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ギルドの片隅、埃を被った掲示板の最下層から、カナはその一枚を引き剥がした。

羊皮紙は黄色く変色し、端はボロボロに崩れている。


「これよ! 運命の鼓動を感じるわ。この依頼こそ、我が覇道の真髄を証明する試練となるでしょう!!」


「……カナさん。それ、見た感じ十年前の紙っすよ。文字も薄くて読めないっす」

コウタは嫌な予感しかせず、連結された足を引きずるようにして受付へと向かった。

カウンターにその紙を置くと、受付嬢は眼鏡をずらし、絶句した。

「……あ、これ。すみません、あまりに古すぎて下げ忘れてました。これ、もう十年前の依頼ですよ? 依頼主の老人も、数年前に亡くなってます」


「な……亡くなっている!?」


「ええ。お孫さんに、いつか勇者が現れて村の裏山の魔物を掃討してくれると約束した……なんてお伽話みたいな内容で。報酬も当時のままですし、今はそこ、Sランクの魔獣の巣窟になってますから。破棄しちゃいますね」


受付嬢がゴミ箱へ手を伸ばした瞬間。

カナが、その上から力強く依頼書を押さえつけた。


「待ちなさい。……王に、二言はない」


「……カナさん?」


「この老人は信じていた。いつか、誰かがこの理不尽を晴らしてくれると。その想いがここにある限り、依頼主が生きているか死んでいるかなど、覇道の前では些細な問題よ!!」


カナの瞳に、いつもの狂気とは違う、凛とした焔が宿る。

コウタは即座に計算した。

目的地はSランク区域。報酬は当時のパン数個分の端金。往復の馬車代だけで赤字。全滅の可能性は九割。

 

「……いや。カナさん、合理的に考えて無理っす。メリット、ゼロっすよ。幽霊に義理立てして、俺らの命をチップにする価値あります?」


「価値などないわ! 利益もない! だからこそ、私がやるのよ!!」


カナはプラスチックの王冠を正し、コウタを真っ直ぐに見据えた。


「世界中の人間が『無駄だ』と切り捨てるものの中にこそ、王が拾い上げるべき光がある! 私はこの老人の期待を、過去というゴミ箱に捨てさせるわけにはいかないのよ!!」


「…………」


「コウタ! 貴様は私の家来でしょう! ならば、私の誇りと共に、地獄の果てまで付き従いなさい!!」


カナはそう言い放つと、迷いのない足取りでギルドの扉へと歩き出した。

連結されたコウタの足が、無理やり引きずられる。

コウタは大きく、本当に大きくため息をついた。

タイパは最悪。効率はゴミ以下。

だが、前を歩く彼女の背中が、今の瞬間だけは、どんな高価な鎧を纏った騎士よりも大きく見えてしまった。

 

「……あ、いっす。もう、俺の人生の計算機、カナさんのせいでぶっ壊れてるっすから」


「にししし! さすがは我が魂! そう来なくては!!」



依頼の目的地、村の裏山と呼ばれた場所は、もはや鬱蒼とした魔獣の森と化していた。

Sランク指定の魔獣が跋扈ばっこし、一歩足を踏み入れるごとに殺気めいた気配が肌を刺す。


「はっはっは! 見なさいコウタ! ここが、かつての老人が夢見た『勇者の舞台』よ! さあ、私の雄姿を、その目に焼き付けるがいいわ!!」


カナはそう叫んだものの、突如として目の前に現れた三頭のSランク魔獣――『地獄の番犬ヘルハウンド』の咆哮に、一瞬だけ体が硬直した。

「ガルルルルルルァアアア!!」


「ひ、ひえぇええええええええええ!!」


「だあああ! 逃げる方向逆っすよカナさん!!」


カナは悲鳴を上げ、くるりと踵を返して全力で逃げ出した。

もちろん、コウタも足が繋がれているため、為す術なく引きずられる。


「はっはっは! 逃げるのではないわ! これが私の誇る『陽動戦術デコイ・アタック』よ!! コウタ、私の美しさに惑わされて追いかけてくる愚かな犬共を、後ろから始末しなさい!!」


