」
「なるほど。こう言うのも何だが、子想いみたいな感じだな」
「……まぁ、そうかもね。だから私は師匠を憎めないのよね。滅茶苦茶厳しかったけど、おかげで力もついてビンセントに会えたんだから、むしろ感謝してるわ」
カミラは思うところがあるのか、ミルを抱き寄せてぎゅっと抱く。
ミルはカミラに抱擁されて幸せだったが、調理が気になって仕方がない様子だ。
「でも、私が一番感謝してるのはあなたよ、ビンセント。初めて会った時からね」
「そういう話はまた今度にしようか。照れるからな。それにしても、あの時まだお互いガキだったが、あれはやばかったな」
カミラも思い出して苦笑する。
「そうね」
話を楽しんでいる間に店長の調理が終わり、トレイに料理を乗せてキッチンから出てきた。
「お待たせ致しました」
それぞれの料理名を言いながら、カウンターテーブルに料理を乗せていく。
その中には、オーダーの覚えのない料理と酒やミルクが三人の前に並べられた。
「あれ、コレは注文してないですが? 」
「勝手ながらサービスをさせていただきました」
ビンセントにはいつもの好きな料理に付け加えて、肉によく合う赤ワイン。
カミラにも赤ワインが付けられ、ミルにはミルクが付けられた。
その他オーダーしていない料理が三点並ぶ。
「豚の腸詰とジャガイモのソテー、ホウレンソウと青菜の炒め、牛肉のステーキです」
目を輝かせるのは何もミルだけではない。三人一緒に輝かせている。
遅めの昼とは言え、日が出てる中からワインを楽しむのに感覚的に抵抗のあるビンセントと、それに素直に喜び感謝するカミラは、三人一緒にお礼をした。
「ありがとうございます」
「いえ、皆様が旅に出られる日の祝杯にと思いまして、お気になさらず。それでは、ブエン プロベージョ(どうぞ召し上がれ)」
「いただきます。それじゃあ、ちょっと早いが、乾杯」
「乾杯! 」
三人はそれぞれグラスを手に、更に付け加えてカウンターから出てきた店長も、赤ワインではないがブドウジュースの入ったグラスを掲げて、四人で祝杯を挙げた。
美味しい料理を堪能しつつ、美酒で舌と喉を潤して香りを楽しむ。
夜でも気分がとても良く、浸れるというのに、白昼にワインを楽しむのに多少罪悪感が湧くビンセントであったが、次第にそれも薄れて全力でそれらを楽しんだ。
「おぉ、これがカルボナーラ……これがクリーミーなんだね! すごい美味しい! 」
「とっても美味しいね」
カミラが幸せな顔をしてスパゲティを食べるミルを見て微笑むと、ミルはミルクを飲んでグラスを置く。
好奇心旺盛なミルは気になってしまう。
カミラが食す物には新境地があるという事を、いつの日かミルは覚えてしまった。
そんな彼女の嗅覚はさっきから反応し続けている。
グラスを置く際にちらっと見えたカミラの食べる物。
「うーん! グラタン美味しい……」
カミラが嬉しそうに口に入れるのを、彼女はじっと見ていた。
スプーンでグラタンという物をすくう時に、ソースとチーズの表面を覆う香菜の粉末と、パン粉の膜がカリッと割れる音がして、スプーンがその内部に入って行った後に、中からとろけたチーズを纏った野菜と肉が出現する。
比較的にまっさらな表面に対して、中にあんなに美味しそうな具材が入っているところを見てハッとしたミルはビンセントの方も見る。
(ま、まさか、このグラタンっていうのも、『境界』の力で作られているのかな……)
そんな訳は無い。
ただ調理工程を見ていたミルも、グラタン作りは途中から訳が分からなくなっていた。
具材がスープの中に沈んでいき、次に見た時にはもうあの香ばしい香りを漂わせる状態だったのだ。
ドラゴンの理解を超える食べ物。
そう思ったミルは、自分のカルボナーラに視線を移して食べる。
今カミラが食べている物ではないが、やはりカルボナーラも美味しかった。
