さよなら、カンガルー
目覚まし時計が鳴って、僕は目を覚ました。
頭の中にまどろみが巣を張って、僕の怠惰さが網にかかるのを待っている。
しかし、力強い朝日が、僕の瞳孔を通って、まどろみの巣をぐちゃぐちゃに壊してしまう。
そんな、朝。
太陽が東から頭を出すみたいに、僕はベッドから身を起こす。
昨日に置き忘れられたリモコンを拾い上げ、時計以外の情報が不正確な朝のニュースを見る。明るい女性の声が、乾ききった部屋に、時の水を沁みわたらせる。
うまくいった。
そう感じたところで、考えるのをやめる。
どうして普段はこれができないのか、なんてことを考えてしまったら、せっかくの行動療法が台無しだ。
学会が定めた理想の精神が、それ以外の精神を病気に変えたみたいに、グリニッヂ天文台が、他の時間を異常扱いしてしまった。標準時間と並走するために、時間医が提案したのは、昔ながらの行動療法だったというわけ。
「時間には、2種類の捉え方があって…」
トーストかじりながら、医者の言葉を思い出す。
「ずっと、ひたすらに、歴史年表みたいに、私たちとは別のところで進んでいるという見方が、ひとつ、あるんですよ。これは、不健全で、時間鬱の原因にもなります。」
その診断名は聞き慣れなかったけど、言いたいことは、なんとなくわかる気がした。
社会のペースが、僕とちぐはぐになって、少しずつ歯車が狂ってしまう。そんな経験は、深刻さの多寡こそあれ、たくさんの人が経験していた。
「で、一応、正常な時間感とされているのが、行動時間と呼ばれているもので、これを作ることが、今のあなたには必要なんですよ。」
その時もらった、厚生労働省発行の、時間病についてのパンフレットは、テーブルの上で、時間に取り残されている。僕は、そのちょっとした皮肉を面白がっていた。
そんなパンフレットを開かなくても、行動時間については、高校時代に保健の授業で学んでいる。
「もしも、一秒に一歩進む人間がいたとしたら、その人にとっては、時間は距離に化けてしまうわけだ。」
体育教師が講壇に立つのは、なんだか不似合いで、それだけで少し笑えたことを覚えている。
「その昔、これと同じで、農民たちは、農作業カレンダーを使っていた。これを、『アルマナック』と呼ぶ。試験に出すからな。」
そのあとの期末試験で、本当にその単語が出たかどうかなんて、僕は覚えていなかった。
「まだ時計がなかったからな。土を耕して、種をまいて、雑草の処理をして、収穫して…というのが、時間を刻む唯一の方法だった。豊作を祈る祭りや、収穫祭が、時間に拍子をつけてくれるおかげで、時間=行動、『自分たちが何をしているか』ということが『今がいつであるのか』を表していた。」
着替えを終えた僕は、部屋を出る。
子供達が元気そうに、学校目指して歩みを進め、ビジネスマンは駅に結集する。
朝の時間と手を携えて、自分の中に、時間の水を取り入れる。
「ちゃんと適応したら、地球に張り付いていることを忘れたみたいに、意識しなくても、時間についていけるよ。」
今はもう聞けなくなった、懐かしい声を思い出す。
「一応、時間だって、こう、引力があるわけ。たくさんの人が、同じ時間を生きている以上、たくさんの質量が、重力を生み出すわけで…。」
僕の時間が狂い始めた時、僕は、外宇宙に放り出された人間みたいになった。僕は、時間の重力を第2宇宙速度で離脱して、みんなの時間が、宇宙を突き進んでいるだけだということを知ってしまった。あれにしがみつけば、過去と未来はたった一つの方向に、ずっと続いているよう見えるかもしれない。でも、時間には、前後だけじゃなくて、上下左右があることを、僕は知ってしまった。
「まあ、でも、時間病は男性病だし、私が言うのもいけないのかな。」
彼女は優しかった。でも、結局、僕とは別の時間に乗って、どこかに飛んで行ってしまった。
ようやく僕が、もう一度地球時間の重力にとらわれて、大気圏に降下しようとしているいま、郷里の友人を訪ねるように、連絡できるような気がする。
でも、過去が本当に起こったことなのか、確かめる手段は誰にもなかった。彼女は、僕の神経細胞が作り出した、幻影かもしれない。あの医者も、体育教師も、みんな。