「どうやって!?」

コウタは心の中で絶叫した。

カナの逃走速度は異常だった。

ボロボロのブーツで地面を蹴り、プラスチックの王冠がガタガタと揺れるが、その脚力はSランク魔獣の追撃を振り切るほどだ。

唯一にして最大の長所である「スタミナ」と「意味不明な身体能力」を遺憾なく発揮し、カナは林の中を縦横無尽に駆け巡る。


「ガルルル! グオオオオオ!」


「はっはっは! 届かないわよ、ポンコツ犬共め!! 私は、世界の理を超越した神速の覇者なのだから!!」


「……カナさん! そろそろガス欠っす! てか、もう一時間くらい走り回ってるっすよ!!」


コウタの体力の限界が近い。

Sランク魔獣を相手に、延々と同じペースで逃げ続けるのは不可能だ。

このままでは、カナのスタミナが切れる前に、自分の足がってしまう。

コウタは呼吸を荒げながら、カナの腕を掴んで無理やり減速させた。


「……もう、いいっす。限界っす。俺が、やるっす」


コウタはそう呟くと、カナの手首に繋がれた契約の紋章に、自身の魔力を流し込んだ。

カナの体が、驚いたようにピタリと止まる。


「な、何を……!? 今は私の華麗なる逃走劇の途中でしょうが!!」


「うるさいっす。……王の威厳が、地に落ちる前に終わらせるっすよ」


コウタの瞳の色が、深く、冷たい蒼色に変わる。

今までどこか力をセーブしていた彼の体が、契約の鎖を通して、カナの魔力を限界まで吸い上げ始めた。

地面に亀裂が走り、周囲の空気がビリビリと震える。


「な……!? コウタ、貴様……今、私の力を……!?」


驚愕するカナを背に、コウタはゆっくりと、三頭のヘルハウンドに向き直った。

その顔は、いつもの死んだ魚の目ではなく、獲物を狩る絶対零度の視線を宿している。


「……これ以上、俺のタイパを悪くするのは許さないっす」



コウタの右手に凝縮された蒼い光が、周囲の夜闇を白日のごとく照らし出す。

Sランク魔獣、ヘルハウンドたちがその本能的な恐怖に喉を鳴らし、後ずさった。


「一掃するんで。カナさん、舌噛まないように気をつけてください」


コウタが静かに手をかざす。

刹那、爆音さえ置き去りにする蒼い雷光が、扇状に解き放たれた。

それは魔法というより、純粋なエネルギーの奔流。

ヘルハウンドたちの巨体は、咆哮を上げる暇もなく、光の渦に飲み込まれて霧散していく。

森の木々が激しく揺れ、衝撃波が土を削り取った。

数秒後、後に残されたのは、不自然なほど静まり返った更地と、焦げた大気の匂いだけだった。


「は?」


カナの口から、間の抜けた声が漏れる。

自分の後ろで、いつも死んだ魚の目で「タイパ最悪」とぼやいていた男が、たった一撃で、世界を滅ぼしかねないSランクの群れを消滅させた。

その事実に、カナの脳内処理が完全にフリーズする。

コウタは深く息を吐き、蒼く光っていた瞳をいつもの無気力なものへと戻した。

そして、何事もなかったかのように、懐から一通の「完了報告書」を取り出す。

「……終わりっすよ。カナさん、これに依頼主の代わりのサイン、もらっていいっすか。あ、幽霊は書けないんで、俺らで代筆っすね」


「き、貴様……今の、何よ。何なのよ!! 魔法? それとも、私の覇気が貴様を通じて具現化した究極奥義的なサムシング!?」


「……あ、いっす。そういうことにしておいてください。説明するの、タイパ悪いんで」


コウタは淡々と、散らばった魔獣の素材の中から「証拠」となる牙だけを拾い上げ、バックパックに詰め込む。

カナは驚愕から一転、プルプルと震えながら、再びコウタの前に立ちはだかった。

その顔は、悔しさと、それ以上の「誇らしさ」でぐちゃぐちゃになっていた。


「にししし……! そう、そうでなくては! 私が選んだ唯一の家来が、ただの凡夫であるはずがないわ!! さすがは我が魂の半身、コウタよ!!」


カナは勢いよくコウタの首に腕を回し、その体重のすべてを預けてきた。

