1話
目が覚めると、そこは一面真っ白の空間だった。
天井も壁も何もなく、ただただ汚れのない美しい白がどこまでも広がっていた。
そこに白露は一人、ポツンと立っていた。
遠くの方で、子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。
「白露」
不意に己を呼んだその声に、白露の心臓はドクリと大きく音を立てた。
いつの間にか、目の前に人が佇んでいた。
「・・・・・・椿」
黒に見紛う紺色の艶やかな髪。鮮やかな緋色の瞳。誰が見ても一目で優しそうな人だと印象づける柔和な顔立ち。すらりと伸びた手足は程良く鍛え上げられ、終ぞ白露はその背を追い越すことが出来なかった。
兄弟の中で最も親しく、最期を看取った、白露の記憶に刻まれたままの姿の椿が、そこにいた。
その奥では、先に逝ってしまった兄弟達がじゃれつくように遊んでは、時折ちらちらとこちらの様子を窺っていた。
――――皆、ここにいたのか。
呆然としながらもそう思った白露に、椿は微笑んだ。
仕方がないなぁ、とでも言うように、下の兄弟達によく見せていた笑みを自分に向けられ、白露はムッとした。
「その顔やめろ。ていうか、ここは一体・・・・・・」
どこだ、と言いかけて、白露の記憶が唐突に蘇った。
同僚に裏切られたかと思えば、魔方陣(仮)で見知らぬ場所に飛ばされ、そして首を刎ねられて死んだことを思い出す。となると、ここは死後の世界ということか。
「・・・やっと迎えに来てくれたのか?」
白露は小さく問いかける。
少々拗ねた声音になってしまったのは気のせいだ。
椿は何も答えない。
代わりに、右手を白露に差し出した。途端、白露の表情が露骨に歪む。
この兄弟は昔から白露と手を繋いで歩きたがった。白露がどれだけ嫌がっても、時には拳を振るっても、のらりくらりと躱してしつこく手を差し出し、最後は結局白露が折れるしかなかった。
そんなことを思い出しながらも、白露は素直に椿の右手の上に自分の左手を置いた。
また同じことを繰り返して疲弊するくらいなら、大人しく従った方が身のためだ。この後すぐに向こうにいる兄弟達にもみくちゃにされるのだ、体力を温存しておきたい。
心中で誰にするわけでもない言い訳をつらつら並べ溜息を吐く白露の乗せられた左手を、椿はぐいっ、と引っ張った。
てっきりそのまま走り出すと思い前に踏み出した白露の右足は、しかし、一歩目で止まった。
後頭部と背中に両腕を回され、気づけば白露は椿に抱き締められた。
「椿?」
「・・・・・・・・・」
やはり椿は何も言わない。
椿の肩越しに、兄弟達が笑い合っているのが見える。遊ぶのを止めて、全員が白露に手を振っていた。
早く来いと催促するそれではなく、まるでお別れを告げているようで、白露はサァッ、と血の気が引いていくのを感じた。
縺れそうになる舌を、懸命に動かす。
「つ、椿・・・っ、待って、待ってくれ・・・・・・、もう嫌だ。充分生きただろ、これ以上は、生きても意味がない・・・!」
苦しいのも痛いのも、置いて逝かれるのも、もううんざりだ。
早く楽になりたい。
そう必死に訴えた瞬間、白露は身体を解放され、そしてトン、と胸を軽く押された。
小突いたくらいの力で揺らぐような体幹はしていないのに、白露の身体は簡単に後ろに倒れていく。
背後に地面はなかったのか、白露は崖から落ちた時のようにどんどん落下していった。
遠ざかる椿の顔は、笑っていた。
悪戯が成功した悪ガキのような笑顔をして、そこでやっと椿は声を発した。
「ごめんなぁ白露! もうちょっとだけ頑張って生きてくれ!!」
何とも理不尽な台詞だった。
こめかみの血管がブチッ、と切れたような音がして、内側から湧き上がる衝動のまま白露は吠えた。
「ふざっけんなっ! 相変わらず自分勝手だなお前ぇぇ!!」
エコーを響かせる自分の声に混じって椿の笑い声が聞こえたのを最後に、白露の意識は暗転した。
「・・・・・・・・・・・・さいていやろう」
うわごとを無意識に口から零しながら、白露はゆるゆると瞼を開けた。
頭だけでなく全身のありとあらゆる場所がズキズキ痛み、それで現実に戻ってきたことを察した。同時に、椿への怒りが沸々と沸いてくる。
(あの野郎、何が「もうちょっと頑張って」だ。充分頑張っただろうが。“よく頑張ったで賞”貰ってもいいくらいだ、ドSめっ)
