冷たい夫が毎晩私の部屋の前で足を止めていると知ったのは、侍女のうっかり発言のせいでした
結婚して三ヶ月。夫と目が合ったのは、たぶん片手で数えられるくらいだと思う。
今朝も、銀の食器が皿に触れる音だけが広すぎる朝食室に響いている。私の夫──ブレンハイム公爵クラウスは、手元の書類に目を落としたまま、一度もこちらを見ない。
……知ってた。知ってたけど、慣れるものじゃない。
(前の人生で学んだでしょう。自分を大事にしない関係に、しがみつくなって)
ふいに、頭の奥がちりっと痛んだ。前世の記憶。日本という国で終電まで働いて、恋人に「お前といても楽しくない」と振られて、最後は過労で倒れた。目が覚めたら子爵家の令嬢リーゼロッテになっていた、という──まあ、信じてもらえない類の話だ。
だからわかる。愛されない場所に自分を押し込めて、笑って、気づいたら心が空っぽになっている感覚。二度目は御免だ。
「夕刻に視察がある。夕食は不要だ」
クラウスの低い声。事務連絡。いつもどおり。
「承知いたしました」
私は微笑んだ。完璧に、穏やかに。
笑顔のまま、心の奥で決めた。
離縁届を、書こう。
◇
三日後。社交界の茶会で、マルグリット・フォン・ゼルダ伯爵令嬢に呼び止められた。
薔薇色のドレスに、同情するような──でもどこか愉しげな目。
「先日の夜会で、クラウス様がいらしていたでしょう? あれは……私をお誘いになるためだったようで。公爵様はもともと、私との縁談を望まれていたとか」
(……知ってた。知ってたけど、人に言われると、こんなに痛いんだ)
「お気遣いありがとうございます。でもご心配なく──一人には、もう慣れましたので」
マルグリットが一瞬面食らった顔をした。哀れな妻が泣き崩れるとでも思ったのかしら。
帰りの馬車で、震える手を握りしめていたことは、誰にも言わない。
公爵邸に戻ると、廊下でばったりクラウスと出くわした。軍服の襟元がわずかに乱れている。灰色の瞳が一瞬私を捉えて──何か言いかけるように唇が動いた。
「……ああ、戻ったか」
それだけ。それだけ言って、足早に書斎へ消えていった。
(いつもこう。何か言いかけて、何も言わない)
「奥様、おかえりなさいませ!」
侍女のエルザが外套を受け取りながら、声をひそめた。
「あまり気に病まれないでくださいね。旦那様、奥様のお帰りの時刻をいつも執事に確認されて──」
ぴたり、と口が止まる。
「……いえ、なんでもありません! お茶をお淹れしますね!」
脱兎のごとく走り去るエルザ。
(帰宅時刻を確認? あの人が?)
小さな棘のように、胸のどこかに刺さった。でも──期待するだけ、馬鹿を見る。前の人生で、嫌というほど学んだ。
◇
離縁届を清書した夜、不思議と涙は出なかった。前世で退職届を書いた夜と同じだ。限界を超えると、人は泣けなくなる。
翌朝、クラウスの書斎の扉を叩いた。
「三ヶ月、お世話になりました。離縁届です。ご署名をお願いいたします」
封書を差し出した。
沈黙。
クラウスの指が──震えた。灰色の瞳がまん丸になって私を見つめる。少し感情が宿ると途端に人間味が出てくるのだと、場違いなことを思った。
「……なぜだ」
「政略の役目は果たしました。子爵家への支援金も送金済みです。これ以上ご迷惑をおかけするつもりは──」
「迷惑だと、誰が」
遮るように言って、でも──そこで止まった。いつもそうだ。何か言いかけて、飲み込む。
(ほら。やっぱり、引き止めてはくれない)
「失礼いたします」
扉を閉めた瞬間、視界が滲んだけれど、振り返りはしなかった。
◇
私室で荷造りを始めた。嫁入り道具は多くない。数冊の本と、薬草の押し花帳。三ヶ月分の荷物は、あっけなくトランクに収まった。
