その五
朱塗りの立派な建物は鮮やかで、生い茂る青々とした葉と反射しあって目がちかちかとするほどであった。
参道から脇にそれた通りを振り返れば、表とは打って変わって人気が少なく、元々賑やか過ぎるところは性分に会わない侘助は、何気なしにそちらへと足を運んだ。
少し行けば直ぐに池に突き当たった。暑さのせいで立ち上がる水気に少しうんざりしながらも、陽を返してきらきらと光る水面のゆれは美しく、侘助は小さな橋を渡ると池のほとりに腰を下ろし、草履を脱いで足を浸した。
足をわずかに上下させるだけで、水面はびろうどの様に滑らかにきらめく。何より侘助が喜んだのは、浸してみれば水の中は思ったよりもひんやりとしていて、心地が良かったことだった。
しばらく足を水の中でぶらぶらとさせていると、侘助の脇にあった大きな石に古ぼけた着物を着た男が腰掛けた。
くたびれてあせた紺色の着物に擦れた帯、履きつぶしかけた草鞋からして、男は旅人なのであろう。ただ、他の旅人と違うところは、そのそばに小さな女の子を連れていたことであった。
年は侘助より少し上位であろうか。少女は旅の格好にしては粗末な身なりである。
男は強く引っ張るようにして侘助と自分の間にその少女を座らせると、帯を解いて着物を脱ぎ下着だけとなり、脇に置いた行李を開くとそこから少し丁寧に畳まれた着物を取り出し、いそいそと着替え始めた。
侘助は意味もなくその様子を見ていたが、少しして異変に気づいた。脇に座った少女は、ぐっと眉間にしわを寄せ、水面を睨むようにしてほとほとと涙を落としている。
「どうしたんだ」
気づけば侘助は声をかけていた。
そのままの表情で少女はくるりと侘助の方へ顔を向けた。
泣き通しだったであろうその目は真っ赤で、目蓋は腫れ、着物の袖は拭った涙や鼻水でかぴかぴになっている。
「泣いているのよ」
少女はきっぱりとした口ぶりではねつけるように、涙のわけを微塵も感じさせずにいった。
「何でだ」
しかし侘助はそんな言い振りにちっともひるむことはなく、なんともない様子で続けて返す。
「私、売られたのよ」
侘助の様子に少し言いよどんだ後、少女はまた同じようにはっきりと言い放と、そこへ男が口を挟んだ。
「おい坊主、そいつ逃げねえ様に見とけよ。もう10年もたちゃあ金払わなきゃ口利けねえ相手だ、感謝しな」
良く見れば男は帯を巻きながら、片足で少女の着物のすそを踏みつけ逃げぬようにしていた。
「どこに売られたんだ」
男の話を聞き流すと、侘助は再び少女に聞いた。
「吉原だよ。ほら、あんなに綺麗なべべ切られるんだぞ」
気にせず話を続ける男が指差す先には、仲見世通りへ客と若衆と共に向かう花魁が見えた。
まるで、客の男に蝶々が止まっている様である。侘助は単純に、美しいな、と思っていた。
「あそこに行きたくないのか。」
問いかけに、少女は緩く左右に頭を振る。
「吉原が嫌なわけじゃない。生きていればいずれ誰かとそのような関係にはなる。だけどね、私がたった何枚かの小判に化けちまったことが悔しくてならないのさ。父様も母様も、私が小判にしか見えなかったんだ。生きようが死のうが関係ないのさ。」
ごしごしと目元を拭った少女の目元は、擦り切れそうなほど赤く腫れていた。
侘助は一言「ふうん」と言うと、ごそごそと懐を探ると懐紙に包んだかりんとうを出した。
伊庭の家を出るときに、八郎が包んでくれたものである。
お気に入りのそれを侘助が黙って少女にそれを差し出すと、少女は何を思ったのか黙って受け取りじっとみつめていた。
「さだ」
ぽつりと少女が呟く。侘助は何を言われたかわからずに首をかしげた。
「私の名前よ。あすこに行ったら、新しい名前をもらうんだってさ。消えちまうのさ。この名前が。だからあなたに預けるわ。覚えていてほしいの。
さだ、と覚えていてね。そして、たまに思い出してほしい。私がもし忘れたら、教えて頂戴」
言うと少女はがりりとかりんとうをかじり、「甘い」と顔をほころばせた。
「侘助。俺の名前だ」
侘助は少し、考えてから口にした。自分の名を反芻するのが誰なのか名前くらい知っていたほうが良いんじゃないかと思ったのだ。
「侘助って言うの。へんなの。」
さだは首をかしげて侘助を見やった。