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ドアマットヒロインは、せめて“靴べら”程度までの待遇改善を目指す

作者: 塩バジル
掲載日:2026/05/22

『“ドアマットヒロイン”ってのは、悲惨な境遇をひたすら耐える、可哀想なヒロインですよ。高貴な生まれなのにブラックな感じで働かされて、尊厳とか、いろいろ踏みにじられちゃう。

でも、最後は立場が逆転して、痛快な“ざまぁ”が来るんです』


 前にパートの愛優花ちゃんがそう教えてくれたっけ。

 『なるほど。小公女みたいなものね』と返したら、通じなかった。これもジェネレーションギャップか。


――と、いうことは。

 いまの私は、まさに“ドアマットヒロイン”というわけだ。



 私の名前は、ナタリア・エリス・レッドフォード。レッドフォード侯爵家の長子で、先月13歳になったばかり。

 そして、いまは垢で薄汚れたボロをまとい、床掃除の真っ最中である。


 ゴシゴシと床をこする手を止めずに、唐突に思い出した記憶と現状をすり合わせる。



――この記憶の“私”は、大沢真知子。年齢は56歳。

 山城商事の総務部勤務で、3年前に夫を事故で亡くし、現在独身。子供はなし。


 “愛優花ちゃん情報”によると、これは“異世界転生”ってやつかしら?

 覚えてないけど、トラックにひかれて死んだとか?

 ・・・いやだ私、穴の開いた下着とか履いてなかった?

 部屋は片付けてたかなぁ――


 とりとめもなく流れがちな記憶を抑えつつ、やっぱり、いまのこの境遇は“ドアマットヒロイン”だ、とナタリアは結論付けた。



 母のダイアナは父のオリバーと大恋愛の末に結婚。しかし、オリバーの愛は早々に醒める。

 男爵家の娘である愛人と新たな愛を育む夫に代わり、ダイアナはナタリアの祖父を手伝い、黙々と領地経営の仕事をこなした。

 しかし、ナタリアが7歳のときに、二人とも流行り病であっけなく天に召されてしまう。


 母と祖父の死後、オリバーはさっさと愛人と再婚。二人の間にはナタリアと1歳違いの義妹オリビアが生まれていた。

 

 その結果。愛人から義母へと昇格したカーラと義妹オリビアに、現在、ナタリアの尊厳は踏みにじられているのである。



 父親であるオリバーは、家政はカーラにすべて任せていると、ナタリアの訴えを知らんぷり。


 6歳のころに決まった婚約者、ダルトン公爵家の三男・ウィリアムも、カーラの手引きによって、いまはオリビアに夢中なようだ。


 オリビアは、ふわふわの亜麻色の髪に若葉色の瞳を持つ、愛らしい容姿の娘だ。性根はまったく愛らしくないが。

 愛らしい娘は、義姉にバケツの中身の汚水をぶちまけたりはしない。



 いまは薄汚れてはいるが、ナタリアだって、磨けばきっと美人のはず。

 “愛優花ちゃん情報”によれば、ドアマットヒロインはじつは美人というパターンが多く、あとから登場するヒーローに助けられて、溺愛されるらしいから。


――でも、その助けが来るのって、いつよ?



 いまのナタリアは家の奥で雑用三昧の日々だ。

 カーラが社交界でナタリアの病弱を吹聴しているため、窮状を外の人間が知るのは容易ではないだろう。


 侯爵家の使用人たちは、ナタリアに気を遣うとクビにされるため、そろって見て見ぬふりを決め込んでいる。


 オリバーに意見した家令も、老齢を理由に引退させられた。


 新しい家令は、父に丸投げされた仕事をこなしつつ、こっそりと義母の“お相手”もする、ニヤついたスケコマシ野郎だ。

 もちろん、彼もナタリアの味方ではない。



――ここが“ドアマットヒロイン”が主役の異世界なら、いずれ何らかのご都合展開が発生して助かるんだろうけど・・・

 それまで、この状況に甘んじるの?

 ここが、本当にその異世界であるという確証もないのに?


 ないわー。


 少なくとも、この垢臭い服は、いますぐにでも脱ぎ捨てたい!


 よーし! 現状の打破に動きましょう。




 黙々と雑用をこなしたあと、夜遅くに、臭う一張羅のボロを洗濯し、屋根裏部屋の自室に引っ込んでから、ナタリアは考える。



――すぐに家を出て、街中で仕事を探す?

 これはなしね。外の状況がわからないし、治安や衛生状態も不安だわ。


――お母様の実家を頼る?