美味しさのあまり感動するが、やはりカミラの食べる『グラタン』も気になるのだ。
無意識の中にちらちら見ていたのがばれたのか、次に見た時はカミラに見られていた。
「ひぅ!? 」
驚いて変な声が出たが、我慢の限界のミルはお願いをする。
「あ、あのカミラ。そ、その……『グラタン』っていうのを……」
しかし、いくら可愛いミルの頼みといえども、大好物のグラタンを前のスパゲティの様に占領されてしまえば、流石のカミラも真顔で両目から涙を流しながら、食べられていくグラタンを見つめてしまう。
その事を思い、今回はミルのお願いを聞かないようにした。
「だ、駄目よミル。グラタンは駄目なの。全部はあげられないわよ」
「お願い! 一口でいいから! 」
全力で懇願するミルは、瞳に涙を浮かべている。
この涙はもちろん演技ではなく、本当に食べたいが、食べられない生殺しからくる涙である。
断っていたカミラだが、ミルの懇願と一口という言葉を信じて折れてしまう。
「ひ、一口だけならいいよ。あ、お皿は渡さないよ、私が食べさせてあげるから」
いくら一口と言えど、ミルの事なので美味しさに感動して止まらなくなる事を想定して、
皿をミルに預けずに『一口だけ』を確実なる物とするべく、カミラがミルの口に直接グラタン一口を届けることにした。
アツアツの、それもまだスプーンが入れられていない一番美味しい状態を保っているところをすくう。
カリッとした音と共に、表面のチーズとパン粉という名の境界をくぐって出現する、チーズとビーフソースに溺れた肉と焼き野菜の塊が、ミルの口からよだれを誘う。
「はい、あーん」
カミラにグラタンを近づけられたミルは、スンスンと嗅覚を駆使して香りを楽しみ、目で見て興奮しながら短く、しかし感覚的に長い時間を過ごすこととなる。
ミルの口元に来た時、ミルは自身の目を瞑り、五感の内視覚を分散させて、味覚を中心に感覚を研ぎ澄ませた。
口に侵入してくる『グラタン』という怪物は、スプーンをねっとり離れてミルの口内を支配する。
モゴモゴと口を動かすミルに、その反応が気になるカミラ。
「どう? 美味しいでしょ? 」
暫くモゴモゴと咀嚼して呑み込むと、瞑っていた双眼からブワッと涙が流れ出た。
「おいふぃい!!」
その様子に満足したのか、カミラはミルの頭を撫でてやる。
そんな様子を隣で見た第三者であるビンセントは、何があったと驚いている。
ミルは暫く味の余韻に浸ると、自分の視覚を戻す。
「美味しかった。またいつか私もグラタン食べるよ。私も作ってみたいなぁ」
「お、料理に興味を持ったのか? 今度一緒にカミラに教えてもらおうか」
「教えてもらいたい! 」
「教える程知識ないよ……」
ビンセントとミルに料理を教えて欲しいと言われるが、カミラ自身もそんなに実践したことは無い。
「そこは『力』技で! 料理スキルを上げよう! 」
「できるけど、力技は緊急時にしかやらないの! 料理の腕は本当の自分の力で上げてみたいしね」
「なるほどな、じゃあ旅しながら三人一緒に料理の勉強でもしに行こうか」
「あ、それいいわね」
「したいしたい! 」
ビンセントが提案する料理研究に、二人も意見が合致する。
それを聞いていた店長も頷きながら口を開く。
「それでしたら、私の故郷の『シザ』なんていうのはどうでしょう」
シザといえばここから遥か西の国だが、陸地の中を海が通っている湖がある事で知る者には知られており、広域に海が面しているので、貿易や漁で盛んな国だ。
「シザには、ここでは味わえない魚介類の料理を楽しめますよ」
「おぉー! それは行ってみたい! 目的地は『シザ』に決まりだな」
「異議なし」
「行きたい! 」
魚はネスタ山で食べているが、しっかりと調理をされた魚料理はクロイス国に来てから三人は食べたことがない。
