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その四

「失礼いたします」

先ほどの女中が、うやうやしく盆の上に茶と菓子をもって来た。

背をまげて頭を下げる様が独楽鼠のようだなあ、などと思いながら侘助が眺めれば、女中は盗み見るようにその視線を八郎に向けている。視線の意味に気づいているのか、八朗はわざとらしいほどに彼女に目を向けなかった。

「すまないが、孫八を鳥八十に使いに出してくれないかい。いつものを。」

八郎が言いつけると、女中は伏目がちにして小さく「あい」と言って盆を置いて去っていった。


「さあ、お食べ。」

しばしの沈黙に、不思議そうに視線を向ける侘助に気づいた八郎は、お茶とかりんとうを文机の上に並べると

「行儀はよろしくないがね」

と誤魔化すように笑いながら、かりんとうをがりりとかじった。


その日からほとんど毎日、侘助は八郎のもとへ手習いへと出かけるようになった。


行く度に八郎が出してくれる、菓子だの、焼き鳥だの、どこぞからの土産物の余りだのが旨かったからというのが侘助を引きつけたのだが、何より八郎の人柄をすっかり気に入ってしまったのだ。

清次郎のように真面目一辺倒でなければ、喜市のように世辞や憎まれ口を言うこともない。

気っ風も良くあっさりとしたその様は、まさに江戸っ子そのものであった。


「へえ、侘助、もうこんなむづかしい本を読んじまったのかい」


二日前に渡したのは、少し厚めの蘭学の本で、いくら頭の良い侘助でも八日はかかるだろうと踏んでいたので驚いた。


八郎も八郎で、そのようにどんどん知識を吸い込む侘助の学習の早さが面白くて、毎度むづかしい本を用意しては、分からなさそうなところを指南し、読み終わった侘助から質問を受けるということを繰り返していた。


「侘助、どうだい、息抜きに出かけやしないかい」

いつものように手習いを終え、茶をすすって芋きんを頬張っているところで八郎がこのような提案をすると、侘助は芋きんのせいできけぬ口を押さえて、一つ頷いた。

「急がなくともよい」

そう言って、侘助が食べ終わるのを待ちつつ、八郎は支度を整えて廊下で下男をつかまえ

「出かけるよ」

とだけ告げた。先日「孫八」と呼ばれた男はそれを聞いて急いで引き返そうとする。


「孫八、今日はこいつと二人で行くよ」

「道明殿をお連れにならないので」

道明、とは八郎が出かける時に連れて行く中間だ。

目付きの恐ろしく悪いそいつは、相変わらず侘助の事が気に食わないらしく、伊庭の家を訪ねる度に侘助に一瞥をくれる。

しかし当の侘助本人が、何ら気にせず家に入るのが余計に道明の苛立ちを誘うらしく、今はもうなるべく侘助に関わらぬようにしているのだ。


「あいつもその方がよかろうよ」

そんな道明の心の内を知る八朗は、ちらと侘助に目をやったが、当の相手はきょとんとして首を傾げるばかりであったので、八郎はおかしくて喉の奥で留めながらも笑ってしまった。

「それに、町人に中間がつくなんて、目立ってしようがないや」

「八郎様、そのままでお出かけで」


驚いた孫八の問い掛けに何でもない事のように「うん」と答えると、文机の前で落書きにふけっていた侘助に手招きした。


孫八が慌てるのも当然である。

武家の男子が着流し一つで袴もはかず、大小も挿さずで出かけるのだなんて、恥ずかしいことはなはだしく、それだけでなく八朗は江戸屈指の道場の息子なのである。

「御館様にしかられます」孫八が汗をかきながら慌てていう言葉も気にせず、八郎は隅に用意してあった風呂敷包みを持ち出しながら言う。


「なあに大丈夫。このくらい元気な方が父上も安心さ」

侘助の向かいで解かれた風呂敷包みの中には、深い藍色をした単衣の着物があった。

どんぐり眼をくりくりとめぐらせてそれを上から覗き込む侘助に微笑むと

「これは私が小さな時に着ていたのだけど、お前にも似合いそうだったんでね」

と言っ手渡し「お着替え」と勧めた。

色も肌触りも涼しげなそれを着ると、侘助は気に入ったらしく何度も着物をさすったり、袖口を日に透かしたりして見ていた。

八郎はその様子を満足そうに見て頷くと

「さあ行こうか」

と、まだおたおたとしている孫八を後にして、いつものごとく縁側からひょいと出て行ってしまった。


外にでれば少し汗がにじむような暑さではあったが、町の角のそこここに様々な花が咲き乱れ、人々でにぎわう目にも楽しい光景が広がっていた。

しかし、道中八朗はその花には目もくれない様子で

「ここの蕎麦はわさびがうまい」

だの

「あそこの天麩羅は油がよくないんだ」

だのと、のんびり脇を歩く侘助に説いて歩いた。


正直侘助はそんな事に興味などなかったが、八郎があまりに楽しそうに話すので、それがなんだか面白くて、ふうん、とひたすらうなずいて聞いていた。ふうん、という度にいたづらっぽく得意げに口の端で笑う八郎の顔が何だか気に入ったのだ。


