その三
翌日、昼過ぎに本を読み終わると侘助は八郎のもとへと出かけた。直前まで、振り売りから戻った喜市が「ついて行こうか」と声をかけたが、昨日のことを根に持ってか突っぱねるように断った。
道場の場所を詳しくは聞いていなかったが、松吉が知っている道場ならば有名なところなのだろうと心配はしていなかった。思ったとおり、伊庭道場というだけで大抵の人は分かるらしく、侘助迷うことなくその門前まで辿り着くことができた。
着いたが、どうするべきか迷った。
中からはばしばしと打ち合う音が聞こえ、侘助が呼びかけても誰にもその声は届かぬらしく、仕方なしにうろうろと門前で迷っていると、先日八郎が連れていた中間がひょいとあらわれた。
「昨日の坊主か」
中間は侘助に気づくと、威圧的に見下ろした。
しかし侘助の方はちっとも臆することのない様子でうなずくと
「八郎はいるか」
と訊ねた。
「八郎様、だろうが。坊主めが」
中間は元々険しい作りの顔の眉間にぐっとしわを寄せ、睨むようにして小さな体に迫る。
道行く人が中間の恐ろしげな顔に何事かと、足を止め始めたとき、中間のうしろからひょっこりと打って変わって穏やかな顔をした八郎が姿を見せた。
「おお、侘助」
侘助を見るなり、八郎は少し青白い顔をぱあっと輝かせ歩み寄った。
「よく来たな。こっちへおいで」
真ん中でしかめっ面を引っさげたまんまの中間などはお構いなしという様子で、八郎は少し小さいその手を取ると、すぐに家の中引き入れてくれた。
ばしばしと打ち合う音の響く道場の脇を抜け、綺麗に整えられた庭の見える縁側に着くと八郎は突っかけた下駄を脱いであがり、侘助にこちらへ来るようひらひらと手招きをする。
侘助が草鞋をきちんと脱ぎ、縁側に飛び乗り見上げると、八郎は通りかかった女中に何やら言いつけていた。
見上げる視線に気づくと、八郎はにこりと笑いかけ「こっちだよ」と着いてくるように促した。
手入れが届いて黒光りしている長い廊下に足を滑らせると、ひんやりとして心地よく、少しだけぎしりと音がする。
侘助は足元の感触を確かめるように、足元をじっと見つめながら滑らせて進む後ろから、微かに木刀のぶつかり合う音がして、自然と耳でそれを追った。
「八郎はやらないのか」
「私はもとより体が強くなくてね。とても剣術などやっていけないんだよ。それに学問の方が向いているんだ」
何を指しての事かはっきりとせぬ侘助の言葉であったが、八郎はそれ分かったらしく、背を向けたまま答えた。どことなく、自分にそう言い聞かせているような口ぶりだった。
奥まったところにある八郎の部屋は、日の当たりも風の入りもよく、何とも心地よいもので、障子戸を開け放って見える庭の緑が部屋の中に反射している。
中は中で塵一つなく掃除され、ものも少ないが、文机の脇にはたくさんの本が綺麗に積み上げられていた。
風に乗って、吹き込んだ草いきれが部屋を巡る。
「お座り」
文机の前に二つ座布団を並べるとその片方を二度ほど叩いて示すと、八郎ももう片方に座り、脇の本の山から何かを探し始めた。
「八郎」
呼びかけられた声の発せられた場所が自分の隣ではないことを感じて振り返れば、侘助は立ったままである。
「どうした」
少し緊張をしたような面持ちで、侘助は懐に手を入れ、本を取り出した。
「汚してしまったんだ。すまない。」
そういって両手で本を差し出すと、ひょこと頭を下げて、また緊張の面持ちで八郎を見る。
見れば本の表紙はうっすらと白くもやが架かったように白んでいて確かに少し汚れていた。
怒るわけでもなくその手から両手で本を受け取ると、それを文机に置いた八郎は昨日のように優しく侘助の頭を撫でる。
「面白かったかい」
何も気にしていないような風に、八郎がにこやかに侘助に問いかけると、侘助はひょこりとうなずき
「でも、回りくどかったがな」
と、妙に大人びた口調でぽそりと口にしたので、八郎はけらけらと笑い出してしまった。
ふと、侘助は思い出したと言うように目をぱっちりと見開き、帯に挟んだ袋を取り出して八郎に突き出だした。
「わびだ。」
「私にくれるのかい」
再びうなずく侘助の小さな手から、端切れで作られた不器用な縫い目の袋を受け取る。
萌葱色をしたその中に手を突っ込み探ると、中から出てきたのは件の亀を象った飴だった。
「これはお前の所の旦那が作ったのかい」
「俺が作った」
相変わらずぶっきら棒な受け答えに八郎は「へえ」と感心して答えながら、手に乗せた亀を四方八方からじっくりと嬉しそうに見ている。
「で、何で亀」
問いかけてみれば、侘助は文机に置かれた先ほどの本を見つめ
「本が爺さまになったからだ」
と悲しそうに口にした。
「そうかそうか、お前の家は竜宮城か。通りで普通の子供とはおつむりの出来が違うはずだな」
八郎はけらけらと再び笑い出し「笑いすぎて頬が痛い」と両手で顔を覆った。目の尻にはじんわりと涙さえにじみ始めている。
「ありがとうな、侘助」
まだ顔を強張らせている侘助の頭をなだめるように撫でると、八郎は再び座布団をぽん、と叩き
「大丈夫だからお座り」
と促した。
その言葉に漸くほっと胸をなでおろした侘助は、飛び乗るように座布団に座り横を見ると、八郎は亀を見つめまたくすくすと笑う。
丁寧にそうっと文机の上にその亀を置くと、八郎は本棚から本を何冊か出し、それを侘助に選ばせて綺麗な風呂敷包身の上に置いた。
そして「おまえには物足りないかもしれないけれど」と言うと、絵草子をその上にぽんと乗せ、包んでくれた。