 いや。お母様の実家の伯爵家は、代替わりをして、いまはお母様の兄が当主のはず。お母様は、この兄とは仲が悪かった。

 これまで一度も私の様子を確認に来ない時点で、人となりはお察しよ。


 それでも、誰かの手は借りたいのよね。

 大沢真知子(56歳)の記憶を得ても、ナタリアはまだ13歳。この年齢では、できることは限られる。



 他に頼れそうな人は・・・と、記憶を探ると、懐かしい人の姿が目に浮かんだ。


――でも、あの方だけじゃ心もとないわ。それに、そもそも外と連絡を取る手段がない。



 と、なれば。

 当面は、いまの屋敷内での待遇改善を目指しますか。


 どうせ働かざるを得ないなら、“ドアマット”じゃなく、せめて“靴べら”程度になりたいわ。

 誰かに踏みつけられる人生なんて、まっぴらよ。



 頭の隅で『勝手な真似をしたら、お父様がどう思うか・・・』という考えが何度もよぎったが、黙殺した。

 勘のようなものだが、いまは大沢真知子の価値基準に従ったほうがいい気がする。



 それから、ざっくりと明日以降の行動の指針を立てて、ナタリアは粗末なベッドで眠りについた。

 そうだ。朝一番で、この臭うシーツも洗濯しよう、と考えながら――。




 最近のナタリアの日課は、人目が届きにくい奥向きや離れの掃除だ。

 侯爵家の屋敷は部屋数が多い。重い掃除用具を抱えて、それらを順番に回って掃除をする。

 合間に、浴室やトイレの掃除、倉庫の整理、裏庭の掃き掃除、カーラの愛猫マルガレーテちゃんの糞尿の始末と、やることは多い。


 さらに厄介なのは、頻繁に発生するカーラとオリビアの“嫌がらせ”だ。


 わざと髪油をなすりつけたレースのハンカチ、気まぐれに叩き割る花瓶やティーカップ、それらを洗濯したり片づけたりするのも、ナタリアの仕事である。


 その仕事の出来が気に食わないからと、髪を引っ張られたり、物を投げられたりするのも日常茶飯事だ。



 一方、使用人たちからは、仕事を押し付けられたりはしない。


 カーラに言わせれば、いまナタリアが続けているコレは、「侯爵家の人間として、使用人の仕事を学ぶ勉強」なのだとか。

 だから手は出すなと、彼らは厳に言い含められているのである。



――仕事は押し付けてこないけど、助けてもくれないのよね。

 クビになったら可哀想だからと、私も助けを求めなかったけれど・・・

 いやいや、いまの私のほうが、よっぽど可哀想じゃない!



 そこでナタリアは、まず「仕事を増やす」ことにした。




 向ったのは早朝の厨房。


「おはよう!」


 今朝のナタリアは、いつもの薄汚れた様子とは異なり、小ざっぱりとした印象だ。

髪や体は水で清められ、ボロは生乾きだが汚れはない。

 臭くて汚い物には誰だって近寄りたくはない。料理に携わる人間なら、なおさらだろう。



「――おはようございます。何かご用でしょうか」

 厨房の奥から料理長が顔を出した。


「おはよう、料理長。私、今日からこちらを手伝うことになったの」

 背筋を伸ばし、相手と目をあわせながら、ハキハキと応える。


「私、お義母様の指示で、皆さんのお仕事を“勉強中”でしょう?

