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婚約破棄を告げられたら、王子がトイプードルに見えてきた

作者: 夏生 羽都

 それは学園での昼休み、婚約者であるリュンベック第三王子にカフェテラスへ急に呼び出された事から始まった。


「ミレーヌ・サティ、僕はキミと婚約破棄をしたい」


 お茶が出てくるよりも早く、席に座ってすぐにリュンベック様は私にそう告げた。


 明るい茶色の巻き毛のリュンベック様の隣には、ウエーブのかかったミルクティ色の髪をしたマノン・デュゲ男爵令嬢が座っている。


 二人の共通点はクセ毛なのね、と二人を見比べた私はそんな事を考えていた。


 学園のカフェなので個室なんてものはなく、オープンスペースで重大な事を告げてくる婚約者に私はあきれてしまった。


 たまたまこの場に居合わせた生徒たちがチラチラとこちらを見ている。


 私たちは格好の晒し物となっていた。


 言われた内容よりも、このような場を選んだ彼に対して怒りを感じていたけれど、侯爵令嬢というプライドが私の怒りの感情を全て笑顔で包んで隠した。


「理由をお伺いしても?」


 仲良く並んでいる二人の正面に座った私は、にこやかに尋ねてみる。


「キミはここにいるマノンをこれまで散々いじめてきただろう。そんな女と僕は結婚をしたくないからだ!」


 これまで私がいじめてきたというマノンさん。遠くからお見かけはしておりましたが、本日初めてお会い致しました。


「リュー様っ、私の事はいいのです。……ただ私はリュー様の婚約者様があのようなひどい方である事が放っておけなくてっ、うううっ」


 そう言ってマノン嬢は泣き真似をし出す。周囲の生徒たちが遠くから生温かい目で見ているのがひしひしと感じられる。


「デュゲ様とお話をするのはこれが初めてかと思いますが」


 このマノン・デュゲは婚約者のいる男子生徒に近づいて仲を壊す事で有名だった。


 こんな女にひっかかるなんて、自分は馬鹿だと大声で言っているようなものなのに、よりによって自分の婚約者がそうなるなんて恥ずかし過ぎる。


 いちいち相手をするのも面倒だし、こんな婚約者は捨ててしまいたい。


 しかし、そう出来ない事情が私の方にはあった。


 このリュンベック王子、歳の離れた末っ子という事もあって王妃様や兄王子たちのお気に入りの王子なのだ。


 巻き毛で黒眼の大きな王子は子供の頃は可愛かった。


 いつも私の後を走って追いかけようとする愛らしい姿は、王宮の侍女たちの胸をキュンキュンとさせていたし、ボール遊びが大好きだった当時の彼は二歳年上の私や、さらに年上の兄王子たちにボール遊びをしてとよくせがんでいた。


 彼の婚約者候補として、小さな頃から彼と交流をしていた私はよくリュンベック様の手を引いて王宮の庭の散歩をしていた。姉のような私に手を引かれてトコトコと歩く彼は可愛らしく、彼自身もご機嫌そうによく笑っていた。


 いつも期待に満ちたキラキラとした表情で遊んで欲しいと言われると、私は彼からのお願いは大抵断れなかった。


 何故だろう、彼の顔を見ているとついつい甘やかしたくなってしまうのだ。それは王妃様や兄王子様たちも同じなのかもしれない。つまり彼は甘え上手な末っ子なのだ。


 そんな王子だからか、小さな頃から王妃様や王子様方の愛情の深さが人並み以上である事は、幼い頃からの婚約者である私はよく知っていた。


 我が侯爵家は私しか子供がいない上に、家を継いで女侯爵となるのは私なので、このちょっと足りない第三王子殿下が臣籍降下するにはちょうど良い婿入り先で、この国で私ほどの優良な物件は他に無かった。


 つまり、我が家は彼を無事に婿入りさせないと、王妃様や将来の国王陛下になられる王太子殿下と第二王子殿下を敵に回してしまう可能性があるのだった。


 リュンベック様とはあのまま一緒に成長が出来れば良かったのだけれど、将来女侯爵として立たねばならない私には学ぶべき事が多かった。


 彼から送られる手紙への返事は書いていたが、勉強が進むにつれて彼からの手紙に書いてあった“会いたい、一緒に遊びたい”というお願いを叶えてあげる事が年を追うごとに難しくなっていったのだった。