あれが自分の作り出した空想だったとしても、完成度が高すぎた。生前の椿そのものすぎて、もう少し優しい椿を想像しても良かったのではないかと思ってしまう。
しばらく見覚えのない天井をぼうっと眺めつつ椿への不満を心の中でぶちまけてから、ふと気づく。
「・・・・・・何で生きてんだ?」
記憶では、確かに首と胴体がさよならしたはずだ。首を触れば、包帯の感触で少々分かりづらかったがちゃんとくっついているようだった。
何がどうなっているのか見当もつかないがいつまでも見知らぬ場所で無防備に寝っ転がっている訳にもいかず、白露は億劫ながらも上体を起こした。
部屋はとても広く、白を基調とした漆喰の壁には繊細な模様が描かれ、景観を損なわないよう配置された家具や机などの調度品は一目で高級品と判別できるほどに美しい装飾が施されていた。
手を見て、それから高級そうな布団を剥いで足を見て、次いで肌触りのよい黒シャツを捲り腹を見て、どこもかしこも包帯で覆われているのを視認して、誰かが手当をしてくれたのだと把握する。
腹と背中、それから胸の三カ所だけを怪我していたのは覚えているが、いつの間に全身を傷つけていたのだろうか。
首を傾げていると左隣から「んん・・・」とむずがるような小さな声がして、白露はビクッ、と両肩を跳ねさせた。
恐る恐るそちらに顔を向ければ、上半身裸の美丈夫が微かに眉根を寄せて眠っており、白露は唖然とした。
(・・・どちら様? っていうか、全然気づかなかった・・・!)
知らない男と同じベッド、同じ布団で共寝していたことより、こんな至近距離にいたにも関わらず目覚めてすぐに気がつかなかった事実の方に白露はショックを受けた。
これでは暗殺者失格だ。寝起きでぽやぽやしていたからとみっともない言い訳はしたくない。
溜息を一つ零し、白露は改めて男を見やる。
まず目に入ったのは燃えるような深紅の髪、ではなくその頭から出ている二本の角だった。犬猫でいうなら耳がついている位置あたりから後ろに向かって黒い角が捻れて生えている。ハロウィンのコスプレでこういった角のカチューシャをつけた人を見かけたことがあるが、それにしては質感が硬質に感じられ、リアルだった。無意識に触ろうとしていた右手を慌てて引っ込める。
角が本物にしろ何にしろ一旦横に置き、視線を移した先の顔立ちは文句なしの男前である。キリッとした眉に、美しい鼻筋、余分な肉はついていない頬はシャープだ。生憎目は閉じているので色形は不明だが、その下には濃い隈が張り付いていた。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。大人の顔立ちをしている。
どこかで見たことがあるような顔だったが、すぐには思い出せずとりあえず頭の隅に追いやった。
白露が起き上がった時に露わになった上半身は細身ながら鍛え上げられているのが一目で判別できた。見事に六つに割れた腹直筋が眩しい。白露はどれだけ鍛えても体質的に筋肉がつきにくいので羨ましい限りだ。これまた無意識に腹筋を触ろうとした右手を反対の手ではたく。下半身はきちんとズボンを履いていて安堵した。流石に全裸で隣でいられるのは嫌だ。
男は余程疲れているようで、白露がジロジロ観察しても起きてこなかった。
ここまで深く寝入っている男を起こすのは少々忍びなく、白露は布団をかけ直しそのまま寝かせることにした。
(ここがどこか知りたいが、この様子じゃあなぁ・・・。仕方がない、外に出てみるか)
少し考えてからそう決断すると、白露は男を起こさないよう静かに、ゆっくりベッドから抜け出した。
開かれたままの窓から、柔らかな風が吹き込み、白露の髪を揺らす。
正確な時刻は分からないが、太陽が天高く昇っているのを見るに昼間であろうことは窺えた。
少し考えて、白露は縦長の半円の形をした窓枠に乗り上げると、しゃがみ込んだ姿勢のまま下を見下ろす。
思った以上に地面まで距離があった。大体ビルの六、七階相当の高さはありそうだ。
(・・・まぁ何とかなるか)
悩んだのは一瞬。この高さなら着地に失敗しても死ぬことはない。良くて脚の骨にヒビが入る程度だろう。
元より楽観的思考がある白露は、こういう時の判断は速かった。
横枠を掴んでいた右手を放し、身体を前に倒す。同時に窓を軽く蹴ろうとした瞬間、白露の腹に勢いよく何かが巻き付いた。内臓がギュッ、と圧迫され、白露は蛙が潰れたような呻き声を上げた。