 先日13歳になったし、もう厨房も手伝えるだろうからって」


 嘘である。そんな指示は出ていない。

 そもそも、その“勉強”とやらも、カーラのついた大嘘だ。


 だが、嘘も堂々とくり返せば、真実となる。

 そして、大沢真知子の記憶を得たナタリアは、かなり図太くなったという自覚もあった。


 とまどう料理長をよそに、「大丈夫よ。練習してきたから」と、すみで見習いがしていたジャガイモの皮むきを強引に代わる。



 小麦が育ちにくいこの国では、秋の終わりから春にかけての主食はジャガイモだ。

 それは、貴族でも変わりはない。

 庶民のマッシュポテトの味つけは塩だけなのに対し、貴族のそれはクリームとバターがたっぷり使われるという差はあるが。


 遠巻きでこちらを伺う料理人たちの前で、ナタリアは、大量のジャガイモの山にむかう。


 じつは大沢真知子。台所仕事は、得意中の得意なのだ。

 学生時代の定食屋のバイト歴に加えて、主婦歴ウン十年の実績もある。

 宿敵である姑・淑江も、とうとう最後まで、真知子の台所の手際にはケチをつけられなかった。


 そんな記憶を思い浮かべながら手を動かすと、ナイフが面白いほど自在に動く――



「――お見事です」

と、目を丸くする料理人たちの前で、あっさりとジャガイモの山を片づけたナタリアは、

「夕食のジャガイモも、任せてね」

と、さっさと厨房を後にした。


 仕事は、ほかにも山のように待っているのだ。



 そんな調子で何日かを過ごすと、作業の傍ら料理人たちと他愛もないおしゃべりを交わすようになった。


「最近、食事がもの足りなくて」と恥ずかしそうに言えば、ゆでたジャガイモとベーコンの切れ端をわけてもらえるように。


 じつは、まず最初に厨房で仕事を増やした理由は、これが目的だった。



 ナタリアの食事は、“勉強”の一環で、使用人の粗末な食事と同じ内容と決められている。しかも、子供だからと量は半分だ。


 ナタリアは成長期なのだ。食べなければ、気力も体力もわかない。

 だから、手始めに、せめて腹のふくれる食事を目指したのである。



 ジャガイモの皮をむく手を止めずに


「・・・でも、この“お勉強”って、いつまで続けるのかしら」

「最近、お父様たちはお忙しいみたい。・・・私のお誕生日も、忘れられちゃった」


 などと、ため息混じりの愚痴をこぼして、同情を誘うことも忘れない――。




 そんな厨房での工作と並行して、ナタリアが次に動いたのは、義母と義妹の「嫌がらせ封じ」である。



 かつて、大沢真知子はこう考えた。

 嫌がらせをする人間は、暇なのだ――と。


 短大卒業後に入社した中堅商社の経理部には、お局・幸子サマが君臨していた。

 幸子サマは若手女子社員の活躍が気に食わぬようで、何かにつけては真知子たちにネチネチと嫌がらせをしかけてきた。

 しかし、その嫌がらせは、業務繁忙期にはピタリとおさまるのである。


 宿敵・淑江も、推しのヤン様のイベントが続いて忙しない時期には、嫁いびりの手が止まっていた。


 つまり。

 嫌がらせをする人は、暇があるから、嫌がらせをするのだ。

 そして、暇がなければ、嫌がらせの手を止めるのである。



 ナタリアは、まず、オリビアの机にあった辞書を、こっそりと隠した。

 家庭教師に出された宿題で辞書が必要になったオリビアは、図書室へ向かう。

 その図書室の、すぐに気づくような位置に、ナタリアはあるものを置いた。


――男性向け赤裸々ロマンス小説、いわゆる“エロ本”である。



 前世の記憶を取り戻す少し前に。

 ナタリアは、あまり使われていない図書室の隅で、十数冊の“それ”を発見していた。

 古ぼけた“それ”は、おそらく祖父の世代の誰かのコレクションだろう。


 見つけた当初は、恥ずかしくてすぐに表紙を閉じたが、今回、あらためて目を通すと、それは割りと読み応えのあるエロ本だった。

 大沢真知子(56歳)の記憶を得たいまのナタリアには、多少笑えてしまう箇所もあったが、いろいろと知りたい盛りのオリビアには強烈な刺激となっただろう。


 かくして。

 侯爵家の次女・オリビアは、急に学問に目覚め、図書室にこもるようになったのである。




 義母カーラに対しては、彼女の愛猫マルガレーテちゃんを利用した。


 じつはナタリアは、屋敷のどの部屋の鍵にも対応するマスターキーの在処を知っていた。

 

 そのマスターキーは、たぶん、祖父の趣味だったのだろう。箱根細工に似た仕組みの、開けるのに少し手間のかかる、からくり箱に収められていた。

 祖父と仕事をしていた母は、当然、そのからくり箱の開けかたを知っていた。

 その隣で遊び半分にいじっていたナタリアも、開けかたはしっかりと覚えている。


 しかし、どうやら父は忘れてしまったようだ。



 艶のある飴色の、重厚な木彫りの装飾で覆われたからくり箱は、内にマスターキーを忍ばせたまま、誰にも開けられることなく、いつのまにかシガレットルームの飾りと化していた。


 ナタリアは、そのマスターキーを回収。

 それを使って、夜中に何度かカーラの執務室へ侵入し、資料を漁ったのである。



 侯爵夫人であるカーラの元には、自派閥の貴族家の情報や各種招待状、婦人会の議事録、慈善事業の帳簿など、さまざまな資料がある。

 その中から、緊急度・重要度の高そうな資料を物色。

 長年、経理・総務畑を歩いてきた大沢真知子の記憶があれば、それはさして難しい仕事ではなかった。



 そして。

 ナタリアを除く侯爵家一同が外出する日を狙って、マルガレーテちゃんと一緒にカーラの執務室へ侵入。

 マルガレーテちゃんの仕業に見えるよう部屋を荒らし、重要書類を、ペーパーナイフやインクで判読不能になるまで破損したのである。


 念のため、マルガレーテちゃんは書類の残骸の上で本当に遊ばせてやり、部屋に残してきた。

 さらに、窓を開けて、拾っておいたカラスの羽を巻き散らす。

 窓から侵入したカラスを追いかけてマルガレーテちゃんも侵入。

 両者の死闘の末、執務室は滅茶苦茶に――というストーリーをでっち上げたのだ。

 