「シザはどこも陽気で、情熱の国と呼ばれていて有名です。楽しめると思いますよ」
そう聞いて更にテンションが上がる三人。そんな中、ビンセントは気が付く。
「店長。そういえば、まだ店長の名前って聞いてないような……」
「あ、確かに」
店長は少し焦ったようにキッチンから出てきた。
「な、名乗り遅れまして、申し訳ございません」
素で忘れていたのだろうか、デリツィエ クロイス仮店店長の珍しい失点である。
「改めまして私、デリツィエのオーナー、ラース様から一支店を任されております。支店長トルスト・バラキルと申します。今後とも宜しくお願い致します」
綺麗にお辞儀をする店長トルスト。それを受けて、三人は食器を置いて軽くお辞儀を返す。
「改めて、宜しくお願いします。トルストさん」
「はい! ありがとうございます! あ。申し訳ございません、食事のお邪魔をしてしましました」
「いえ、こちらが名前を聞いたのですから、気にしないでください」
ビンセントの言葉に、更にお辞儀をするトルストはキッチンに戻った。
「シザか、楽しみだな……」
目の前の料理を堪能しながら、遠い世界に旅出られる事にビンセントは感動していた。
表情に気持ちが出ていたのか、カミラはワインを飲むとそれを見て微笑んでいた。
店長トルストとしゃべりながら食事を楽しんだ三人は、満足してデザートと飲み物を空ける。
「いつもながら美味しく、普段よりも一層美味しくいただきました。ありがとうございます、トルストさん」
「そのお言葉が、何よりのお言葉でございます。皆様ありがとうございます」
サービスされた料理を抜いた金額を提示され、先に支払ったが、出された料理の数と味に比べて金額が安過ぎるとビンセントは思い始めていた。
彼は同じ料理しか頼んでいないが、この短期間で舌も肥えたのだろう。
味の良さが初めてデリツィエで食べた時に比べて、他の料理店との違いが分かってきたのだ。
しかし舌が肥えたとはいえビンセントは何を食べても美味しく感じるので、そう大した変化ではなかった。
「はぅ~美味しかった! 」
ミルはまだ美味に酔っている。そんなミルを見ていつもの如く頭を撫でるカミラがいる。
「そうだな、美味しかった! また、少し期間が空くもしれませんが、またここでお会いしましょう! 」
トルストがお辞儀をして見送る中、三人は店を出ていく。
「旅路、どうかお気をつけて! またお会いしましょう! 」
店を出る三人に対して、今まで聞かなかった大きな声で、大きく手を振ってトルストが送り出した。
それに答えて大きく手を振る三人は、出始めた夕日に陰る。
三人の表情は笑って見えた。
対するトルストは、感動と寂しさが漂って涙を堪えるような表情を浮かべていた。
暫くトルストが手を振り続ける中、後ろから荷車の音がする。
仕入れから戻ってきたトマスが、食材を大量に乗せた荷車を停めた。
トマスは店長トルストからその話を聞くと、夕日の道を駆けだして三人の後を追う。
丁度その時にはもうビンセントは境界を開いており、三人は黄昏の中に消えていった。
「ビンセントさん! カミラさん! ミルさん! 」
消えた後に響く声は三人にはもう聴こえない。
暫く佇むトマスだが、振り返り店へと戻る。
トルストから肩を二回軽く叩かれて、二人で荷車から食材を卸し、保存庫へと運び入れていた。
トマスは一心に仕事を進めた。少しでも成長する為にである。
(また、お会いしましょう。次は、また私の料理を食べてください。あの時の様に)
そんなトマスの様子を見るトルストは、どこか懐かしいように思って微笑んでいた。
先を見据える者がいる。
目の前を見る者がいる。
『今』できることはなんだ?
先なんかいらない。
トマスは一心で今を生きるのだ。
それを重ねなければ、どうして未来の三人の客に満足してもらえようか。




