その六
「八郎殿、先ほどの坊ちゃんがまだ戻られないようですが」
謳秀に聞かれて初めて、八郎はかなりの時が経っていた事に気付いた。
博学で話もうまい謳秀と出会えば、はしたなくもつい道端で話し込んでしまうのはいつもの事であった。
「これはいけない、迷ったのかも知れないな。お話しかたじけのうございます。では失礼。」
手短に挨拶を済ませ、立ち去ろうとしたその時
「もし」
と謳秀が引き止めた。
「これ以後、もし何か身の回りに奇異な事がございましたらば、いつでも申付け下さい」
謳秀はさも真剣な口振りで告げたが、八郎はばかに丁寧なご挨拶だな、くらいにしか思わず、話半分で「かたじけない」と返すと、急いで侘助の去った方へと駆けて行った。
しかし、広い境内をぐるりと回っても侘助は見つからず、焦って仲見世へ小走りで出る。
走ったせいで、少しばかり、胸が痛みが走りはじめていた。
悪い事に、出てみても先ほどと変わらぬ混雑ぶりで、八郎はどう探して良いのやら途方に暮れそうになってしまった。
だがその時、仲見世から脇へと抜ける、人通りの少ない道が目に入った。
あの小さな侘助が、わざわざこの雑踏へと行くことはないと思えて、八郎は何となく導かれるように、胸を押さえながらも脇道へと走り出した。
すると、少しも行かないうちに、一人ぽつんと弁天池の縁に腰掛けた侘助の姿が目に入った。
八郎はほっと胸をなで下ろし、一つ深く呼吸をしてから侘助に近付いたが、侘助は八郎に気付く気配もなく、池に足を浸してじっと水面を見つめている。
「何か見つけたかい」
後ろから声を掛けると、侘助は我に帰ったように顔を跳ね上げた。
『さだという名前の少女に会った』
と、さだの名前を言いおうとして侘助は止めた。
するりともらすには大事すぎる名前の様な気がしてならず、思わず飲み込んだのだ。
そうとも知らず八郎は
「どうかしたか」
と、先ほどまでさだがいたところにしゃがむと、自分がさっきまで胸を痛めていたことなど棚に上げて、侘助の顔色や膝小僧などをよくよく目を凝らして見た。
「何でもない」
そうぶっきら棒に言うと、水の中から足を揚げ、ふるふると足を振り水滴を落とし、傍らに置いた草履に向き直って足を入れた。
すると、肩越しに後ろから八郎の手が不意を突いて伸び、その手に持った手ぬぐいでまだ侘助の足に残った水滴をきちんと拭いていく。
「ちゃんと拭かないと足が汚れるだろう。さあそれじゃあ侘助、参拝したら旨いものを食いに行こうか」
振り替えれば八郎が得意げに笑う。侘助が喜ぶと思ったのだろう。
しかし侘助は「旨いもの」よりも「侘助」と言う言葉の響きに気を取られ、ふと考え込む。
当たり前の様に呼ばれる自分の名を、あの少女がもう二度と呼ばれる事がない事を思うと、何かが胸の中でもがく様な思いに駆られた。
その様子を、旨いものがなんなのか考え込んでいるのだろうと勘違いをした八郎は
「うなぎだぞ。旨いと有名なんだ。」
と言って立ち上がり、侘助の腕を引っ張り上げ立たせた。
この時侘助は鰻など頭の片隅にもなく、ただ『さだ』、という名を一生忘れまいと心密かに誓っていた。
今だに真剣な面持ちを崩さぬ事を不審に思い、八郎は覗き混む様に腰をかがめ「どうした」と問い掛ける。
侘助は何かが水の中で跳ねる音にようやく我に帰ると、再び「なんでもない」とつぶやいた。
「や、侘助、亀かもしれんな」
何が嬉しいのか、八朗は声を僅かに弾ませながら池の中を覗き込んでいた。
侘助が頷いて返事をしようとした刹那、腹の虫が代わりに返事をしてしまった。
裏通りまで流れて来る食い物の薫りに、体が自然と反応したのだ。
途端に八郎はけらけらと笑い出し
「よし、早くお参り済ましちまおう。」
と、侘助の手を引っ張ると、元来た道を足早に引き返して行った。