 侯爵一家が帰宅後。カーラの金切り声が屋敷内に響いた。

 その後しばらくの間、彼女は各方面へのお詫びや確認作業に追われることになったのである。




 義母義妹からの“嫌がらせ”が消えて、ナタリアには余力が生まれた。

 そこで、次はいよいよ「外部の人間の力を借りる」ことにする。



 まずは、すっかり顔なじみになった料理長に頼み、ラングレー男爵夫人に手紙を出した。

 彼の料理の腕は父のお気に入りだし、多少のことでは我が家をクビにはならないだろう。

 料理長もそう踏んだようで、すんなりとこちらの依頼を引き受けてくれた。



 ラングレー夫人は、侯爵が再婚する前の半年間だけナタリアの勉強をみてくれた、家庭教師だ。

 彼女は当時、義母カーラのナタリアへの冷徹を侯爵に訴えてくれた一人でもあった。

 その結果、カーラの不興を買い、契約は打ち切られてしまったが、ナタリアの脳裏には、厳しくも優しい彼女の姿が残っている。



 便箋や封筒は、カーラの執務室から躊躇なくちょろまかしたものを使った。

 その便箋に、ラングレー夫人にあてて、これまで連絡ができなかった非礼への詫びと、その後の自身に起こったこと、現在の状況を簡単に記す。


 さらに、いくつかの知りたい情報を確認。

 そのうえで、長子である自分へのこの扱いは、侯爵家の評判を落とすであろうこと。

 その痛手を最小限に抑えるために自分が動くので、協力をしてほしいと頼んだのだ。



――ラングレー夫人は正義感の強そうな方だったし、きっと動いてくれるはず。

 でも、レッドフォード家と渡り合うには、男爵夫人では弱いのよね。

 侯爵家と同等か、それ以上の家格の方でないと・・・



 数日後。

 ラングレー夫人から、驚きと後悔と謝罪、ナタリアを案じる言葉など、さまざまな思いのこもった返事が、料理長を介して届いた。


 分厚い手紙には、ナタリアへの協力と、ほかにできることがあれば遠慮なく言ってほしいとの言葉もつづられている。


――わずか半年の関係だったのに、こんなにも心配してもらっていたのね。



 じつはラングレー夫人。レッドフォード家の家庭教師をクビになったあとも、社交の場で何度か母の実家の人間にナタリアの様子を尋ねていたそうだ。

 その都度、「母親を亡くした傷心で伏せがちだが、それなりにうまくやっている」と聞いていたのだとか。



――何が「それなりにうまくやっている」よ!

 マルガレーテちゃんの糞を顔に押し付けられるのが「それなりにうまい」なら、あんたも試してみるがいいわ!

 

 会ったこともない親戚の名前を心の復讐ノートに刻みつつ、ナタリアは、やはり母の実家は頼らなくて正解だったと、息をついた。



――この先は、いよいよ正念場よ!