勝利の興奮と、安堵。

彼女の小さな体から伝わる熱量に、コウタは小さく肩をすくめる。

「……暑苦しいっすよ。もう深夜っす。早く街に戻って、高い宿に泊まりましょう。報酬はゴミですけど、俺の貯金でなんとかするんで」


「はっはっは! 良い心がけよ! 今夜は宴ね! 覇王と英雄の、輝かしき凱旋よ!!」


カナは空いた方の手で、コウタの右手をギュッと握りしめる。

連結された足と、繋がれた手。

コウタは「やっぱり割に合わない」と心の中で毒づきながらも、彼女の歩調に合わせて、静かな夜の森を歩き始めた。




翌日の冒険者ギルド。

受付カウンターには、山のように積み上げられたSランク魔獣の牙と、十年前のボロボロの依頼書が置かれていた。

「……信じられない。本当に、あの区域を平定してきたの……?」

受付嬢の手が震える。

本来なら数日分のパン代にしかならないはずの依頼だったが、ギルド規定により「緊急の魔獣間引き」としての特別報酬が上乗せされることになった。


「うーん……ほくほくっす。これだけあれば、しばらくは高いメシ食えるっすね」


コウタは渡された金貨の袋を軽く放り投げ、満足げに目を細めた。

だが、その隣では、朝からずっと沸騰寸前のヤカンのように顔を赤くしたカナが、彼の袖を激しく引っ張っている。


「コウタ! 説明してもらうわよ! 昨日のは何よ! 何なのよあの光! あの、世界を真っ白に塗りつぶすような暴力的な輝きは!!」


「あ、ああ……。あれは、よくある『あれ』っすよ」


「『あれ』って何よ!!」


「なんていうか……気、みたいな『あれ』っす。マンガとかによくあるやつ。修行しなくても、なんかたまに出るんすよ、ああいうの」


コウタは心底めんどくさそうに、視線を泳がせながら適当な言葉を並べた。

原理や魔力循環の法則を説明し始めたら、日が暮れる。

何より、自分の正体について深く追求されるのはタイパが悪すぎる。


「はあ!? そんなのあるわけないでしょ! 私だって覇道を志して長いけれど、そんな『マンガみたいな便利機能』、一度も見たことないわよ!!」


「うーん……あるんすよ。そういうことにしといてください。俺も原理とか知らないんで。たぶん、カナさんの覇気に当てられて、俺の中の何かがバグったんじゃないっすか?」


「……私の覇気に当てられて、バグった?」


カナの動きが止まる。

その短絡的な脳内で、コウタの言葉が「自分の影響で家来が覚醒した」という、最も都合の良いストーリーに変換されていくのが分かった。


「……にししし! なるほどね! 納得したわ! さすがは私の魔力、家来の潜在能力を無理やり引き出すほどの高出力だったということね!!」


「……あ、いっす。そういう理解で。じゃ、俺、昨日の戦闘で疲れたんで、もう一回寝ていいっすか」


「許す! 英雄には休息が必要よ!! さあ、私の部屋(隣の部屋)まで運んであげようじゃない!!」


「隣の部屋で寝かせてください……」

カナは再び満足げにプラスチックの王冠を直し、足が繋がれたままのコウタを引きずるようにして、ギルドを後にした。

真実よりも、自分の美学に都合の良い嘘。

それが二人にとっての、最も「効率的」な正解だった。




ギルドを出てすぐ、二人の前に一人の女が立ち塞がった。

背中に身の丈ほどもある大剣を背負い、鍛え上げられた肢体を軽装の鎧で包んだ、凛々しい女冒険者だ。


「ちょっと、そこの君。……そう、死んだ魚の目をした君だ」


「……俺っすか? 何っすか、道ならあっちっすよ」


コウタは面倒ごとに巻き込まれるのを察知し、カナの手を引いて通り過ぎようとした。

しかし、女冒険者はコウタの肩をがっしりと掴み、至近距離でその顔を覗き込んできた。


「昨日、裏山で見たよ。あの規格外の魔力……君、あんなクソザコな小娘の家来で終わる器じゃない。どうだい、私のパーティーに来ないか? 報酬も、装備も、君に相応しいものを約束するよ」


