表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

3

乙女心はクソザコの極み

 

翌朝。

安宿の固いベッドの上で、コウタは絶望とともに目を覚ました。

昨夜の「罰」という名のキス。

それによって強化された契約魔法は、予想を遥かに超える執念深さを見せていた。

少し寝返りを打とうとするだけで、隣に眠るカナの体温と鼓動が、まるで自分の一部であるかのように脳を直接揺さぶってくる。


「あ、おはようございます。カナさん。そろそろ離れてもらっていいっすか。トイレ行きたいんで」


コウタが声をかけると、カナはゆっくりと目を開けた。

そして開口一番、彼女は信じられないものを見るような目でコウタを凝視し、そのまま布団を跳ね除けて立ち上がった。

もちろん、コウタも鎖に引きずられるようにして上半身を起こす羽目になる。


「なああああ! なんだコウタ! 貴様、一晩中私の隣にいて、この私に手を、手を出さぬとはどういう了見よ!!」


「はあ!?」


「変態! 軟弱者! チキン野郎! 貴様の股間に付いているのは飾りかしら!? それとも、私の覇気があまりにも神々しすぎて、直視すらできなかったということかしら!!」


カナは仁王立ちで、赤くなった顔を隠しもせずに怒鳴り散らす。

プラスチックの王冠が、怒りの振動で小刻みに震えている。

コウタはこめかみを押さえ、至極真っ当な正論を、温度の低い声で投げ返した。

 

「いや。カナさん、手を出してほしかったんすか? 俺たち、出会ってまだ二日目っすよ。常識的に考えて、まだ名前の漢字すら怪しいレベルじゃないっすか」


「はぅっ! なんて、的確な攻撃! 私じゃなかったら、今の一撃で再起不能リタイアしてたわ!」


カナは胸を押さえてベッドに膝をついた。

だが、すぐに顔を上げ、涙目でコウタを指差す。


「手は出してほしかった! でも大事にもされたい! 私は非常に、非っ常に難しい乙女心なんじゃい!! 貴様のような効率厨には分からないかもしれないけれど、王とは常に矛盾を抱えて生きる孤独な生き物なのよ!!」


「さすがっす。今のその、自分の欲求に正直すぎる開き直り、勉強になります」

 

コウタは悟った。

この女に常識や順序を説くのは、タイパが悪すぎる。

彼は淡々と、それでいて確実なトドメを刺すように頷いた。

 

「分かりました。そこまで言うなら、次からは遠慮なく手を出しますね」


「いや! なんか今の言い方ムカつくから、私が『良い』って思うまで無し! 貴様はもっと徳を積んで、私を満足させる方法を精進せい!!」


「ははぁ。仰せの通りに、カナ様」

 