 “あの方”の関心をうまく引けるといいんだけれど・・・




 イザベル・ダリア・ヨーク夫人。


 彼女は先代ヨーク侯爵の未亡人で、現在は実家・マッケンロー伯爵家の王都邸に滞在している。


 社交界でささやかれる彼女の二つ名は“黒いダリア”。

 斜陽だったヨーク家をその商才で立て直し、女癖が悪く、散財癖まであった先代侯爵を、文字通り“締め上げて”、改心させたという逸話で知られる女傑だ。


 彼女の商才は、社交界に密に張り巡らされた情報網で底上げされている。

 顔が広いが、その分、噂話は聞くのも話すのも大好きで、得た情報を虚実交えて、面白おかしく吹聴する癖があるのだとか。


 また、敵対する者には容赦がなく、彼女ににらまれて社交の場から姿を消した者は少なくない――と噂されている。


 ちなみに、その姿を消したとされる一人が、母の友人で、“黒いダリア”の実弟の嫁。

 現在のマッケンロー伯爵夫人である。



 「年の離れた弟の嫁を追い出して、実家に居座っている」という彼女の噂は、かなり広まっているようだ。

 社交の場に出ないナタリアですら、使用人たちのおしゃべりで耳にしたほどである。


 しかし、事実は少し違うことを、ナタリアは知っている。

 なぜなら、追い出されたとされる当の本人が、生前の母に、ひんぱんに愚痴をこぼしに来ていたからだ。



『それは私も、うかつだったと反省はしているのよ。あんな詐欺師を夫に紹介してしまって。

 でも、最終的に投資を決めたのは、夫のジョージよ。私だって、まさかあんな大金をジョージがつぎ込むだなんて、思わなかったわよ』


『お義姉様には感謝しているのよ。王都邸を個人資産で買い取ってくれたおかげで、マッケンロー家の品位を保てているんだし。

 でも、だからって、あそこまでネチネチやらなくたって、いいじゃない――』



 要するに、詐欺師を信頼して伯爵家に莫大な借金を負わせてしまった母の友人は、“黒いダリア”の当主夫妻再教育に根を上げて、領地へ引っ込んだのだ。



――きっとヨーク夫人は、マッケンロー家の醜聞を隠すために、噂を否定しないのだわ。

 むしろ、あえてご自身の悪い噂を流したのかも・・・



 そんな、癖は強いが社交界に大きな影響力を持つヨーク夫人に、直接会って、相談をする――

 これが、ナタリアが考えた、“現状打破作戦”の要となる一手だった。




 ナタリア以外の侯爵家の全員が出払ったその日。

 ナタリアはマッケンロー家を訪ねた。


 ヨーク夫人の在宅は、ラングレー夫人に調べてもらって、確認済みである。

 伯爵家までの足となる馬車と、身だしなみを整えるメイド、訪問着のワンピースと靴も、ラングレー夫人に頼んで用立ててもらった。



 ナタリアの髪をすきながら、メイドが感嘆のため息をつく。


 身なりを整えたナタリアは、クセのないプラチナブロンドの髪に、すみれ色の瞳を持つ、美しい容姿の少女だった。

 あまり日に当たらないせいか、肌は白く、滑らかだ。

 ただ、食事改善で多少マシになったものの、ほおにはまだ少しやつれが見える。

 ラングレー夫人に用意してもらった上品な紫のワンピースも、少しブカブカだ。




 ヨーク夫人は、先ぶれのない訪問にもかかわらず、ナタリアを邸内に招き入れてくれた。



「――それで? 『マッケンロー夫人に直接手渡したいものがある』とおっしゃったようだけど、侍女が話した通りで、いま彼女は、ここにいないのよ」


「事情を知らぬまま突然伺ってしまい、申し訳ありません。

 じつは、伯爵夫人の友人だった亡き母の覚書が出てまいりまして。

 母は、思い出の指輪を、ぜひ伯爵夫人の手元に置いてほしいと――」


と、言いながら、ハンカチに包んだ安物の指輪をテーブルの上に出す。


 覚書云々は嘘だが、母の遺品であるのは本当だ。

 学生の頃、伯爵夫人とお揃いであつらえた品らしい。


 ダイアナとナタリアの貴金属は、カーラとオリビアに大半を取り上げられてしまったが、この指輪は、みすぼらしくて二人のお気に召さなかったようだ。



 ナタリアの荒れた指先に目を止めて、ヨーク夫人の美しい眉がピクリ、と反応した。

 手袋はあえてつけていない。


 その反応に気づかぬふりをして、ナタリアは言葉を続ける。


「本来ならば、家令か従者に手紙などを遣わせばよかったのでしょうが・・・義母たちは貴金属が大好きで、目に留まれば手元に置きたがる性分でして・・・。

 とくに、義母と家令は、その・・・『たいへん仲が良い』ので、念のため、私が直接、持参した次第です」


「まぁ、そうでしたの。家にはそれぞれ事情がありますものね」


 当たり障りのない返事だが、ヨーク夫人の瞳がキランと輝くのがわかった。


 『貴金属を手元に置きたがる』『家令とたいへん仲が良い』――間違ったことは言っていない。



「指輪は私から彼女に渡しておきましょう」

という、ヨーク夫人の目の前へ


「よろしくお願いします」

と、再度、荒れた指先を見せつけるように指輪をさし出した。




「――レッドフォード嬢は、お体が弱いと伺っていたのだけれど。外出できるまで回復されたようで、よかったわ」


「ええ? 体が弱い? 私が、ですか?」


 ややオーバーリアクション気味に眉を上げて目を見開き、驚いて見せる。


「失礼ながら、どなたかとお間違えでは?

 私は、元気ですわ。今朝も朝から、カゴいっぱいのジャガイモの皮をむいてきたんですよ」


 私、ジャガイモの皮むき、得意なんです! と、無邪気を装い、得意げに胸を反らせてみせた。



「――ジャガイモの、皮?」


 さすがに驚きを隠せなかったようで、ヨーク夫人の言葉が詰まる。

 側に控える侍女も、ビクリ、と大きく肩をゆらした。


「あ――、申し訳ありません。私、何だか、おしゃべりが過ぎてしまったようで・・・」


 すかさず、戸惑ったように肩を落として目を泳がせてみせると、


「いえ、大丈夫よ。少し意外だったものだから。

・・・それよりも、ジャガイモの皮? は、貴方がむくのね? 厨房で?」


と、ヨーク夫人が身を乗り出してきた。


 その様子を確認し、「ええと・・・」と、少し言い渋るそぶりを見せてから、ナタリアは思い切ったように顔を上げ、


「――じつは今日、お母様のご友人の伯爵夫人にお会いしたら、この件についてもご相談しようと思っていたんです」


と、切り出した。



 そしてナタリアは。

 7歳のころからいまに至るまで続く、“お勉強”の詳細を、ぶちまけたのである。




「――父は、義母の言うとおりにしろと言うだけで。

 でも私、ずっとこの“勉強”は、少しおかしいと感じていたんです。

 義母は男爵家の出身ですし、高位貴族の長子の教育には、あまりお詳しくないのではないかと――」


「でも、確認をしようにも、以前の家庭教師の先生は、お辞めになってしまいましたし――」


「家令は、先ほど申し上げたように、義母とは、その・・・『とくに仲良し』なので、私の言葉には耳を貸さず――」


「母の実家の伯爵家のかたたちには、母の葬儀以来、お会いしておりません」


「婚約者様ですか? もしかして、ダルトン家のウィリアム様でしょうか? 

 私、ウィリアム様とは、2年近くお会いしていません。

 だから、もう婚約は解消されたものだとばかり。先月の私の誕生日には、カードだけはいただきましたが――」


「ああ、義妹のオリビアは、お茶会などで、よくウィリアム様にお相手をしていただいているようです――」



 「まぁぁ!」「何てこと!」と熱のこもるヨーク夫人の合いの手を受けながら、ナタリアは、事実の羅列に集中し、父と義母義妹を非難する言葉は極力避け続けた。


「きっと、男爵家の出の義母は、気づかなかったのでしょう」

「父は、最近は、ことのほか忙しい様子で――」

「二人とも、何か深い考えがあってのことかも――」



 やがて、ナタリアの意図を察したのだろう。ヨーク夫人が姿勢を正し、


「それで。あなたは今後、どうしたいと考えているの?」

と、尋ねてきた。




「――亡き母に、私たち貴族は、王家の承認のもと、領民の血税によって日々を生かされていると教わりました。

 その貴族の一員として、私は受けた恩恵を、私の出来うる形で領民と王家へ返したいと考えております。


 そのためには、いま受けている教育に誤りがあるのであれば、学び直したいです。

 すでに学び直すには遅いというのであれば、侯爵家の一員という立場にはこだわりません。

 ただ、受けた恩恵を返せるよう、また、せめて独り立ちできるよう、学びは続けたいです」



――そうよ。このまま“ドアマット”として虐げられるのは、ごめんだわ。

 たとえ没落し、平民になろうとも、私は、楽しみながら誰かの役に立てる人生を送りたい。

 ジャガイモの皮むきだって、案外、楽しめたしね。

 人として踏みにじられないのであれば、私は“靴べら”だって、一向に構わないのだ。


――ただ、まぁ。

 せっかく貴族として生まれたわけだし。

 ちょっとだけ、豊かな生活を確保したいと願っても、いいわよね?




