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その九

いとはいつものように「礼」が入った小さな包みを片手で抱える様にし、もう片手に傘を持っていつの間にかそばに佇んでいた。

細やかに線を引いていくような雨が良く似合う、と八郎は返す言葉を忘れて不意に思った。


いとの寄越してくれた包みを開ければ、そこには木彫りの龍と鯉の二つの根付けが入っていた。所々、やすりのかけ足りない不恰好な様でありながら、どちらも表情がどことなく人間じみた味のある根付けであった。


「今は鯉をお付け下さいませ」

八郎の手の上に広げた包みから、鯉の根付けを持ち上げていとは言った。

「はあ、それはまたどうして」

「こちらに願掛け致しました。八郎様のお体が良くなります様にと」

そう微笑むといとは次に龍の根付けをとり

「こちらはお元気になりましてからお使い下さい」

と言った。


「鯉とは珍しい」

「龍になれる鯉にございます」

八郎が笑って言うと、いとはからかわれたと感じたのか口調を強めて付け加えた。

「そうか、ありがとう」

真剣ないとの眼差しに少し気おされながら、八郎は熱を持つ頬を隠すことが出来ないまま傘を肩にかけて、懐から出した印籠に鯉の根付を早速つけた。

雨が降っていたことを、八郎は密かに感謝していた。笠が傾いたせいで頬が染まるのを隠すことが出来たからだ。


天候の悪さに用心して、八郎は一度中へと戻り脇差にくわえて大刀を腰に差すと、雨の中いとを連れ立って本所へと歩き出した。

雨は大川にかかる橋を渡る頃には、大粒が吹き付ける様にして、袴に沢山の染みを作っていた。

いとの前を風よけの様に歩いてはいた八郎であったが、心配で振り返り見たいとがどういうわけか着物に染み一つ付けていなかったのが不思議であった。


いとと別れる場所である業平橋に差し掛かった頃には、足の高い下駄を履いていたものの八郎の足も袴も泥まみれになってしまっていたのだが、いとの足元がどうなっていたのかは、季節に似合わずすっかりと暗くなってしまった中では良く見えなかった。


「お風邪を召しませぬ様」

いつもと同じくいとが一言添えて去ろうとした。が、しかし今日ばかりはその足を先に進めずにためらって見せると、ゆっくりと振り返った。

「少し、雨が弱くなるまで私の所でお待ちになりますか」

思いも寄らないいとの申し出に、八郎は直ぐに返答が出来ずにいたが、さっきから益々勢いを増す雨に肩を叩かれて言葉に甘えることにした。


「ありがたく」と答えてから幾つ道を曲がったろう。

「そこを右に」「次は左に」

後ろから付いて来いと言うのに従って、本所の武家屋敷の群れの奥へ奥へと進んで行く。

すでに夜は更け始め、ぼんやりとした提灯の灯を振り止まぬ雨が覆う。

地面を打つ雨音が聞こえる他は、まるで夜明け前かと思う程の静けさで、自分達の脇を小走りで去って行く下男らしきものがいるのが見えた時、どこかほっとした。


「もう、じきにつきますので」

雨音を縫って聞こえる声にならって小道を入ると、突き当たりに垣根が見えた。

いとの身なりからして、家録の良い所の娘であろうと思っていたが、その家は塀ではなく年季の入った垣根で囲われ、質素な木の門を構えた小さなものであった。

その門前まで着くといとは進み出て、門と言うには質素すぎるそれを開ける。

「どうぞ」

促されるままに足を踏み入れれば、小さいが手入れの行き届いた庭があり、申し訳程度にある池には雨粒が打ち付け、数え切れない波紋を提灯の明かりに浮かべる。

いとに続いて縁側の軒下へと傘を閉じて中に入ると

「お待ちくださいませ」

と言って、いとは家の奥へと消えて行った。


見上げれば、家は質素であれど、黒く光りた古くりっぱな梁が渡されている。

床も磨き上げられたために、姿を写すのではないかと思うほどにつややかであった。

しかし、家の中はひっそりとしている。

外から聞こえる雨の降る音が、他の音を打ち消しているのかとも思ったが、人の気配自体がこの家からは感じられぬ気がした。


直ぐ脇に中間か或いは下男や下女の部屋と思われる間が襖を開けたままであったが、そこからも誰も現われることはなかった。

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