そのニ
「侘助は棒手振りの旦那の所に世話になってるんでさ」
松吉はまた、自慢げに口を出す。
八郎は、そうかそうかと呟いて頷くと不意に店の外へと出て行き、待たせてあった中間に預けた風呂敷を受け取って戻ってきた。
「お前、文字を読むのは達者かい。良かったら好きなものを持って御行き。どれも面白いぞ。」
そういって、八郎は脇の待合用の腰掛に風呂敷包みを広げ、本を何冊か取り出した。侘助は腰掛の前にしゃがみこむと、しばし本をめくったり何行か読んだりした後、その中の一冊を手にした。
寄り添ってしゃがむ二人の後ろにいつの間にかに立っていた中間は、腕を組み怪訝そうな顔で、嘲る様に
「八郎様、こんな町民の坊主に、あなたのお読みになるような本が分かるはずがありますまい」
と鼻で笑った。
それを咎めるでもなく八郎は、再び侘助の頭を撫でる。
「分からないことがあったら、いつでも私のところにおいで。教えてあげよう。読み終わったなら、新しいものも渡そう。いいね。」
そう言うと、侘助の背にあわせてしゃがんでいた膝を伸ばして、背をしゃんとさせ松吉のいる番台へと向かった。
「貸してくれるかい」
文机の上に置いてあった筆と紙を取り、なにやらすらすらと書きつけ筆をおくと、紙にふうっと息を吹きかけ、侘助の方にかざした。
「これが私の名だよ。伊庭八郎と読むのだよ」
八郎は再び卓上に紙を戻すと、侘助においで、と手招きをした。
「お前、自分の名前は書けるかい」
問われるや、またも侘助は頷くでもなく番台に飛び乗り筆を手にして
『侘助』
とすらすら書いた。
持ち帰った紙で、伊庭の名前の隣に書かれた侘助の名を喜市も見たが、まるで子供の書いたものとは思えぬ、豊かで美しい文字であった。
もちろん、八郎も大層驚いた。
すごいすごいと褒め仕切り、すっかり侘助を気に入ってしまったのだ。
上機嫌の八郎は侘助を家に招いたが、侘助は「使いの途中だから行けぬ。」とにべもなくすっぱり断ってしまった。
しかしその物言いに機嫌を悪くするどころか、余計に八郎は気に入ったらしく、笑いながら店にあったかりんとうをごっそりと買うと
「きっと、またな」
と言って、それを侘助に渡して機嫌よさそうに去っていった。
「あれは伊庭道場の坊ちゃまだ。どうも体が弱くいらっしゃって、もっぱら学問かぶれらしいぞ」
八郎が去った後で松吉がそうこそりと教えてくれたという。
「お前、随分なお方に気に入られたもんだねえ」
剣術に縁のない喜市でも、伊庭道場こと練武館は知っている。ここからもそう遠くはない有名道場で、江戸の四大道場にも数えられるほどだ。
侘助の話の限りでは、本を汚したことを厳しくしかりつける人ではないだろうが、ただ、なんにつけても失礼なことに変わりはない。
それにしても、侘助が利口なことは知ってはいたが、まさかそこまでとは思わずに喜市は驚いていた。
「どうしたものかねえ」
腕組みしつつ、喜市がお詫びの方法をあれこれ悩んでいると、侘助が不意に立ち上がって流しに積んだ桶の中にある飴を取り出してきた。
侘助は喜市が細工してたのを何度か見るうちにやり方を覚えたらしく、器用に練り直すと鋏をねだり、それでちょきちょきと飴を切りながら何かを作り始める。
風呂に行く用意を傍らに整えつつ、喜市は部屋に上がると腰を落ち着け煙管をふかしてその様子を見守った。
四半刻ほどして、やっと侘助の手を離れた飴を見てみれば、立派な亀である。
「何で、亀」
細工をまじまじと見ながら喜市が問うと
「本がじいさまになったからだ」
侘助は白く埃のついたようになった本に目を落とし、悲しげに口にした。
その様子が、何とも妙に子供じみていて可愛らしく、喜市は思わず頬を緩ませ、笑ってしまった。
その笑い声に、侘が口を尖らせると喜市は益々可愛らしく思えて笑うので、仕舞いには侘助は怒ってしまい
「明日は付いてこなくていい」
とすねて、一人で八郎のもとへと行くことにした。