「――私たちの親世代にね。本妻の産んだ子供を虐げて、愛人の子を次期当主に据えようとした貴族がいたの」


と、ヨーク夫人が静かに語り出す。


「別に構やしないないのよ。愛人の子が当主になったって。次期当主は、その家の当主の裁量次第で決まるのだから。

 ・・・でも、子供を虐げるのは、よくないわ」


 結局、その本妻の産んだ子供は、不幸な形で亡くなったそうだ。



 この事件がきっかけで、この国では、未成年の貴族の後継者育成の有り様に対して異議申し立てがあった場合、王家や教会、貴族院が参加する「審査会」が設けられ、その是非の判断が下されるようになった。


 異議申し立てができるのは、未成年の貴族本人が指名する後見人の成人貴族だ。

 ただし、その後見人・もしくは後見人の伴侶の爵位は、当人の家の爵位と同等以上でなければならない。

 この決まりは、当人の社交性や人脈を確認するためと、下位貴族による上位貴族の乗っ取りを防ぐために設けられている。



 じつは、このあたりの制度に関して、ナタリアは厨房で料理人たちから何となく教わっていた。

 詳細は、手紙でラングレー夫人に確認した。

「自分や自分の夫では後見人になれない」と、夫人は悔しがっていたものである。



――お父様たちが、私を“ドアマット”のまま放置したのは、私が後見人を指名できないと、高をくくっていたのね。

 公爵家のウィリアム様と引き離したのも、きっとこれが理由だわ。



 ちなみに、「審査会(正式名称は、後継者育成環境審査会)」では、異議を申し立てた者の、国家や家に対する忠誠度と、品位が重視される。

 「親父は兄貴ばかりを優先して、おれを差別するんだ!」などと感情任せに騒ぎ立てる輩を排除するためだ。

 

 ヨーク夫人とのやりとりでナタリアが極力、父親たちを非難しなかったのは、このためである。



 どうやらその思慮が、ヨーク夫人のお眼鏡にかなったようだ。


 「お疲れのご様子だから」と誘われるまま、ナタリアはマッケンロー家の王都邸に3日間、滞在した。

 その間に、人を使ってレッドフォード家を調べたのだろう。

 3日目の夕刻に、ヨーク夫人の口から「後見人が必要なら、私が引き受けましょう」との提案が出たのである



 そのころには、ナタリアはすっかりヨーク夫人のファンになっていた。


――大沢真知子と年齢が近いせいか、物事の見方や考え方に共感する点が多いのよね。

 使用人への指示は的確で無駄がないし、許可を得て拝見したお客様への対応も、話題の取捨選択が見事だった。

 貴族の夫人として、こんな鮮やかな生き方をしてみたい――



 だから。

 後見人を断られるかもしれないという恐れはあったものの。

 ナタリアは、「レッドフォード家が抱えているかもしれない、もう一つの問題」を、ヨーク夫人に相談したのである。




「――まぁまぁ。あなた、本当に目端がきくのねぇ」


 意外なことに、ヨーク夫人は、ナタリアの話を上機嫌に聞いてくれた。


――この反応。たぶん、夫人も同じ情報をつかんだのね。

 先にこちらから申告をして、良かったかも。



 詳細はまだわからないからと、この話はそこで終わったが、少し先の未来は明るいものになりそうだと、ナタリアは思った。




 4日目の朝。ナタリアはヨーク夫人と、ヨーク夫人の実弟であるマッケンロー伯爵と一緒に、担当役所へ異議申し立て書を提出。


 その後は、ナタリアだけ役所の用意した宿泊施設へ移動。

 何度かの役人の聞き取り調査に応じたあと、1ヵ月ほどで審査会が開かれた。



 審査会は数週間、続いた。

 その間、ナタリアは父親をはじめとする侯爵家の人間と顔を合わせていない。


 ただ、父親の証言内容は、確認させてもらった。


 父親のオリバーは、当初、「ナタリアは精神的に不安定で、不摂生で自堕落な生活を送っている」「ありもしない被害妄想にも陥っている」「家の雑事は、本人が望んで行ったものだ」などと話していたようだ。


 しかし、ナタリアが申告した「レッドフォード家のある疑惑」が事実と判明すると、しぶしぶナタリアへの虐待を認めたという。



 レッドフォード家のある疑惑――それは、「公金の横領」だ。




 屋敷のマスターキーを入手したナタリアは、オリバーの執務室も漁っていた。


 レッドフォード家は、数年前の大規模水害で大きな痛手を被っている。


 家格は高いが、もともとさほど裕福な家でないことは、いまは亡き母と祖父がこぼしていた愚痴で、ナタリアは知っていた。


 それなのに、水害後もカーラやオリビアは気ままに金を使い続けている。

 ナタリアは、その金の出所が気になったのだ。



 執務室を調べても、結局、裏帳簿の類は見つけられなかった。

 