間違いなくここにあるのは、僕の目に見えている、満員の電車と、僕の神経細胞だけ。たくさんの人間が、重力を作って、僕を引き寄せる。扉が閉じて、慣性は、僕の出発を惜しむように、僕の体を引っ張る。
僕の体が運ばれる。有無を言わせぬ圧倒的な力が、立ち止まったままの僕を、どこかに運び去っていく。
「カンガルーの赤ちゃんは、地図を描けるのかな?」
僕の突拍子も無い質問は、彼女を困惑させるだろう。
「一つだけ言えることは、カンガルーの赤ちゃんは、ペンを握らないでしょうね。」
「そういうことじゃないんだ。つまり、カンガルーの赤ちゃんは、どこにどの草があるとか、母親の袋の中にいるだけで、記憶できるのかなって。」
そこまで言って、この答えのない質問の無意味さに、僕は自分でため息をつくことになる。
「知らない。できるんじゃないの?」
彼女は週刊誌をめくりながら、いい加減な返事をする。
「ごめん、なんでもないよ。」
それは、僕の神経細胞の中で繰り広げられた、小さな喜劇だった。
そんなことが過去に起こったのか、僕はわからなかったし、未来に起こるのか、僕にはわからなかった。それでも、僕の神経細胞は、そんな会話を描いている。
あんまり考えちゃいけない。
僕は自分に言い聞かせる。地球の重力が心地いいみたいに、満員電車を心地よく思わなければ、時間病は治らない。
ここに存在しないたくさんの過去と未来が、僕たちに呼びかけてくる。僕たちの神経細胞は、指向性マイクみたいに、過去と未来の音だけを拾う。上下左右が閉ざされた防音のケージは、それ以外に進む方向を知らない。
「思考実験が、好きなんです。」
初めて時間医と会ったとき、そんな話をした。
思考実験は、時々、人を時間病や精神病にさせる、悪癖の一つとして知られていた。それでも、酒やタバコと同じで、簡単に辞められるものではなかった。
「1光年先に見えているものに触れたくても、1光年先にたどり着いた時には、それはもう、1年以上経ったあとの姿をしているんですよね?」
医者の前だから、僕は油断して、話し始めた。
「それなら、あの、向こうの交差点だって、たどり着いた時には、未来の姿に変わっているはずでしょう?」
医者は少しだけ太った指で、器用に扱っていたペンを、机の上に置いた。
「あなたが今見ているものは、どこにいったのか、と?」
たくさんの時間病患者を診察してきた腕前は、本物だった。僕の疑問を先に口にしてくれた人は、これが初めてだった。
「なんだか、全部のものが、どこか、僕の知らない方向に、遠ざかっている気がするんです。とても追いつけない速度、たぶん、光の速さで。」
医者は自分の頰に手を当てて、一つ息をついた。
「論理的ではあります。でも、そういう風に考えていいのは、物理学者だけだと、国の健康基準で定められていますから。ヘビーイマジネイターの時間病発病率は、平均的な人間の4倍に達します。1日にどれくらい、こんなことを考えるんです?」
一箱とか、一升とか、そういう基準は、存在しなかった。
「いや、それが、実際のところ、僕は、どの時間を生きているのか、よくわからないんです。」
そんなことを、言った気がする。
全部のものが、物凄い勢いで遠ざかってしまって、僕は、過去と現在がシチューみたいに煮込まれた世界に放り投げられていた。
僕の脳神経が、本当の意味での現在を認識しているのか、自信がなかった。ひょっとしたら、僕の現在は、半年後に、僕の時間病が治った日の、朝なのかもしれなかった。それとも、僕が彼女に、カンガルーについて尋ねていた瞬間こそ、僕の現在なんだろうか?
医者は、優しく笑ってみせる。
「いえ、そうですね。ゆっくり治療していきましょう。また、あなたがここにいる時、ここに来てくれれば、それでいいんです。」
僕が時間病だと気付いた彼女に送り込まれた病室で、僕は時間の響きを聴いていた。
2週間もしたら、彼女は僕の元を去る。
半年後には、僕はそれを懐かしく思う。
そんなことを思っている僕が、満員電車の中の僕から、光の速度で半年くらいは、遠ざかったところにいた。