コウタは形式上の敬礼をしてみせた。

結局、振り回されているだけなのだが、そう答えるとカナは満足げに「にししし!」と笑い、再びコウタの腕に抱きついた。

契約の鎖は、今朝も重く、熱い。

「で。カナさん。手は出さないっすけど、トイレは一緒に行くことになるんすか、これ」


「当然よ! 覇道の同行者として、これ以上の名誉があるかしら!!」


令和の冒険。

その朝は、一歩も離れられない二人の、不毛で騒がしい口論から始まった。


宿の廊下、共同トイレの扉の前。

コウタは絶望の淵にいた。

手首に食い込む不可視の鎖。

それが、自分とカナの距離を「一メートル」以上離すことを断固として許さない。


「カナさん。さすがに、これは無理っす。人類の尊厳に関わるっていうか、コンプラ以前の問題っす」


「何を弱気な。覇王の家来たるもの、主人の排泄を警護するくらいの気概を持ちなさい! さあ、中へ入るわよ!!」


「入らないっすよ! 誰が警護するんすか、個室の中で!!」


コウタが必死に扉の枠を掴んで踏ん張った、その時。

カナが面倒臭そうに鼻を鳴らし、自分の手首に巻かれた紋章を軽く叩いた。


「フン」


刹那、コウタの全身を縛り上げていた重圧が、嘘のように霧散した。

肌に焼き付いていた熱が消え、数日ぶりに「自分だけの体」が戻ってきた感覚。

コウタは驚愕し、自分の自由になった手首をさすりながら、隣で得意げに胸を張るカナを凝視した。


「えっこれ、解けるんすか?」


「当たり前! 我の魔法だぞ! 縛るも解くも、私の思いのままに決まっているわよ! はっはっは!!」


「じゃあ、なんで昨日あんなに必死に『解こうとするな』とか『一心同体』とかキレたんすか。最初からそうやって、必要な時だけ解けばよかったじゃないっすか」


コウタの声が、一段と冷たく低くなる。

昨夜のあの、唇を重ねてまで拘束を強めた「儀式」は何だったのか。

あの時の、カナの必死な、どこか縋るような瞳は何だったのか。

カナは一瞬、図星を突かれたように「あぅ」と声を漏らし、視線を激しく彷徨わせた。

だが、すぐにプラスチックの王冠をガタガタと震わせ、逆ギレの咆哮を上げる。


「う、うるさいうるさい! 私が解くのはいいけれど、貴様が勝手に解こうとするのは大罪なのよ! それに、これはあくまで『緊急避難的措置』よ! 用が済んだら、また一秒で縛り上げてやるから覚悟しなさい!!」


「あ、いっす。もういいっす。とりあえず、一人で行かせてください」


「ふん! 早くしなさい! 寂しくて死んでしまっても、私は一切関知しないからね!!」


カナはぷいっと横を向き、壁のシミを数え始めた。

その頬が、朝日のせいではない赤みに染まっているのを、コウタは見逃さなかった。

だが、彼は何も言わずに個室の扉を閉める。

一瞬の自由。

だが、扉の向こう側から聞こえてくるカナの「まだかしら」「遅いわね」という、落ち着かない足音。

コウタは、かつてあんなに望んでいた「一人きり」の時間が、なぜかひどく静かすぎて、少しだけ物足りないことに気づいてしまう。

「あの女、やっぱりバグってるっす」

そう呟きながらも、コウタは自分から、またあの鎖に縛られにいく未来を、どこかで受け入れていた。


個室の扉を開けた瞬間だった。

「一秒で縛り上げてやる」というカナの宣言は、嘘ではなかった。

目の前に立つカナが、獲物を狙う猛禽類のような鋭い眼光で、再び手首の紋章に触れる。


「再連結! 覇道の絆よ、より強固に、より不可逆なる鎖となって、この迷える家来を繋ぎ止めなさい!!」


「うおっ!?」

凄まじい衝撃がコウタの全身を走る。

だが、今度の感覚は、今までのものとは明らかに違っていた。

手首の拘束感に加え、なぜか右足の自由が、物理的に奪われている。

コウタが足元に目を落とすと、そこには不可視の魔力によって、自分の右足とカナの左足が、寸分の隙もなくピタリと接着されていた。


「ハッハッハ! 間違えて足までつけちゃった!! 嬉しいわよね、コウタ!!」


「嬉しいわけないでしょ! カナさん、これ、ただの二人三脚じゃないっすか! 歩きにくさの極みっすよ!!」


「何を言うの! これぞまさに『一心同体』の物理的証明よ! さあ、私のリズムに合わせなさい。行くわよ、一、二! 一、二!!」


カナは強引に左足を踏み出した。

接着されたコウタの右足が、無理やり後を追わされる。

バランスを崩したコウタは、思わずカナの肩を掴んで踏ん張った。

至近距離で、彼女の勝ち誇ったような、それでいてどこか楽しげな体温が伝わってくる。

「ちょ、待ってください。せめて掛け声くらい合わせないとっ」


「はっはっは! 王に合わせるのが家来の務めよ!! ほら、ギルドへの道は、この覇道のパレードによって浄化されるわ!!」


宿の廊下を、ドスンドスンと不器用な足音を立てて進む男女。

端から見れば、あまりにも距離感がバグった、あるいは歩き方を忘れた奇行種にしか見えない。

宿の主人が、廊下の向こうから引きつった笑いを浮かべてこちらを見ている。

「カナさん。宿のおじさんが『あいつら、朝から何を』って顔で見てるっす。死ぬほど恥ずかしいんすけど」


「気にするな! 凡人の理解を超えてこその王よ! さあ、街の者たちにも、この『連結された栄誉』を拝ませてあげようじゃない!!」


カナは恥じらうどころか、ますます胸を張り、プラスチックの王冠を誇らしげに揺らしながら宿を飛び出した。

コウタは顔を半分、搾取された上着の襟に埋めながら、彼女の無茶苦茶な歩調に合わせて必死に足を動かす。

令和の覇道。

それは、一歩進むごとに尊厳が削られ、けれど強制的に密着させられた二人の、あまりにも不自由で騒がしい「二人三脚」だった。

 