 しかし、帳簿を念入りに読むと、水害に対する王家からの支援金の額と、じっさいに復興に使われた金額に、微妙にズレがあることに、ナタリアは気づいた。


 その帳簿の数字のズレを一覧にまとめたものを持参し、「レッドフォード家は、王家からの支援金を着服している疑いがある」――審査会で、ナタリアはそう証言したのだ。




 「審査員の耳に入るように、少ぉし噂は振りまいたけれど。あまり必要なかったみたいね」

と、大輪のダリアがほころぶように、ヨーク夫人は優雅に笑った。


 確かに結末は、レッドフォード家の自滅といえるだろう。



 審査会でのナタリアの証言によって、レッドフォード家には本格的な調査の手が入った。

 結果は、黒。

 レッドフォード家は伯爵へと爵位を落とし、当主であるオリバーとカーラは貴族籍はく奪の上、獄中へ。

 未成年であるオリビアは、レッドフォード家の遠縁の子爵家へ籍を移し、その監督下で再教育を受けることになった。


 そして。

 レッドフォード家の新たな当主は、ナタリアと決まったのである。

 

 ナタリアが成人するまでは、後見人であるヨーク夫人と、王家の指名した執務官が、領地経営の補佐をしてくれるという。



 連行されるオリバーは、亡き母ダイアナとナタリアを「小賢しい女どもめ!」と、大いに罵っていたそうだ。


 オリバーとダイアナは、大恋愛の末に結ばれた。

 しかしダイアナは、人形のような容姿とは裏腹に、かなり有能な女性だった。  

 その品格と領政への手腕は、舅であるオリバーの父に大いに気に入られた。

 

 その結果。

 劣等感に苛まされたオリバーは浮気に走ったようだ。


 オリバーは、ダイアナにそっくりな容姿のナタリアも、その劣等感故に教育を放棄し、虐げたようだ。



――こういうのも“毒親”というのかしらね。


 レッドフォード家へ戻り、王家から来た執務官と使用人の整理を検討しながら、ナタリアは小さなため息をついた。




 ナタリアが、執務官たちの手を借りて屋敷内や領地経営の諸々を引き継ぎ終えたのは、そろそろ夏も盛りを迎えようとする頃だった。


 窓から気持ちのいい風が入る、ある夜。

 ナタリアは、自室のフカフカなベッドの上で寝ころび、高い天井を見上げていた。


 まだ眠れそうもないと思ったナタリアは、サイドボードから、古びた一本のリボンをとり出す。

 すみれ色のそれは、亡き母との思い出の品だ。



『お父様は、これまで頑張りすぎて、少しくたびれてしまったの』

『いつか、きっと目を覚ましてくれるわ』

『それまで、寂しいけれど、母様と一緒に待ちましょうね』


 幼いナタリアにそう言い聞かせながら、母は黙々と仕事を続けていた。

 

 そして。仕事の山を片づけた夜に。

 よく、この古びたリボンをとり出して眺めていたのだ。


 その眼差しが、あまりに愛おし気で――

 もてあそぶ指先が、あまりに楽し気で――


 幼いナタリアは、つい、「それを頂戴」とねだってしまった。



『ごめんなさい。これは、母様の宝物だから、あなたに譲ってあげられないの』

『でも、あなただって、もうお父様からいただいているでしょう?』


 そう言って。

 母はやさしく、ナタリアのまぶたに触れた。



 母にそっくりなナタリアが、唯一、父から譲り受けた色。

 あの子(義妹)はもらえなかった、私の紫――



 だから。

 ナタリアは、5年もの間、理不尽に耐えたのだ。


 『いつか、きっと目を覚ましてくれるわ』

 その母の言葉を、嘘にしたくなかったから――


 いつもインクで汚れて、少しカサついていた指先。

 その母の努力を、無駄にしたくなかったから――


 記憶に残る父は、こちらへ背を向けた、冷たい後ろ姿ばかり。

 それでも。

 母の愛した紫を、嫌いになりたくなかったから――




「――ごめんなさい」


 夜の静寂のなかに、ぽろり、と言葉が落ちる。


 月明かりの下で、リボンの表面を、指先でそっとなぞる。

 宝石でもドレスでもない、この古ぼけた紫を、母はことのほか大事にしていた。



――どこへいってしまったのかと思っていたけれど。あんなところにあったのね。


 なつかしいそのリボンは、マスターキーの入っていた、からくり箱の奥に、そっとしまい込まれていた。



 父が開けられなくなってしまった、からくり箱。

 その奥底に、母は何を思って忍ばせたのか――



「――ごめんなさい」


 ぽろり、と、また言葉が落ちる。


 あなたの愛と希望と努力を、私はすべて切り捨てた。

 あなたの代わりに、あの人を待ってあげられなくて、ごめんなさい。



 でも。

 私も、笑って生きたいと願ってしまったの。



 大沢真知子の人生は――

 気の置けない友人や同僚たち。

 優しいけれど、気弱で八方美人の夫。

 おかげで苛烈を極めた嫁姑バトル。


 笑って、泣いて、怒って、また笑って。

 諦めて、妥協して。惰性に流れたこともあったけど。

 振り返ってみれば、楽しい日々だった――



 大沢真知子の記憶を得て以来、ずっと蓋をし続けてきた幼いナタリアの想い。

 その想いが、やわらかな夜の闇に、ほろほろと零れ落ちてゆく――



――ずいぶんと、強くなれたと思ったのに。


 その晩。ナタリアはひとしきり泣いた。




 ヨーク夫人への報告後、ナタリアはマッケンロー家でおいしいお茶をいただいていた。

 その席に、なつかしい顔が並んでいる。


「ごめんなさい。本来なら、あなたの苦境に、私が真っ先に気づくべきだったのに・・・」


 母の友人、マッケンロー夫人だ。

 

