その七
八郎の言うとおり、鰻は大層旨かった。
甘じょっぱいたれが、てらてらと鰻の上で輝いて、ふっくらとしたその身を割ると、こまやかな湯気が立ち上がる。一口食べてすっかりとそれを気に入ってしまった侘助は、大人の一人前をぺろりと平らげご満悦であった。
旨かったから、というのは勿論なのだが、何より自分が食べるのを嬉しそうに見る八郎を前にすると、自然と箸が進んだのだ。
「さて、帰るかね」
茶を一口飲み、八郎達がそう言って立ち上がろうとした時、店の入口から先ほどの花魁と客が入って来た。一瞬にして店の中に白粉の臭いが立ち込めて、隣の職人風情の男があからさまに顔をしかめる。
「へえ、いいねえ。あんなに美人な花魁をはべらすだなんてすごいもんだ」
一方八郎は立ち上がりかけたままの姿勢で見とれてしまい、思わず感嘆の声を漏らし、二階へと上がって行く花魁をそのまま目で追ってしまった。
「八郎は吉原にいくのか」
突然の質問に八郎は思わず慌て、花魁に向けていた目を丸くして侘助に落とした。
侘助はもし八郎があの花魁のいる「吉原」という場所に行く事があるのなら、連れて行ってもらおうと思って口にしただけであった。行って、あの少女に「さだ」と呼びかけてやりたかったのだ。
侘助はあの時一度もその名を呼んであげられなかった事を、後悔していた。
それとは知らず、八郎は困った様な顔をして座布団に座り直す。
「吉原も知ってるのかい。たまげたな」
「名前しか知らぬ。どのような所なのだ」
屈託のない顔で聞く侘助に八郎は安心した様で、その顔を和らげると「ううん」と悩む素振りを見せた。
「男が、愛しい女に会いに行く所さ」
思い付いてようやく八郎は口にした。
もっと茶化したり捻ったりした言い方もあったが、素直な侘助が鵜呑みにしてどこぞで恥をかいてもいけないので、無難なやり方で表したのだ。
上手くやり過ごしたと八郎が思ったのもつかの間侘助は、ふうん、と俯くと少し考えた様子で再び口を開く。
「八郎はああいうのを愛しいと思うのか」
続け様に答えるのに困る質問を受け、八郎はつい、もうすっかり冷えている茶の残りを飲み干し
「まあ人それぞれだよ。花魁も勿論美しいとは思うがね、まあ、武家の娘さんの清廉さもいいものさ」
などと、よく分からぬ答えで誤魔化してしまった。
幼い侘助の学問の師として、意味が分からないとはいえ花魁が好きだ、とは言えなかったが、さりとてどう答えるか迷った結果のものであった。
八郎はしばらく他の表現がないか、頭を掻きつつ思案していたが、侘助は「ふうん」と頷くと、同じく冷めた茶をすすり、何か物憂げに目の前に置かれた空豆の箸置きを見つめていた。
その翌日、日が傾きはじめた頃、八郎はいつもの様に侘助を門まで見送りに出ていた。
今日も菓子の土産と本を手にし、侘助が道を曲がり姿が見えなくなった時である。
「もし」
八郎は不意にかけられた声で振り向いた。
見れば、齢十七、八であろうか、菖蒲の花の様な色をした着物に身を包んび島田髷を結った娘が、大きな包みを抱えて立っていた。
「何でしょう」
着流し姿で見送りに出て来た八郎を、恐らくこの家の使いか何かだと思って声を掛けたのだろう。娘には物怖じする影が見えなかった。
「本所の遵恵寺まで参りたいのですが、どちらへ向かえばよろしいのでしょう」
本所、といってもその外れにある遵恵寺まで、ここからならば女の足では直ぐに暗い道を歩く事となる。
本所辺りには武家屋敷が多いのだが、それを知らぬというのは、その身なりからも感じる様に、この娘はおそらくどこぞの藩の御屋敷におわす娘だろうと八郎は考えた。
しかし、それでいて伴もつけぬとは変な話である。江戸の街を良く知らぬ武家の娘を一人で出かけさせるなどまずありえたことではない。ともあれ、娘の一人歩きは危険である。
「お送り申す。伴をつけましょうぞ。しばし待たれよ」
八郎はそう言うと急ぎ家の中へと引き返し、中間の道明を呼んだ。
が、しかし家の中からはまだ稽古を続けている道場からの残響が聞こえるばかりで、誰も出てはこない。
「坊ちゃん、今日は道明殿はいとまを頂いておりますよ。どうなさいました」
もう一声上げかけた瞬間、女中のハツが後ろから口をはさんだ。
「お武家の娘さんが道に迷っていてね、送って差し上げたいのだ。孫八は」
「使いに出ております」
「晋三は」
「今日はお弟子さんの他流試合の伴に付いておりますよ」
「浅野と白井は」
「今道場でみなさんと稽古中です」
さて困った。ハツも「あら」といいながら悩んでしまった。
ことごとく男の使いが出払ってしまっている。
仕方なく八郎はハツに、門前にいる娘を引き入れて待たせる様に告げると自室へ行き、袴を履くと脇差しのみを腰に差した。これならば娘の御付には見えるだろうと、大刀は刺さずに出た。
道場へ赴けば、浅野か白井に頼む事もできたが、道場には足が進まなかったし、稽古熱心な二人にはどこか引け目を感じていて、頼みづらかった。それはハツも承知であったので、勧めなかったのであろう。
「お待たせ申した、参りましょう」
次の間で待っていた娘は、少しだけにこりと笑い頷くと、八郎の後に付いて歩く。
門前でハツから提灯を受けとると少し早いが、明かりを入れ本所へと歩き出した。
もう既に、鴇色をした空が段々と薄墨を流した様に染まって行く。
大川へ向かう道は、幸いまだ帰宅の人通りが多かった。が、しかし八郎にはきになるところがあった。
「不躾な事を伺いますが、遵恵寺からのお帰りはどうなさるのでしょうか。
もしよろしければ、お待ちいたします」
振り返りざまにみつつ、八郎は娘を例えるなら凛とした桔梗の様だな、などと関係のないことを思っていた。
「いいえ、そこからは家まで近いので、お気になさらず」
娘はきりりとした言い振りで、必要以上の事は口にせず無愛想であったが、決してその感じが悪いわけではない。むしろ馴れ合った間柄での落ち着いた静けさが二人を包み、八郎は不思議と居心地の良ささえ感じていた。
提灯の明かりで、娘の顔がぼんやりと浮かび上がるほどにあたりは徐々に闇を落としていく。
それはたおやかな鬢と薄くほんのり紅が乗った唇、しっとりと伸びる黒く長い睫毛に縁取られた、藍色に影を落とした様な目を艶めかせていた。