ドスン、ガシャン。

不規則で重々しい足音が、朝の冒険者ギルドに響き渡った。

入口の自動ドアを、肩をぶつけ合いながら無理やり通り抜けてきたのは、完全に「密着」した男女だ。

カナの左足とコウタの右足が物理法則を無視して接着されており、二人は一歩進むたびに大きく揺れ、互いの体を支え合うようにしてカウンターへ向かう。


「はっはっは! 見なさいコウタ、民衆の目が私たちに釘付けよ! この革新的なフォーメーションに、誰もが畏怖を抱いているわ!!」


「いや、カナさん。あれは畏怖じゃなくて、単にヤバいものを見る目っす。ほら、あそこのベテラン冒険者が『最近の若者は特殊な訓練でもしてるのか?』って顔で戦慄してるじゃないっすか」


コウタは顔を伏せ、なるべく誰とも目を合わせないように努める。

だが、カナは止まらない。

二人は転びそうになりながら掲示板の前に辿り着いた。

カナは、昨日受付嬢に一蹴された「ミノタウロス討伐」の依頼書を、再びビシッと指差す。


「昨日も言ったけれど、令和の覇道にはミノタウロスこそが相応しいわ! 見なさいコウタ、この依頼書私に剥がされるのを待って、小刻みに震えているわよ!!」


「それ、俺の足の震えが伝わってるだけっす。てか、その足のまま戦うつもりなんすか? ミノタウロスの斧を二人三脚で避けるとか、タイパどころか生存率がゼロっすよ」


「何を弱気な! 二人の力を合わせれば、足は二倍、手は四倍! 圧倒的な手数で牛を蹂躙できるではないの!!」


「計算合ってるようで、致命的に間違ってるんすよね。あ、受付のお姉さん、目が笑ってないっすよ」

カウンター越しに、昨日と同じ受付嬢が、引きつった笑顔でこちらを見つめていた。

彼女の視線は、ガッチリと接着された二人の足元に固定されている。


「あのお二人。本日はまた、一段とその独創的な装備(?)ですね。ですが、ギルドの規定で『公序良俗に反する、または明らかに戦闘に支障が出る状態』での受注は」


「なっ、公序良俗!? 失礼ね! これは魂の契約による神聖な連結よ!!」


カナが憤慨して身を乗り出すと、接着されたコウタの体も前方にガクンと持っていかれる。

コウタは慌てて彼女の腰を掴んでバランスを取り、結果としてさらに密着度が増した。

「あ、いっす。すみません、これ、ただの『一蓮托生』の呪いみたいなもんなんで。カナさん、これマジで解かないと、ミノタウロスに踏み潰されて終わるっすよ」


「フン、貴様がそこまで言うなら実力を見せてから解いてあげようじゃない! さあ、受付嬢! その依頼書を渡しなさい! 私とコウタの『二人一役』の実力、その目に焼き付けるがいいわ!!」


カナは強引に依頼書を奪い取り、勝利のポーズを決める。

その横で、コウタは自分の将来への不安と、意外と悪くないカナの体温に、複雑な溜め息を吐き出すのだった。


ミノタウロスの生息地へと続く、静かな林道。

相変わらず「二人三脚」状態で、ドスンドスンと不恰好に進む二人の影が伸びていた。

ふと、コウタが前を向いたまま、ボソリと核心を突く問いを投げかけた。

 