──前の人生でもそうだった。恋人の部屋を出た時も、思ったより少ないな、って。
「奥様……お願いです、行かないでください……」
エルザが涙をぽろぽろこぼしながら、スカートの裾を掴んだ。
「だって旦那様、毎晩奥様のお部屋の前で足を止めて、ずっと立っていらっしゃるのに──あっ」
時間が、止まった。
「……今、なんて言ったの」
「わ、私、口止めされていて……でも、もう!」
堰を切ったように、エルザの口から真実が溢れ出す。
旦那様は毎晩、奥様のお部屋の前にいらっしゃること。手を上げて、でもノックできないで、そのまま戻っていかれること。
書斎に新しい薬草図鑑があること。奥様が薬草園に植えた品種を、一つ残らず調べたものだということ。
先日の茶会に出席されたのは──マルグリット様のためなんかじゃなく、奥様をお迎えに行くためだったこと。
「旦那様はいつもそうなんです……! 奥様のことばかり気にされているのに、ご自分からは何もおっしゃれなくて……!」
(全部──嘘だったの。マルグリットの言葉は)
怒りじゃなかった。
込み上げてきたのは、もっとどうしようもない感情だった。
(ああ、私──また同じことをするところだった)
前世で、「どうせ愛されていない」と思い込んで、自分から離れた。相手の気持ちを確かめもせずに。今世でも、同じことを。
馬鹿みたいだ。二回も同じ過ちを犯すところだったなんて。
トランクを放り出して、走った。廊下を駆けて、書斎の扉を開けた。
──クラウスは、離縁届を握りしめたまま、机に突っ伏していた。
大きな背中が、震えている。
「クラウス……様」
顔を上げた彼の目が、赤かった。氷のような灰色の瞳が、こんなに熱を持てるのだと初めて知った。
「どうして直接言ってくださらなかったの」
声が震えた。涙が勝手にこぼれた。
「毎晩部屋の前にいたなら、どうしてノックしてくださらなかったんですか」
クラウスが立ち上がった。一歩近づいて──また止まる。
その仕草で、全部わかった。この人はずっとこうやって、一歩手前で止まってきたのだ。
「……俺は、お前に触れたら壊してしまいそうで怖かった」
低い声が掠れていた。大きな手が震えながら持ち上がって、宙で止まる。
「お前はこの屋敷で一番綺麗に笑うから。俺が近づいたら、その笑顔が消えると思った」
(──あぁ)
この人は怖かったんだ。感情の見せ方を知らない。不器用すぎて、好きな人の前で氷になることしかできなかった。
私は、宙で止まった彼の手に、自分の両手を重ねた。大きくて、硬くて、冷たい。でも、震えている。
「壊れません。私、あなたが思っているより、ずっと丈夫です」
泣きながら笑った。格好悪いけど、そんなことはどうでもよかった。
クラウスの手が、おそるおそる握り返してくる。ぎこちなくて、力加減がめちゃくちゃで。
──でも、温かかった。
◇
マルグリットの嘘は、あっけなく露呈した。茶会の主催者であるローゼンタール侯爵夫人が「あらマルグリット様、公爵様は奥方様のお迎えにいらしたのですよ?」と首を傾げたのが始まりだったらしい。社交界とは、そういう場所だ。小さな嘘ほど、足がつく。
離縁届は、私が自分の手で破った。
「この家にいます。──私の意志で」
そう言った時のクラウスの顔は、ちょっと見物だった。瞳がまん丸になって、耳まで赤くなって。
──かわいい人だ。
その夕方、クラウスが信じられないくらいぎこちない声で言った。
「……今夜、その……一緒に、食事を」
三ヶ月で初めての、夕食の誘い。
「喜んで」
私は笑った。今世で一番、上手に笑えたと思う。
◇
その夜、俺は生まれて初めて、妻の部屋の扉をノックした。
何度も手を上げては下ろしてきた、この扉を。
──開けてくれた彼女が笑っていたから、たぶん、俺も少し笑えたのだと思う。




