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その八

遵恵寺の門前に着くと娘は

「ありがとう存じます」

と一言口にしお辞儀をすると、もう濃い闇の中となった門の奥へするすると滑るように入って行き、その後はただ虫の鳴く声がじいじいと聞こえるばかりであった。

家がこの近く、という事は本所の旗本屋敷の方かとも思えたが、それにしては土地勘がないのだなあと八郎は少し違和感を覚えつつも、まあそれもきっと出かけなれていないのだろうと合点して、そのままもと来た道を帰っていった。


その翌日、またも同じように侘助を見送った後である。

「もし」

聞き覚えのある声に呼び掛けられて振り返ると、昨日の娘がそこに立っていた。

昨日よりも僅かに高い日の下で見る娘からは、昨日の不思議な妖艶さはすっかりと消えていた。

「ああ、昨日の。ご無事で何より。今日もお出かけですか。」

八郎は二度目だと言うのに、にこやかに慣れた口振りで尋ねた事を、自分でも驚いていた。

男ならばまだしも、相手は名も知らぬ娘である。

「ええ、昨日は本当にありがとう存じました」

そう言うと娘は丁寧にお辞儀をし、大事そうに胸元で握り締めていた小さな包みを差し出した。

何のことかと首をかしげる八郎に

「昨日のお礼に」

と短く口にすると、その目元がほんの少しだけほほ笑んだ様に見えた。


「お気遣い頂き申し訳ございませんが、礼を受けるほどの事ではございません」

八郎の言葉に少し惑う様な色を目に浮かべると、娘は包みをはらりと開けて見せる。

すると中には、外側に名前が書かれた幾つかの紙の包みが有り、つい覗き込むと独特の芳香が立ち上ぼって八郎の鼻をついた。

「これは」

においに眉をひそめながらも、八郎は問いかけた。

「お薬です。もしお役に立てましたらお使いください。」

「はあ、しかしなぜ薬などを」

「伊庭道場の若さまのお話を伺っておりましたので。ここのお薬は効きますので是非にと思いまして。」


昨日、特段自分の体の事を話した覚えは八郎にはなかった。というよりは、会話らしい会話をしなかったのだ。

自分が伊庭の家の人間だということも言っていなかったので、八郎は娘が自分が伊庭家の息子であると知っていたことが何だか恥ずかしくて、顔が向けられずにいた。


「はあ、ではありがたく」

包みなおされたそれを八郎がぎこちなく目線をそらせてうやうやしく受けとると、娘は安心した様に胸に手を当てて笑った。

その声が聞こえれば、八郎のほうも何だか心の緩む気配がして、不思議と言葉が口を出た。

「今からお帰りになるのですか」

昨日と同じく本所の方に帰るのであればやはり女一人では心許無く聞けば、八郎は「宜しければ」と再び同行を願い出た。

「まあ、よろしいのですか」

そう声を弾ます娘の瞳の奥がわずかに踊った。

「かような心遣いを頂きましたお礼にございます」

言うと八郎は、両手で持った包みを少し持ち上げ再び頭を下げた。


それから三日、同じ事が続いた。

昨日の礼に、と娘が八郎のもとに訪れ、八郎はその心遣いの礼にと送って行く。

侘助はいつまでも門前に立ったままの八郎を不思議に思ったのか尋ねたが、八郎は「早くお帰り」と言うばかりで何も語らなかった。


八郎は知らず、侘助を送り出す時刻になると、娘の現れるのを心待ちにするようになっていた。手習いも終わりに近づくと、読む本の説明が的を射ず、侘助が聞きなおして漸く自分の浮ついた心に気づくという有様だった。


娘は「いと」と言った。

詳しいことは口にしなかったが、やはり本所の武家屋敷の一角に住んでいるらしく、いつも本所の大きな通りに出ると

「それでは」

と言い小路へと消えて行く。一度その後を追ったが、もうその姿はなく、どこに家があるのかは知れなかった。


その日は、雨であった。

昼頃までは雲間から薄日がさしていたのだが、八つを過ぎた頃から雲が厚くなり始めた。

今はもう遠くで稲妻の低くうごめく音が響き、空は灰色と鴾色を混ぜた様な、薄気味の悪い色である。

お陰で辺りはじっとりと湿った空気を満たしたまま、いつもよりも早く夜へと近付いていて、空からは早くも、ひとつふたつと小さな雨粒が落ち始めている。


「侘助、これじゃあ時期に傘も効かねえ雨になるよ。急いでかえんな。」

侘助に傘を手渡すと、八郎は懐の手ぬぐいを取り出して、それを頬被りにして結んでやった。

「気をつけてな」


侘助は傘をひろげると、その上を弾む雨音を興味深げに見上げながら、うん、と頷き、そのまま傘の中を見上げて去って行った。


さて、今日も来るだろうかと、八郎の心は侘助を見送り終えるよりも早く、いとが来るのを期待し始めていた。

だが、この天気ではもしや来ないかも知れないな、と、微かな気落ちもしていた。


それが当たったのか、侘助が姿を消しても、いとは現れなかった。


しばらく門前に立っていたが、八郎の傘を次第に強く打つ雨に観念し、家に入ろうとしたその時であった。

「もし、八郎様」

いとだ。そう思うと同時に八郎は振り返っていた。

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