「てか、カナさん。一つ聞きたいんすけど」


「なにかしら! 私の歩き方の美しさに、今さら見惚れてしまったのかしら!?」


「いや、距離感バグり散らかしてるのはもういいんすけど。初対面の俺と、なんでこんな距離感ゼロなんすか? 普通、もっとこう警戒とか、段階とかあるじゃないっすか」


コウタの声は淡々としていたが、そこには確かな疑問があった。

いくら「覇道」だの「家来」だの言っても、出会って二日の男に、ここまで全方位で自分を投げ出し、物理的にも魂的にも密着してくるのは、異常だ。

カナの足が、ピタリと止まった。

不自然な沈黙が流れる。

カナは視線を泳がせ、プラスチックの王冠を震わせた後、フイッと顔を背けた。


「貴様、自惚れるのも大概になさい。私が距離を詰めているのではないわ。貴様が、私の重力圏から逃げられないほど微力な存在なだけよ」


「それ、答えになってないっす。俺を縛るのだって、他の奴でも良かったはずですよね」


「よくないわよ!!」


カナが、弾かれたように叫んだ。

振り返った彼女の顔は、怒っているようでもあり、今にも泣き出しそうでもあった。


「他の誰でもなんて、そんなわけないじゃない。私のこのわけのわからない覇道ハナシを、笑わずに、呆れながらでも最後まで聞いたのは、貴様が初めてだったのよ!!」


カナの手が、繋がれたコウタの腕を、痛いくらいに強く握りしめる。


「みんな、私のことを『クレイジーなクソザコ』だと笑って通り過ぎるわ。でも貴様は、タイパが悪いと言いながらも、私の隣で歩みを止めなかった。そんな男、もう一生手放せるわけないじゃない!!」


一気に捲し立てたカナは、ハッと我に返ったように口を塞いだ。

そして、耳まで真っ赤にして、連結された足を引きずるようにして無理やり歩き出す。


「今の、今の無しよ!! 忘却魔法そんなものはないをかけるわよ!! とにかく、私が貴様を選んだの! それが世界の理なの! 文句があるなら、ミノタウロスを素手で倒してから言いなさい!!」


「あ、いっす。もう聞かなきゃよかったっす。熱量が重すぎるんすよ、カナ様」

コウタはため息をつきながらも、握られた腕から伝わる、彼女の震えるような「本気」を振り払うことはしなかった。

距離感ゼロの理由は、あまりにも単純で、あまりにも重い「孤独の反動」だった。

 

「まあ。そんなに言うなら、ミノタウロスくらいは、ちゃんと倒してやるっすよ」

 