「…………は?」


コウタが反応するより早く、周囲の温度が急激に下がった。

隣で繋がれているカナが、見たこともないような冷ややかな無表情で、女冒険者の手首を掴んだのだ。


「おい。その汚い手を、私の『私有地』から離しなさい」


「……私有地? 面白いことを言うね、お嬢ちゃん。才能を腐らせるのは罪だよ」


「才能? 報酬? そんなものは関係ないわ!!」


カナは一歩前に出ると、コウタの腰にがっしりと腕を回し、まるで獲物を守る猛獣のように女冒険者を睨みつけた。

プラスチックの王冠が、怒りの魔力でパチパチと音を立てる。


「この男は、私がゴミ捨て場(自称)から拾い上げ、私の魂と契約の鎖で繋ぎ止めた、世界に一つだけの私の所有物よ!! 指一本、視線一つ触れることも許さないわ!!」


「カナさん、表現が完全に犯罪者っす……」


「うるさい! 貴様は黙って私に囲われていればいいのよ!! さあ聞いたわね! この男が欲しければ、まずはこの私を倒してからにしなさい!! もっとも、一秒で塵にしてあげるけれど!!」


カナは吠えた。

実力差など一目瞭然のはずなのに、その気迫だけはSランクを圧倒している。

女冒険者は、カナのあまりの剣幕と、その背後で「マジで勘弁してください」という顔で手を振るコウタを見て、苦笑いしながら肩をすくめた。


「……ふん。口の減らないお嬢ちゃんだ」

女冒険者が、呆れたように、けれど極めて正確な動作で手を動かした。

次の瞬間、カナの額に、女の指先が軽く「ぺしっ」と触れる。


「あぶっ……!?」


ただのデコピン

だが、歴戦の冒険者が放つその一撃は、カナの貧弱な防御を紙一重で貫通した。

カナは面白いように後ろへひっくり返り、コウタと繋がった足に引っ張られて、そのまま地面を無様に転がった。


「はぅ……っ! なんて……なんて凄まじい衝撃魔法……! 脳が、私の王者の記憶が、一瞬でシャットダウンしかけたわ……!!」


「……いや、カナさん。今のはただの『デコピン』っす。魔法ですらない、物理的なお叱りっすよ」


コウタはため息をつきながら、転がったカナの脇に手を入れて、荷物を持ち上げるように彼女を立たせた。

カナはプラスチックの王冠を斜めに歪ませ、涙目で女冒険者を指差す。


「お、覚えておきなさい! 今のは私がわざと受けたのよ! 貴様の攻撃パターンを、私の体内データベースに記録するためにね!!」


「はいはい、わかったから。……すみません、こいつこういう奴なんで。スカウトの件は、本当に結構っす。他を当たってください」


コウタが冷静に、かつ迅速に「お断り」を完遂すると、女冒険者は「……まあ、その主人の世話で手一杯みたいだね」と肩をすくめて去っていった。

嵐が去った後、カナはコウタのシャツをギュッと掴み、先ほどまでの勢いはどこへやら、震える声で呟いた。


「……コウタ。今の女、確実に私を塵にするつもりだったわ。恐ろしい刺客ね……。やはり、貴様のガードを二十四時間体制に強化しなければ……」


「だから、ただの冒険者だって言ってるじゃないっすか。ほら、もう宿に戻るっすよ。今日はもう疲れました」


「待ちなさい! まだ私の敗北は確定していないわ! 判定を……ビデオ判定を要求するわよ!!」


カナは虚空に向かって抗議の声を上げながら、コウタに引きずられていく。

令和の覇道。

それは、一秒で敗北するポンコツな王と、その無様な姿すらも「仕様」として受け入れ始めた家来の、あまりにも情けない凱旋だった。


「……はぁ。疲れたっす」

コウタは心底疲れ果て、自分の部屋のドアを開けた。