 そしていつの間にか彼からの手紙は届かなくなってしまった。


 彼が私より二年遅れて学園へ入学する歳になると、婚約者候補から婚約者へと格上げされた私は、彼と学園で再会した。


 久し振りに会った彼は昔の面影を僅かに残すばかりで、小さい頃のように私の元へはもう来てくれなくなってしまい、私の前ではいつもスンとした表情をするようになってしまった。


 学園で会っても挨拶を交わすだけの関係になってはいた。しかし昔はあれだけ仲が良かったのだし、結婚する事は決まっている事だから何とかなるだろうと楽観的に考えて放っておいたら、いつの間にかリュンベック様はマノン・デュゲというカップルクラッシャーを側に置くようになったのだった。


 彼と人生を歩むのは決定事項だが、さすがの私も愛人は許容範囲外だった。ましてこんな嘘つき女を私が働いたお金で養うなんてご免被りたい。


 実は私には前世に日本で生きていた記憶があった。


 前世の記憶といってもはっきり覚えているものではなく、この世界とは違う世界で生きていたという記憶が幼い頃から断片的にうっすらとある程度なので、ミレーヌ・サティとして生まれた私に大きな影響を与えるほどのものではなかった。


 ここが前世で生きていた日本だったら家裁にでも訴えてやるところなのだが、生憎この世界にはそんな便利な機関は存在していない。


 完全な法治国家でもないこの国の法律なんていい加減なもので、簡単に言ってしまうと権力者が白いと言えば黒い物も白くなってしまう、そんな世界だった。


 目の前で涙も流さずにシクシクと泣くフリをし続けるだけのマノン嬢の、ボロを出さない為に余計な事を言わないというころは賢いと思う。いや、ずる賢いと言うべきか。リュンベック様の表情はどんどん険しくなっていくので、泣き落とし作戦は8割方成功したと言えるだろう。


 周りには生徒しかいなかった。私の見える範囲で一番地位が高いのがリュンベック様で、その次は私。助けてくれそうな存在がいない中、これは四面楚歌だと思ったが、ここで負けてしまったら将来的にこのマノン嬢まで養わないといけなくなる可能性が出てくる。


 それだけは絶対に嫌、とにかくどんな手を使ってでもマノン嬢だけは撃退しないといけない。


 その時ふと私は思ったのだった。


―――ここで私も泣き落としをしたらどうなるのだろう?


 泣き落としに対して泣き落としで対抗するのは悪手のようにも思うだろうが、マノン嬢の泣き真似は下手だった。だって涙が出ていない。これなら本物の涙を流せれば勝てる、私はそう確信した。


 玉ねぎもメン●レータムリップも持っていない今の私が頼れるのは己の記憶のみ!


 私は自分の中にある過去の記憶をしらみつぶしに当たって泣ける思い出を探した。


 姉のように慕っていた侍女が辞めてしまった事。


(マリーは裕福な商人のところへお嫁に行ったのよね。この間は子供も生まれて幸せだって手紙が届いていたわ)


 私を可愛がってくれた曾祖母との死別。ちなみに祖母は今も健在だ。


(おばあちゃんは老衰だった。孫やひ孫に囲まれて無事に天寿を全うしたと思うと泣けない)


 婚約者の浮気。


(幼い頃にちょっと仲良く遊んだだけの、大して思い入れの無い婚約者だから、泣くよりも怒りの感情の方が大きいわ)


 こうして思い返すと今の私であるミレーヌ・サティは平和で幸せな人生を送っていると思う。


 この幸せな人生を壊さない為には、何が何でも何とかしないといけない。


 今世の記憶だけでは足りないと思った私は、うすらぼんやりとしていた前世の記憶も総動員して、必死に泣ける思い出を探した。


(前世での私は社会人になる前にあっけなく人生が終わったみたいだから、大した人生経験もしていないし、あっちの人生はふわふわと生きていたみたいだし、辛い事より楽しい事の方が多かったのよね。でもそんな私だって、失恋のひとつやふたつくらいして泣いた過去があったかもしれない)


