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冷たい夫が毎晩私の部屋の前で足を止めていると知ったのは、侍女のうっかり発言のせいでした

作者: 秋月 もみじ
掲載日:2026/02/19


 結婚して三ヶ月。夫と目が合ったのは、たぶん片手で数えられるくらいだと思う。


 今朝も、銀の食器が皿に触れる音だけが広すぎる朝食室に響いている。私の夫──ブレンハイム公爵クラウスは、手元の書類に目を落としたまま、一度もこちらを見ない。


 ……知ってた。知ってたけど、慣れるものじゃない。


(前の人生で学んだでしょう。自分を大事にしない関係に、しがみつくなって)


 ふいに、頭の奥がちりっと痛んだ。前世の記憶。日本という国で終電まで働いて、恋人に「お前といても楽しくない」と振られて、最後は過労で倒れた。目が覚めたら子爵家の令嬢リーゼロッテになっていた、という──まあ、信じてもらえない類の話だ。


 だからわかる。愛されない場所に自分を押し込めて、笑って、気づいたら心が空っぽになっている感覚。二度目は御免だ。


「夕刻に視察がある。夕食は不要だ」


 クラウスの低い声。事務連絡。いつもどおり。


「承知いたしました」


 私は微笑んだ。完璧に、穏やかに。


 笑顔のまま、心の奥で決めた。


 離縁届を、書こう。





 三日後。社交界の茶会で、マルグリット・フォン・ゼルダ伯爵令嬢に呼び止められた。


 薔薇色のドレスに、同情するような──でもどこか愉しげな目。


「先日の夜会で、クラウス様がいらしていたでしょう? あれは……私をお誘いになるためだったようで。公爵様はもともと、私との縁談を望まれていたとか」


(……知ってた。知ってたけど、人に言われると、こんなに痛いんだ)


「お気遣いありがとうございます。でもご心配なく──一人には、もう慣れましたので」


 マルグリットが一瞬面食らった顔をした。哀れな妻が泣き崩れるとでも思ったのかしら。


 帰りの馬車で、震える手を握りしめていたことは、誰にも言わない。


 公爵邸に戻ると、廊下でばったりクラウスと出くわした。軍服の襟元がわずかに乱れている。灰色の瞳が一瞬私を捉えて──何か言いかけるように唇が動いた。


「……ああ、戻ったか」


 それだけ。それだけ言って、足早に書斎へ消えていった。


(いつもこう。何か言いかけて、何も言わない)


「奥様、おかえりなさいませ!」


 侍女のエルザが外套を受け取りながら、声をひそめた。


「あまり気に病まれないでくださいね。旦那様、奥様のお帰りの時刻をいつも執事に確認されて──」


 ぴたり、と口が止まる。


「……いえ、なんでもありません! お茶をお淹れしますね!」


 脱兎のごとく走り去るエルザ。


(帰宅時刻を確認? あの人が?)


 小さな棘のように、胸のどこかに刺さった。でも──期待するだけ、馬鹿を見る。前の人生で、嫌というほど学んだ。





 離縁届を清書した夜、不思議と涙は出なかった。前世で退職届を書いた夜と同じだ。限界を超えると、人は泣けなくなる。


 翌朝、クラウスの書斎の扉を叩いた。


「三ヶ月、お世話になりました。離縁届です。ご署名をお願いいたします」


 封書を差し出した。


 沈黙。


 クラウスの指が──震えた。灰色の瞳がまん丸になって私を見つめる。少し感情が宿ると途端に人間味が出てくるのだと、場違いなことを思った。


「……なぜだ」


「政略の役目は果たしました。子爵家への支援金も送金済みです。これ以上ご迷惑をおかけするつもりは──」


「迷惑だと、誰が」


 遮るように言って、でも──そこで止まった。いつもそうだ。何か言いかけて、飲み込む。


(ほら。やっぱり、引き止めてはくれない)