「ぺし」とやられて以来、ずっと廊下で「ビデオ判定よ!」と喚き散らしていたカナを、ようやく彼女の自室へ放り込んできたはずだった。

だが、暗い自室の照明をつけた瞬間。

コウタは、自分のベッドの上に堂々と鎮座している「それ」を見て、固まった。


「あれ……? なんで俺より早くいるんすか?」


「フン! あたしスピードは光を超えるのよ!! 覇道を行く者は、空間の歪みすらもショートカットして当然でしょうが!!」


カナはベッドの上で腕を組み、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。

つい数秒前まで、隣のドアの前で地団駄を踏んでいたはずの女が、窓も閉まったままのこの部屋に先回りしている。

物理法則という名のタイパが、音を立てて崩壊していく。


「……いや、意味わかんないっす。どうやって入ったんすか。鍵、俺が持ってるんすけど」


しゅうちゃくよ!! 愛はすべてを貫通するのよ!! さあ、敗北した私を慰めなさい! 膝枕でも腕枕でも、好きな方を選ばせてあげてもいいわよ!!」


カナは、水着の上に借りた上着を羽織っただけの格好で、ベッドをポンポンと叩く。

その瞳は、獲物を逃さない執念と、独占欲にギラついていた。

コウタは三秒間、無言で彼女を見つめた。

そして、感情を一切排した動作で、くるりと後ろを向いた。


「おやすみなさい」


「えっ」


バタン。


コウタは一言も発さず、そのままドアを閉めた。

ガチャリ、と鍵をかける音が静かな廊下に響く。


ドアの向こうから聞こえてくる「私の部屋に誰もいないのはおかしいでしょうが!」という絶叫。

そして、物理的にドアがミシミシと悲鳴を上げ始めた。

コウタは廊下で立ち尽くし、天井を仰いだ。

このままでは、宿の修繕費でせっかくのミノタウロス報酬が消える。

それは、彼にとって最も許容しがたい「タイパの損失」だった。


「……あ、いっす。分かりました。分かりましたから、ドアを壊すのはやめてください」


コウタは再び鍵を開け、無表情のまま部屋に入った。

ベッドで跳ねていたカナが、勝利の女神のような顔で立ち上がる。


「にししし! やはり私の引力には逆らえなかったようね! さあ、観念して私の隣で――」


「カナさんの部屋に行きましょう」


「え?」


「俺の部屋で騒がれると寝られないんで。カナさんの部屋なら、どれだけ暴れても俺は隣に帰ればいいだけっすから。……ほら、行くっすよ」


コウタはカナの手首を掴むと、そのまま彼女を自室から連れ出し、隣の「カナの部屋」へと押し込んだ。

予想外の展開に、カナは「あぅ……」と戸惑いの声を漏らす。


「な、なによ……。結局、私の部屋に来てくれるということかしら? それってつまり、私と二人きりで、その……『密着』したいという意思表示と受け取っていいのかしら!?」


カナは部屋のベッドに腰を下ろし、期待と不安が混ざったような目で見上げてくる。

コウタは部屋の椅子をベッドの脇に引き寄せ、そこにどっしりと腰を下ろした。


「看病ですよね? ここでカナさんが寝付くまで見ててあげるんで、早く寝てください。……寝たら俺は自分の部屋に戻るっすから」


「寝かさないわよ! 私が寝るまで、いや、寝た後も貴様は私の護衛としてここに留まる義務があるわ!!」


「はいはい。じゃあ、手を握ってればいいっすか。それなら逃げられないでしょ」


コウタは差し出されたカナの小さな手を、無造作に、けれど拒絶せずに握った。

カナは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げに、そしてどこか安堵したように「にしし……」と笑みをこぼした。