 私はさらに自分の記憶を掘り下げていった。


 きっとどこかにあるはず、私の泣ける思い出が……。


 会社務めの父にパートタイマーの母、学童は好きじゃなかったから学年が上がると、母にお願いして放課後は家で留守番をしていたわ。


 それで母はひとりで留守番は寂しいからって犬を飼ってくれたっけ。


 私のかわいいトイプードル。名前は確か……


「……ベック」


 私は思わず愛犬であったトイプードルの名前を呟いていた。


 その途端、私の中でそれまで眠っていたベックとのたくさんの思い出が溢れ出してきたのだった。


 譲渡会で出会った時、ゲージの向こうでしっぽを振りながらキラキラした瞳で嬉しそう私を見つめてくるベックを見た私は“この子が欲しい!”ってお母さんにお願いしたんだっけ。


 ウチにお迎えをした日、怖がりなベックは初めての家に怯えてなかなかゲージから出てくれなかった。私はドックフードの入ったお皿を手に、ベックに外に出てきてって一生けん命お願いをしたんだった。


 飼い始めの頃にベックが私の食べているものをよく欲しがるからお菓子をあげたら、お母さんにひどく怒られた事もあったし、散歩に出掛けた公園ではボールを使ってよく遊んでいたっけ。


 ベックはいつも私の後を付いてくるから、一人っ子の私には弟が出来てみたいで本当にかわいかった。そのベックも私が高校を卒業する頃に体の調子を崩してあっけなくお空へ逝ってしまったのよね。


 あの時は泣いた。毎日毎日ベックの事を思い出して、ベックと撮ったたくさんの写真を見続けて私は泣き続けていた。


 その時、私の目から一滴の涙がこぼれた。


「ミレーヌ?」


 リュンベック様が不思議そうな表情で私を見つめている。


 よく見たらこの人、あのベックに似ているわ。名前も似ているし、中途半端に伸びた茶色い巻き毛も黒い瞳もベックみたいだわ。今は違うけれど、小さい頃はいつも私の後を追いかけていたし、ボール遊びが好きなところもよく似ているわ。


 リュンベック様の顔を見ていたら、ベックの事をさらに思い出してしまい、私の涙はさらに流れていった。


「……ベック、もっと一緒にいたかったのに」


 ベック以上にご長寿のワンちゃんはたくさんいるのに、ベックはウチに来てまだ10年くらいしか経っていなかったのにっていつも思ってた。


 お母さんがベックはウチに来た時にはもう成犬だったから仕方ないって言ってくれたけれど、それでも私はもっとベックと一緒にいたかった。


「ごめんなさい」


 私がもっとベックの体調を気にしてあげていたらベックはもっと長く生きる事が出来たのかもしれない。そう思うとベックに対して本当に申し訳ない気持ちになってしまう。


 ベックの事を思い出した私の涙と呟きは止まらなかった。


 誰かとベックの事を話したかったけれど、ここには前世の知り合いはいない。


 いたらきっと、いつもトイプードルグッズをじゃらじゃらとバッグやスマホに付けていた私のベックへの愛を分かってくれただろう。


「きっと、寂しかったよね。……こんなに別れが早いって分かっていたらもっと色々な事をしてあげたかった」


 高校生になって少し遠い進学校に入学した私は、毎日の通学と勉強に追われてベックの世話がおざなりになっていた。あのつぶらな黒い瞳で、寂しそうにいつも私を見つめていたのに、私は自分の事で精いっぱいだった。


「……すごく大好きだったのに、もうあなたとは二度と会えないなんて……ううっ」


 ベックを思い出してすっかり涙腺の崩壊した私は、周りの事なんか気にせずに両手で顔を覆って泣いてしまった。前世の記憶は小さな頃からあったのに、どうしてベックの事を今まで思い出さなかったのだろう。あんなに大切な存在だったのに。


―――美怜、ごめん。僕が悪かった。


 佐藤美怜、それは私の前世の名前だ。その時私はベックの声を聞いたような気がした。もちろんベックは普通の犬だから人間の言葉は話せない、けれども私はその声をベックの声だと思ったのだった。


 ベックの声を聞いて、あの子の気配を感じたような気がして顔を上げてみたら、リュンベック様が私にハンカチを差し出していた。


 そういえばベックも私が泣いている時はよく側に来て、私の手や足を舐めてくれて私を元気づけようとしてくれていたわ。


 とっても賢くて優しい子だった。


「ミレーヌ、僕はキミを誤解していた」


「………?」


「キミは僕に関心が無いと思っていたんだ。けれどもキミは僕の事をそんなにも強く思ってくれていたんだね」


 リュンベック様が熱の籠った真剣な眼差しで私を見つめている。えっと、何が起きた?