森の奥から、地響きとともに巨大な影が現れた。

ミノタウロス。

その巨躯は二メートルを優に超え、手にした巨大な戦斧は、一振りで岩をも粉砕する破壊力を秘めている。


「出たわね、牛! 貴様のその立派な角、私の玉座の装飾品にしてあげるわ!!」


カナは勇ましく錆びた短剣を抜いた。

だが、致命的な問題があった。

二人の足は、依然としてガッチリと「二人三脚」状態で接着されたままである。


「ちょ、カナさん! さすがにこれ、解かないと死ぬっすよ! ほら、牛がこっち見てる!!」


「うるさいわね! 覇王の辞書に『解散』の二文字はないわ! 二人で一つ、一蓮托生のアルティメット・フォームで挑むわよ!!」


ミノタウロスが咆哮し、突進してくる。

時速五十キロは出ていそうな巨塊。

普通なら左右に別れて回避するところだが、二人の足は離れない。


「右! 右に飛ぶっすよカナさん!!」


「左よ! 王は常に左遷じゃなくて、左を制するのよ!!」


「反対じゃい!!」


衝突の寸前、コウタは無理やりカナの腰を抱き寄せ、右足ごと彼女の体を宙に浮かせた。

超人的な脚力による、強引な跳躍。

二人のすぐ下を、猛牛の巨体が暴風とともに通り過ぎていく。


「ひ、ひぃ! 今、鼻息で私の王冠が飛ぶところだったわ!!」


「だから言ったじゃないっすか! 俺が動く方に合わせてください、死ぬっすよ!!」


「分かったわよ! 貴様に私の命を預けてあげるわ! 感謝しなさい、コウタ!!」


ミノタウロスが再び斧を振り上げ、横薙ぎの一撃を繰り出す。

コウタは冷静に敵の動きを見切った。

カナを抱えたまま、残された左足一本で独楽こまのように回転し、斧の軌道を紙一重でかわす。

そのまま、コウタはカナの背中を押し出すようにして叫んだ。


「今っす、カナさん! 突き、一発!!」


「言われなくても!! 必殺・銀河貫通ギャラクシー・バースト・ショート・ソード!!」


コウタの回転によって加速されたカナが、弾丸のような勢いでミノタウロスの懐に飛び込む。

錆びた短剣が、牛の胸元に鋭く突き刺さった。

もちろん、そんななまくら刀で倒せる相手ではない。

だが、その瞬間、二人の手を繋ぐ契約の鎖が共鳴し、コウタの魔力がカナの刃に流れ込んだ。


「うおおおおお!? 剣が、光ってるわ! 私の覇気が具現化したのね!!」


「俺の魔力っすよ! 早く押し込んで!!」


青白い閃光が弾け、ミノタウロスの巨体が轟音とともに背後へ吹き飛んだ。

砂埃が舞う中、二人はもつれ合うようにして地面に転がり、ようやく止まった。


「はぁ、はぁ。死ぬかと思ったっす。マジでタイパ悪すぎ」


「にししし! 見たかしらコウタ。これが私たちの、愛の共同作業よ!!」


「愛とか、そういうのいいんで。早く、足を。足を解いてください、カナ様」

泥だらけになったカナは、コウタの胸板に顔を埋めたまま、満足げに目を細めた。


砂埃が舞い、ミノタウロスが膝をつく。

カナは泥にまみれながらも、勝ち誇った笑みを浮かべてコウタの肩を叩いた。


「ハッハッハ! コウタ、あんたなかなかやるじゃない! 私が見込んだ通りね!!」


「それ、俺がカナさんを抱えて振り回してただけっすよ。カナさん、ただの遠心力の塊になってたじゃないっすか」


コウタは荒い息を整えながらも、視線は倒れ伏した巨獣から逸らさない。

カナは「にししし!」と無邪気に笑い、勝利の余韻に浸ろうとした。

だが、その瞬間。

ミノタウロスの指先が、痙攣するように動いた。

絶命したかに見えた怪物が、その巨大な斧を再び握り直し、死に物狂いの一撃を放とうと筋肉を膨張させる。

「あ」

カナが呆然と目を見開く。

その時、コウタが動いた。


「なにをなにするのよ、コウタ!」


コウタは無言でカナの腰を引き寄せ、軽々とその細い体を横抱きにした。

いわゆるお姫様抱っこの形だが、甘い雰囲気は微塵もない。

コウタはカナの重みを軸にして、接着された足の遠心力を最大効率で利用し、鋭い旋回を見せた。


「油断大敵っす」


冷徹な一言。

コウタは自由な左足の蹴りで、カナが突き立てたままにしていた短剣の柄を、真上から踏み抜いた。

コウタの超人的な脚力と、カナを抱えたことによる加重。

その全てが一点に集中し、短剣はミノタウロスの急所を完全に貫通させた。

断末魔の叫びすら上げられず、今度こそ巨獣の命の灯火が消える。


「終わったの?」


コウタの腕の中で、カナが呆然と呟く。

至近距離で見上げるコウタの横顔は、いつもの「死んだ魚の目」ではなく、獲物を仕留めた狩人の鋭さを一瞬だけ宿していた。


「ええ。これで終わりっす。重いんで、もう降ろしていいっすか、カナ様」


「っ! 貴様、今の、わざとやったでしょう! 私を抱きかかえるための口実として、今のトドメを利用したのでしょう!!」


「いや、普通に危なかっただけなんすけど。てか、顔赤いっすよ」


「うるさいうるさい! 砂埃のせいよ!! 早く、早く地面に降ろしなさい! 王を抱きかかえるなんて、不敬の極みよ!!」