「この、馬鹿!!!」
耳元での怒声に近い大声に、白露は鼓膜がキーンとなった。
「一体何考えてんだっ! 死ぬつもりか!?」
怒鳴っていたのは、寝ていたはずのあの美丈夫だった。冷や汗を滲ませ、酷く焦った表情をしている。その新緑の瞳に、既視感があった。
(・・・・・・狸寝入りしてたのか)
白露は内心舌打ちした。寝たふりをしていた美丈夫にではなく、これまた気づかなかった自分に対してである。
「いや、別に死ぬつもりはないです。多分、この高さなら死なないと思います」
「ハァ? お前人間だろ? 普通は死ぬぞ」
へら、と白露が下手くそな笑みを見せれば、美丈夫は心底理解できないと言うような声音で告げ、そのまま白露をベッドまで連行した。
「思い切り締めて悪い。怪我は大丈夫か?」
「開いた感じはなさそうなので、大丈夫かと・・・」
美丈夫は優しく白露の身体をベッドに横たわらせ、肩まで布団を掛ける。最後に小さい子にするように腹辺りをポンポンと叩かれ、白露は諦めて身体の力を抜いた。
美丈夫はベッド横のサイドテーブルに置かれていたハンドベルを軽く振った。重々しい見た目とは裏腹にチリン、と可愛らしい音だった。
「少し待ってろ。他の奴も呼んだから、すぐに来る。それからお前の知りたいことに答えよう」
先程の剣幕はどこへやら穏やかにそう告げて、美丈夫は労るように白露の頭を撫でた。
「それは、助かります・・・えっと・・・」
「あぁ、名乗ってなかったな。リュシオン・ロガンドだ。このベズビルブラ王国を治めている」
「これはご丁寧に。俺は白露といいます。名字はありません」
「そうか、よろしく白露」
知らない国の名前が出たが、白露は右から左に聞き流した。
嫌な予感が、じわじわと足下から這い上がってきている。
体感として五分もかからぬ内に、部屋の外からバタバタと慌ただしい足音が近寄ってきたかと思えば、バンッ、と勢いよく扉が開かれた。
「陛下! 怪我人のベッドにまた忍び込んでいたのですか! 彼の怪我が悪化したらどうするのです!?」
部屋に飛び込んできたのは、紫がかった黒髪に淡いレモン色の瞳をした真面目そうな感じの男だった。左目に片眼鏡をしている彼の背中には、身の丈ほどの黒い翼が生えていた。
「何だまたかよリュシー。あの子ちっせぇんだから下手すると潰しちまうぜ」
その背後からヒョコッと姿を現したのは、片眼鏡の男よりも上背のある屈強な体つきをした男。濃い金髪に黒のメッシュが入り、鮮やかな空色の瞳をした彼の頭の上には動物のものらしき丸い耳が生えていた。耳の形状と色からして虎辺りだろうと推測できる。
(角の次は翼に獣耳・・・。コスプレじゃないよな、ここまでくると)
肩を怒らせる片眼鏡の男に合わせてバッサバッサと上下に動いている翼を見て、白露は遠い目をした。
「別に抱きついて寝てたわけじゃないからいいだろ。それより、白露に説明しないと」
「白露? 誰のことを言ってるのですか」
「あ、俺のことです」
寝たままの体勢で白露が右手を挙げれば、片眼鏡の男と獣耳男は目を丸くした。
起きていることに気づいていなかったのだろう、片眼鏡の男は慌てて姿勢を正した。
「これは失礼いたしました。私はディラミール・ガトリー、この国の宰相を務めております。目が覚めて本当に良かった・・・」
心底安堵した様子で息を吐くディラミールに、白露は「ご心配おかけしました?」と不思議に思いながらもそう返した。
「俺はアシュルク・ディヴェーリスだ。近衛騎士団の団長を務めてる。気軽にアシュとでも呼んでくれ。今回は坊主のお陰で助かったぜ、ありがとな!」
「何のことですか?」
続けて名乗った獣耳の男――――アシュルクの礼の意味が分からず、白露は怪訝そうに眉を顰めた。
「それは今から説明しよう」
そう言って、リュシオンは部屋の中央に配置されていたテーブルセットからアンティークな椅子をベッド横に持ってきて腰掛けた。その背後にディラミールとアシュルクが並んで佇む。
「白露、落ち着いて聞いてくれ」
リュシオンの声音は、少し固かった。
緊張が走る三人に対して、白露は次に言われる言葉を何となく予想していた。
「ここは、お前が住んでいた世界とは異なる世界なんだ」
「あ、やっぱりそうですよね?」
驚きも困惑もなくサラリと返した白露に、三人は唖然とするしかなかった。