「リュンベック、様?」


「先ほどのように僕の事はベックと呼んでくれていい。キミにベックと呼ばれると何故かすごく嬉しいんだ」


 前のめりな感じで話しかけてくるリュンベック様は改めて見てもやっぱりベックに似ていた。


 ふとリュンベック様の茶色の巻き毛が気になってしまい、私は彼の髪にそっと触れてみる。


 ベックのブラッシングは私の仕事だった。この人の髪の毛も梳かしてあげたい、どうしてなのかそう思った。


「……あのお、リュー様?」


 さっきまで泣き真似をしていたマノン嬢が空気と化した自分の存在を主張しようとリュンベック様に声を掛けてきた。


「ああ、デュゲ嬢か。先ほどミレーヌはキミと話すのは初めてだと言っていたよね。いじめの件は、よくよく考えてみたらキミの証言だけで証拠もないし、僕は自分の婚約者を信じたいと思う。ここで正直に話すのならば不敬罪には問わない事にしよう。本当にミレーヌはキミをいじめたのか?」


 リュンベック様の言葉にマノン嬢は慌てたように席を立ち上がった。


「ええっと、それは、もしかしたら私の思い違いかもしれません。……失礼致しましたっ」


 自分にとって風向きが悪い事を瞬時に察したマノン嬢は、そう言うと風のように走り去ってしまった。


(ベックの事を思い出したらマノンさんを撃退出来たなんて、ああやっぱりベックは私にとっての最高のパートナーだわ)


 空に浮かんでいる雲までもが何だがベックに似ているような気がしてきた。私は窓の向こう側に浮かぶ雲を見ながらベックの姿を思い出していた。


 家に帰ったら動物画が得意な画家を呼んで、私が覚えているベックの姿を描いてもらおう、そう固く心に誓った。


 この世界にトイプードルはいないから、ベックの生まれ変わりにもベックに似た子にも会う事は出来ないけれど、私はもうベックの事を忘れない。


「ミレイ?」


「えっ?」


 前世の自分の名前を呼ばれた私はドキリとしてしまった。


「先ほどもつい口から出てしまったのだが、これからはキミの事をミレイと呼んでもいいだろうか?」


 リュンベック様は少し恥ずかしそうにしながらそう言った。よくよく思い返せばベックは私がかまってあげないと拗ねてしまうところがあった。


(あれ、そういえばリュンベック様も小さな頃はかまって欲しいっていつも言っていたけれど、私の侯爵家の後継としての勉強が忙しくなって会えなくなった辺りから機嫌が悪いことが増えたような……?)


「ベック、伏せ!」


 試しにそう言った途端、何とリュンベック様が自分の上半身をテーブルに伏せたのだった。


「あれ?……何やってるんだろう、僕」


 反射的に体が動いてしまったようで、リュンベック様は不思議そうな表情を浮かべている。


 不思議そうに浮かべるそんな表情もベックに似ていて、私はおかしくなってしまってついに笑ってしまった。私の指示がよく分からない時のベックはいつもあんな顔をしていた。


「ふふふ。ベック様、今度一緒にお散歩に行きましょう」


 私がそう言った途端、リュンベック様は破顔する。


 彼に尻尾があったらきっとブンブンと振り回していただろう。


「ああ!僕はミレイと一緒に外を歩くのが子供の頃から好きだったんだ」


「我が家の当主教育もかなり進みましたから、実は以前ほど忙しくはなくなっていますの。これからはベック様の為にたくさん時間を作りますね」


 私は自然とリュンベック様に笑顔を向けていた。


「ミレイをサポートするために、僕も……侯爵から仕事を教えてもらえないだろうか?」


 リュンベック様は、はにかみながら私にそう言ってきた。


「ええ、お父さまに聞いてみます」


「ありがとう。……本当はミレイともっと仲良くしたかったんだ」


 小さくそう言うとリュンベック様は顔を赤くして下を向いてしまった。何だが私まで甘酸っぱい気持ちになってしまった。


「まあ、そうなのですね。嬉しいですわ」


 私がそう答えると、リュンベック様は嬉しそうな表情を浮かべる。


 私は心の中でかつての愛犬の姿を思い浮かべて、目の前の婚約者の姿と重ねる。


 私とベック、いいえ私とリュンベック様との新しい関係が始まるかもしれない。


 そしてこれからは自分のパートナーである婚約者を大切にしたい、そう強く思った。

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