カナの部屋。

安宿の狭いシングルベッドに横たわったカナは、依然としてギラついた目でコウタを凝視していた。

手を握っただけでは、彼女の「所有欲」という名の燃料は尽きないらしい。


「コウタ! 足りないわ! 手を握るだけでは、私の受けた『ぺし』の精神的ダメージは癒えないわ!!」


「……注文多いっすね。これ以上何をしろって言うんすか」


「背中ポンポンしなさい! 王が安眠に就くための、最高級のタッピングを要求するわ!!」


カナは布団をバサバサと動かし、うつ伏せになって背中を差し出してきた。

プラスチックの王冠が枕に突き刺さり、なんとも情けない角度で傾いている。

コウタは大きく息を吐き、椅子の位置をベッドにさらに近づけた。


「……あ、いっす。やればいいんでしょ。ええ、今日はもう疲れました。これやってカナさんが寝てくれるなら、いくらでもポンポンするっすよ」


コウタの大きな掌が、カナの小さな背中に置かれる。

衣服越しに伝わる彼女の体温は驚くほど高く、その細い肩は、先ほどまでの強気な言葉とは裏腹に、かすかに震えているようにも見えた。

一定のリズムで、優しく、けれど機械的に背中を叩く。

ポン。ポン。ポン。


「……ふん。なによ、意外と筋がいいじゃない。……もっと、優しくても……いいわよ……」


「…………」


「コウタ……貴様、明日はどこへ……行くつもり……かしら……」


カナの声が、次第に掠れていく。

どれだけ虚勢を張っても、Sランクの森を駆け回り、知らない女に「ぺし」とやられ、彼女の小さなプライドと体力はとっくに限界を迎えていたのだ。

コウタは何も答えず、ただ無言でリズムを刻み続けた。

数分後、返ってくるのは規則正しい寝息だけになった。

月の光が差し込む部屋で、コウタは握られたままの自分の左手と、自分の膝に顔を埋めるようにして眠る王の姿を見つめる。

「……タイパ、最悪っす」

そう呟きながらも、コウタは彼女が目を覚まさないよう、夜が明けるまでそのリズムを止めることはなかった。


安宿の窓から差し込む無情な太陽の光が、カナのまぶたを叩いた。

彼女がゆっくりと目を開けると、そこにはパイプ椅子に座ったまま、ベッドの端に頭を預けて眠るコウタの姿があった。

その右手は、今もなおカナの背中に添えられたままである。


「…………っ!!」


カナの顔が、火を噴くように赤くなった。

昨夜の記憶が、濁流のように脳内に蘇る。

自分から甘えたこと。背中を叩かせたこと。そして、この無愛想な家来が、本当に一晩中それを続けていたということ。

彼女は勢いよく跳ね起き、まだ夢心地のコウタの肩を激しく揺さぶった。


「コウタ! 起きなさい! 大事件よ!! 貴様、一晩中私の背中を触っていたわね! 王の聖域をこれほど長時間蹂躙し続けるなんて……これはもう、実質的な求婚とみなすわ!!」


「…………え、あ、いっす……」


コウタは焦点の合わない目で顔を上げた。

目の下には、一晩中「ポンポン」のリズムを刻み続けた者特有の、深い隈が刻まれている。

彼は震える手で眼鏡を直すと、消え入るような声で呟いた。


「カナさん……今日は、休ませてください……。マジでもう、限界……みぃっす……」


「み、みぃっす!? なによその可愛い語尾は! 貴様、私を油断させてまたしても既成事実を積み上げるつもりね!!」


「いや、ただの滑舌の限界っす。……寝かせてください……」


コウタはそのまま、カナの足元に力なく崩れ落ちた。

一晩中、Sランク魔獣との戦いよりも過酷な「寝かしつけミッション」を完遂した英雄の、あまりにも無様な敗北。

しかし、カナはその姿を見下ろし、腰に手を当てて「にししし!」と高らかに笑った。


「いいわ! 貴様の誠意は十分に伝わったわよ! 今日は特別に、私の膝で眠る栄誉を授けてあげようじゃない!!」


「……それ、さらに疲れるんで。……勘弁して、ください……」


令和の覇道。

それは、どれだけ逃げても、どれだけ効率を求めても、最後には王の「歪んだ愛」に飲み込まれてしまう、一人の男の受難の記録。

二人の足に繋がれた鎖は、今日もまだ、外れる気配を見せなかった。


読んでくれてありがとう。作者はまだ脳がショートしてます。

ここでポイント・コメント・お気に入りを押すと、作者の脳みそに微量の安定剤が注入されます。

未入力だと、次回作も意味不明な文章になる呪いが発動します。

ちなみに今日の飯はカップラーメンで済ませました。

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