寄り道をしつつ、半刻ほど後に着いたのは、参拝客でにぎわう浅草だった。

「凄い人出だねえ」

両脇に店がひしめく参道にごった返す人並みをくぐるようにして、侘助は必死に先を行く八郎からはぐれないように付いて行く。

その背の丈では、一度埋もれてしまえば八郎と再び出会う事は困難なのだ。しかし、まるで本当に波のうねりの中にいるのかと思わせるほど人々は侘助をもみくちゃにしていき、ただ違うのは体を取り巻くのが冷たい海の水ではなく、熱いくらいの体温だったことだ。


そうしてその波におぼれかけたとき、ふと気付いたように八郎が振り返る。

「ああ、悪い悪い」

言うと八郎は左手を差し出し、侘助の小さな右手をつかんだ。

「折角だから、お参りでもしていこう」

と、そのまま侘助をぐいぐいと引っ張り、参道を進んでいった。

途中、侘助は何度もこけそうになりながらも、その右手を固く握り行く。

脇からは焦げた醤油のいい匂いだの、ふかした饅頭の甘い匂いだのが始終気を引いたが、八郎はそれより強引に手を引くものだから、目をやる前に通り過ぎ、本堂の前の門まではすぐに辿り着いてしまった。

境内に入るとやっと先ほどの混雑も僅かに解消され、袖の中を少し冷めた風が通り抜ける。

しかし八郎に引っ張られた右手は、打って変わって熱が籠ったまんまであった。


「悪いね、痛かったかい。この参道はあのくらい強引に行かなくちゃ通れないんだよ」

八郎は侘助の右手を解き、懐から懐紙を取り出すと汗ばんだ侘助の額を拭ってやった。


不意に、二人は視線を感じて、そちらに目を向ける。

向けて見れば、どこかで恐らく経を上げて来た帰りなのであろう、袈裟がけの坊主がじいっと目を凝らしてこちらを見ていた。

その視線に侘助はひやりとした。

相手が相手なだけに、もしや自分の正体がばれたのではないかと思ったのだ。自然と、思わず八郎の手のひらに爪を立てるように、右手を萎めた。

先ほどかいた汗が、重さをまして背中を伝う。


「謳秀さん」

坊主に呼びかけたのは八郎だった。

目が良くないのか、その声の主に漸く確信を持ったらしい坊主がにこやかに笑うと、八朗は坊主の元へ歩み寄り一つ礼をして、まだ固まったままであった侘助に手招きをした。

「おいで、ご挨拶しなければ」

果たして自分の正体がばれてやしないのかと、恐る恐る近付くと八郎の少しばかり後ろに隠れるように立ち、素早く頭を下げた。

「こら、ちゃんとご挨拶なさい。こちらのお坊様だよ。」

言われて侘助は改めてじっくりとお辞儀をしたが、どうも見透かされている気がして、いつ「狸め」といわれるのかと思うとはらはらし通しで、坊主から目が離せずにいた。


「侘助、失礼だよ」


八郎が言い咎めると「ああ、良いです良いです」と謳秀はにこにことして答えた。

年の頃は三十ばかりであろうか、ひき締まった体付きのその坊主は海老茶の袖から妙に逞しい手を覗かせている。

謳秀は侘助の頭のてっぺんから足の先までを流す様に見ると

「こちらはどこのお坊ちゃんですか」

と尋ねた。


「ああ、つい最近ご縁で知り合いましてね、賢い良い子なのですよ。」

八郎は誇らしげに話す。

謳秀は、ほうほう、と聞きながら優しげな目をこちらに向けるのだが、なぜか侘助はその笑顔をすんなりと受け入れがたく、握る手にじっとりと汗をかいていた。


「今日はね、お参りついでに色々と侘助に教えてやろうと思ってね、来たのですよ。」

「む、ついでなのはお参りの方でございましょう」

言うと二人は顔を見合わせてけらけらと笑いだしすと、そのまま談笑を始めてしまった。


傍らで手持ちぶさたになっていた侘助は、人が少なくなったのを良い事に、八郎の袖をぐいと引くと

「厠だ」

と言ってぷらぷらと境内を散策にでかけた。

実のことを言えば、これ以上歐秀の深い目に去らされる事から逃げたかったのだ。

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