 ヨーク夫人からナタリアの現状と審査会の件を聞いたマッケンロー夫人は、領地から慌てて戻ってきた。

 こうして顔をあわせるのは数度目だが、そのたびに毎回、お詫びの言葉をもらってしまう。



 じつは、マッケンロー夫人は母の葬儀後、何度かナタリアへ手紙を出していたそうだ。

 もちろん、その手紙はナタリアのもとへは届いていない。

 たぶん、父かカーラが握りつぶしたのだろう。



「返事がこない時点で、おかしいと気づくべきだったのよ」


と、マッケンロー夫人が、肩を落としてうなだれる。


 どうやら、おのれのうかつさが心底嫌になったようで、マッケンロー夫人はいま、ヨーク夫人の再教育を真面目に受けているそうだ。



「ジャックも、事の次第を知って驚いていたわ。自分があなたのそばにいればって・・・」


 ジャックとは、ナタリアより3つ年上の、マッケンロー家の次男だ。

 母の生前に、マッケンロー夫人と一緒に何度か顔を合わせたことがある。

 彼は現在、隣国へ留学中。帰国は3年後の予定だとか。


――たぶん、このジャック君が、“ドアマットヒロイン”のお助けキャラね。

 昔、夫人が愚痴をこぼしている間に、庭へ連れ出してもらった覚えがあるわ・・・




「あなたが、ジャックと結婚してくれれば、私の本当の身内になったのに・・・」


と、ヨーク夫人が、ほおに手を添えて品のよいため息をつく。


――“黒いダリア”の身内! ああ、なんて魅惑的な立場でしょう!


 ナタリアとウィリアムは、すでに婚約解消ずみだ。

 ダルトン公爵家の当主からは、三男の監督不行届を丁重に詫びられてもいる。


 だから、尊敬する“黒いダリア”の身内になるのに、本来であれば、何の支障もないはずだったのだが・・・



「まさか、王家にとられちゃうだなんて。つくづく、残念だわ」



 じつはナタリア。先日、第四王子アシュトン殿下の婚約者に内定されたのだ。




 審査会でナタリアの年齢に見合わぬ思慮深さに目を付けた王家は、ナタリアの当主就任後、ヨーク夫人を介して婚約の打診を申し入れてきた。


 アシュトン殿下は、御年9歳。ナタリアより4つ年下だ。

 しかし、幼いながらもかなり優秀で、すでに多方面で才覚を現しているという。



 王家としては、他国への婿入りなどで、優秀な人材を国外へ流出させたくない。

 しかし、担ぎ上げられて次代の王座を狙われても困る。

 余計な野心を抱かせぬよう、目も手も届く範囲に置き、その才覚をもって国家に尽くしてほしい。

 そのために、王家のテコ入れで就任した女伯爵の伴侶という立場は、好都合――


――と。

 顔合わせのお茶会の席で、アシュトン殿下の後見を務める側妃様がおっしゃっていた。

 ちなみに、アシュトン殿下の実母は、元男爵家の庶子である愛妾様である。




――本人の前で、そこまで言っちゃうかー!?


 思わず目の前に座る、幼いアシュトン殿下の顔色を窺うと・・・


 まだ丸みを帯びたほおに可愛らしい笑みを浮かべて、側妃様の言葉にコクコクと頷いておいでだった。



「王家の私への懸念は、理解できます。

 裏を返せば、それだけ高く私を評価してくださっている、ということでしょうし」


「私は、国内の混乱は望みません。

 体も心も傷つけられるのは、誰だって嫌でしょう? 私だって、嫌です」


「私が与えられたこの才覚は、誰かを傷つけるのではなく、ともに笑い、楽しむために使いたいですね」


「あと、“国王”って立場は、いろいろ面倒臭そうだし・・・」


 お上品にケーキを口に運びながら、そう語るアシュトン殿下。



――どこまでが本音か、わからないけれど。頭のいい子は、好きよ。



 と、いうわけで。

 ナタリアの人生の伴侶は、あっさりと決まったのだった。




――最初は、“靴べら”人生で構わないと思っていたのだけれど。

 未来は、思ってた以上に華やかになりそうね。



 でも、そういえば・・・と、ナタリアは大沢真知子の記憶を思い出す。



――たしか、持ち手が貴金属とか七宝焼きとかで装飾された、豪華版の“靴べら”もあったよね。

 前に、お金持ちの友人の実家で、玄関に飾ってあったのを見たわ。

 彼女の弟は「強盗が来たら、これでぶん殴る」とか言ってたっけ・・・。



 なくても別に構わないけれど。

 あったらあったで、案外、重宝する“靴べら”。

 見栄えが良ければ、飾りとしても役に立つ。

 いざというときには、剣やこん棒の代わりにも――



 なるほど。


 次は、夫婦で、豪華版“靴べら”人生を目指しますか。




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