カナはバタバタと足を動かしたが、鎖が繋がっているせいで、結局コウタの胸板を蹴り飛ばす形になった。

コウタは「痛いっす」と無表情に呟き、不器用に彼女を地面に下ろした。


ミノタウロスの角を抱えて辿り着いた、夕暮れの川辺。

血と獣臭に耐えかねたカナは、川面に辿り着くや否や、上着のボタンに手をかけた。


「浄化よ! 宇宙の真理(全裸)となって、この穢れを洗い流すわ!! 魂の共鳴しているお前ならば問題――」


「待て待て待て待て!! 落ち着いてくださいカナさん!!」


コウタは音速の反応で、自分のバックパックから「布の塊」を引っ張り出した。

カナがすべてをさらけ出すコンマ一秒前、その布を無理やり彼女の胸元に押し付ける。


「これ、着てください。さすがに全裸は18禁っていうか、俺の理性がログアウトするんで。これなら水に入っても大丈夫っすから」


コウタが差し出したのは、昨日ギルドの購買で「もしも」のために買っておいた、シンプルな黒の水着だった。

カナは押し付けられた布を不思議そうに眺め、それからニヤリと、何かを確信したような不敵な笑みを浮かべた。


「にししし! さすが我が魂! 私が『より動きやすく、かつ覇道に相応しい戦闘衣』を欲していることを見抜くとは、理解が早いわね、コウタ!!」


「いや、単に露出を抑えてほしいだけなんすけど。いいから、岩陰で着替えてきてください」


数分後。

岩陰から現れたカナは、水着姿にプラスチックの王冠という、シュール極まりない出で立ちで川へ飛び込んだ。

バシャーン! と豪快に飛沫が上がる。


「見てなさいコウタ! 水の精霊たちが、新調した私の法衣に跪いているわ!! これぞまさに、世界の洗濯よ!!」


「ただの水遊びにしか見えないっす。あと、その格好で王冠被ってるの、世界でカナさんだけっすよ」


コウタはため息をつきながら、自分もシャツを脱ぎ、川岸で血に汚れた服を洗い始める。

水着を着たことで少しは落ち着くかと思ったが、濡れて肌に張り付いた布地は、隠しているはずの彼女の肢体を、かえって生々しく強調していた。

コウタは努めて視線を川下に向け、石を磨くように服をごしごしと擦る。


「コウタ! 何をぼーっとしているの! 貴様も入りなさい! 覇王と水辺で戯れる栄誉を、特別に無償で授けてあげようじゃない!!」


「あ、いっす。俺はここで洗濯に専念するんで。カナさん、風邪引く前に上がってくださいね」


夕日に照らされた川面で、無邪気に水を跳ね上げるカナ。

その姿を見ながら、コウタは思う。

水着一枚用意したところで、この「歪んだ日常」の暴走を止められるわけではないのだと。




宿に戻る道すがら、夕闇に溶けるカナの機嫌は最高潮だった。

ミノタウロスの角という戦利品を手にし、川で身を清め、そして何よりコウタという「理解の早い家来」を完全に手なずけたという自負。

ボロ宿の廊下、二人の部屋の前に辿り着いたところで、カナは立ち止まり、不敵に、そしてどこか期待に満ちた瞳でコウタを見上げた。


「コウタ、今日一日の働き、実に見事だったわ。特別よ。昨日の無礼を免じて、今日は、手を、だしてもいいわよ!!」


カナは耳まで赤くしながらも、ふんぞり返って言い放った。

「覇王の慈悲よ」と言わんばかりの表情だが、その指先は落ち着きなく自分の上着の裾をいじっている。

だが、コウタは動じなかった。

彼は無表情にバックパックから「二つ目の鍵」を取り出し、指先で回してみせた。


「いやーコンプラ違反になるんで。実は、隣の部屋も借りたっす」


「は?」


「カナさん、寝相悪いじゃないっすか。それに鎖も今は解けてるし、別々に寝たほうがタイパいいっす。じゃ、俺はこっちなんで」


コウタは流れるような動作で隣の部屋のドアを開けた。

あまりにも完璧な、あまりにも隙のないリスク管理。

カナは口を金魚のようにパクパクとさせ、数秒の硬直の後、廊下全体が震えるような咆哮を上げた。


「くっ! 有能か! おまえは!! なぜこんな時だけ、気が利くどころか先回りして完璧な防御陣を敷いているのよ!!」


「さすがっすか? ありがとうございます。じゃ、おやすみっす。カナ様」


「おやすみじゃないわよ! 戻ってきなさい! このこの、有能すぎる無能!! チキン! 令和の絶滅危惧種!!」


バタン、と無慈悲に閉まるコウタの部屋のドア。

カナは廊下で一人、振り上げた拳の行き場を失い、プラスチックの王冠を床に叩きつけんばかりの勢いで地団駄を踏んだ。

だが、コウタが閉めたドアの向こう側。

彼は壁に背中を預け、バクバクと五月蝿い自分の心臓の音を聴いていた。

「あ、ぶな。まともに相手してたら、今度こそ人生が詰んでたっす」

壁一枚隔てた向こうから聞こえる、カナの「明日こそは地獄の果てまで繋いでやるから!」という叫び声。

令和の覇道。

それは、猪突猛進な王の誘惑を、鋼の理屈と準備でかわし続ける、家来の終わりのない防衛戦だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