「失礼いたします」


 扉を閉めた瞬間、視界が滲んだけれど、振り返りはしなかった。





 私室で荷造りを始めた。嫁入り道具は多くない。数冊の本と、薬草の押し花帳。三ヶ月分の荷物は、あっけなくトランクに収まった。


 ──前の人生でもそうだった。恋人の部屋を出た時も、思ったより少ないな、って。


「奥様……お願いです、行かないでください……」


 エルザが涙をぽろぽろこぼしながら、スカートの裾を掴んだ。


「だって旦那様、毎晩奥様のお部屋の前で足を止めて、ずっと立っていらっしゃるのに──あっ」


 時間が、止まった。


「……今、なんて言ったの」


「わ、私、口止めされていて……でも、もう!」


 堰を切ったように、エルザの口から真実が溢れ出す。


 旦那様は毎晩、奥様のお部屋の前にいらっしゃること。手を上げて、でもノックできないで、そのまま戻っていかれること。


 書斎に新しい薬草図鑑があること。奥様が薬草園に植えた品種を、一つ残らず調べたものだということ。


 先日の茶会に出席されたのは──マルグリット様のためなんかじゃなく、奥様をお迎えに行くためだったこと。


「旦那様はいつもそうなんです……! 奥様のことばかり気にされているのに、ご自分からは何もおっしゃれなくて……!」


(全部──嘘だったの。マルグリットの言葉は)


 怒りじゃなかった。


 込み上げてきたのは、もっとどうしようもない感情だった。


(ああ、私──また同じことをするところだった)


 前世で、「どうせ愛されていない」と思い込んで、自分から離れた。相手の気持ちを確かめもせずに。今世でも、同じことを。


 馬鹿みたいだ。二回も同じ過ちを犯すところだったなんて。


 トランクを放り出して、走った。廊下を駆けて、書斎の扉を開けた。


 ──クラウスは、離縁届を握りしめたまま、机に突っ伏していた。


 大きな背中が、震えている。


「クラウス……様」


 顔を上げた彼の目が、赤かった。氷のような灰色の瞳が、こんなに熱を持てるのだと初めて知った。


「どうして直接言ってくださらなかったの」


 声が震えた。涙が勝手にこぼれた。


「毎晩部屋の前にいたなら、どうしてノックしてくださらなかったんですか」


 クラウスが立ち上がった。一歩近づいて──また止まる。


 その仕草で、全部わかった。この人はずっとこうやって、一歩手前で止まってきたのだ。


「……俺は、お前に触れたら壊してしまいそうで怖かった」


 低い声が掠れていた。大きな手が震えながら持ち上がって、宙で止まる。


「お前はこの屋敷で一番綺麗に笑うから。俺が近づいたら、その笑顔が消えると思った」


(──あぁ)


 この人は怖かったんだ。感情の見せ方を知らない。不器用すぎて、好きな人の前で氷になることしかできなかった。


 私は、宙で止まった彼の手に、自分の両手を重ねた。大きくて、硬くて、冷たい。でも、震えている。


「壊れません。私、あなたが思っているより、ずっと丈夫です」


 泣きながら笑った。格好悪いけど、そんなことはどうでもよかった。


 クラウスの手が、おそるおそる握り返してくる。ぎこちなくて、力加減がめちゃくちゃで。


 ──でも、温かかった。





 マルグリットの嘘は、あっけなく露呈した。茶会の主催者であるローゼンタール侯爵夫人が「あらマルグリット様、公爵様は奥方様のお迎えにいらしたのですよ?」と首を傾げたのが始まりだったらしい。社交界とは、そういう場所だ。小さな嘘ほど、足がつく。


 離縁届は、私が自分の手で破った。


「この家にいます。──私の意志で」


 そう言った時のクラウスの顔は、ちょっと見物だった。瞳がまん丸になって、耳まで赤くなって。


 ──かわいい人だ。


 その夕方、クラウスが信じられないくらいぎこちない声で言った。


「……今夜、その……一緒に、食事を」


 三ヶ月で初めての、夕食の誘い。


「喜んで」


 私は笑った。今世で一番、上手に笑えたと思う。





 その夜、俺は生まれて初めて、妻の部屋の扉をノックした。


 何度も手を上げては下ろしてきた、この扉を。


 ──開けてくれた彼女が笑っていたから、たぶん、俺も少し笑えたのだと思う。

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― 新着の感想 ―
どんだけヘタレやねんこの旦那(´゜д゜`)
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