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その拾四

泥水を跳ね上げた袴は既に裾を染め分けたように色を変え、いつもは綺麗に整っている鬢は乱れ、散々たるものだ。これがどうしてあの伊庭道場のお坊ちゃんだと気づこう。

男は喜市の家の前で立ち止まると、切れた息を方を上げて整えている。


と、その時、背後の気配に気付いた男が振り向き、侘助を見つけると驚いたように声を上げた。

「侘助、お前はこの長屋だったのかい」

侘助に驚いた顔もつかの間、八郎はすぐに神妙な面持ちになって侘助に尋ねた。

「侘助、喜市というのはこの長屋の男で良いのだな」

侘助は困ってしまった。ここを知られた原因はあの棒手振りしか心当たりがないので、迂闊にいないと嘘を吐く事もできない。


聞いた事がないと言えば、今にでも他の長屋に行って聞き込みをするかもしれない。

そうすれば確実に喜市の顔が知れてしまう。


「いないぞ」

その一瞬を長く感じながら、侘助が悩みぬいて出した答えがそれだった。

「出かけているのか」

矢継ぎ早に八郎が聞いた時、侘助は背にした戸の向こう側に誰かが近付くのを感じた。

「喜市はさっき女を連れて帰ってきたんだ。それで荷物をまとめたらどっか行っちまった。」

慌てて戸の向こうにいる者に聞こえるように話した。

果たして喜市は合図に気づいてくれただろうか。清次郎が思いがけず「喜市」だなんて声を出しやしないか、背中を汗が伝う。


「松前だってよ」

不意に侘助の後ろの戸が開き、喜市の声がかかる。合図は無事伝わったようだ。

「なんだ、里の親が危篤だとかで今日帰るつもりだったんだが、妹がいないとか騒いでてさ。やっと見つけたと思ったら、落ち着く間もなく帰ってったよ。」

苦しい言い訳である、と侘助は顔をしかめた。

しかし幸いにも八郎はそれを聞いて単純に「ああ、この人達も騙されているのだ」と思っただけで、特段気には留めてはなかった。


「松前、と」

「ああ、もとより松前から来たらしい」

喜市が松前と言ったのは、八郎が変な気を起こさぬよう、目一杯遠くの地を持ち出した結果だ。

体の至る所から雨のしずくを滴らせながら、八郎は立ち尽くす。

「どうしたい御武家様、おぐしがひでえや。入って拭いていくかい」

「いや、平気です。かたじけない、失礼した」

少しの沈黙の後、八郎は喜市に向かって綺麗に一礼をすると、侘助に照れた様な笑みを微かに浮かべた。


「もしやあなたは、侘助の親御代わりの」

八郎がはっと気付いた様に目を向けて聞くと

「ああ、侘助がいつも世話になってるようで、八郎殿。私は佐兵衛と申します」

といって、喜市は姿勢を正して深々と礼をした。


「いや、礼を申し上げるのは私の方です。侘助がいると私も学問がはかどるので。お恥ずかしいところをお見しまして」

八郎は乱れた髪を素早く直すと再び礼を返した。

「じゃあ、侘助また明日な」

そのまま侘助の頭を一撫ですると、八郎は寂しそうな背中を見せて立ち去った。

まるでいつもの凛々しさのないその背中は、見ているとなぜか悲しくなった。


駆け寄って、全て話してやりたくなって、侘助はだらりと下ろした両手をぐっと握ってその衝動に耐えた。

「はあ、いい男だねえ、あれは。眉目秀麗で頭もよろしいなんて、見る目あるじゃねえか」

その声に侘助が振り返ると、冷やかす様ににやりと笑う喜市に乱暴に頭を撫でられ、視界がぐわぐわとぶれる。


不思議そうに今までの様子を見ていた清次郎には

「喜市って名前の悪評が先生に届いちゃ、侘助がかわいそうだからな」

などという喜市の適当な説明があてがわれた。

清次郎は解せぬ感じで一度首をひねったが、酒の酔いが手伝って、さほど考えずに「そうか」と納得してしまった。


そんな二人のやり取りを他所に、侘助は心ひそかに、八郎が追って来てくれたことを嬉しく感じていた。

はじめ八郎の姿を見た時は、もしや退治のつもりで追って来たのでは、と肝を冷やしたのだが、いとがここにいないと知った時の八郎の顔を見れば、それは間違いであると確信せざるを得なかった。


自分に会いたくて来たのだ、と思うと、胸の中をささくれ立った嬉しさが巡り、甘く苦しかった。

ふと気付くと、喜市は再び緩んでしまった侘助の手ぬぐいを直し、何やらぼうっと考え込んでいた侘助に笑いかけている。


「悪いが清次郎殿、今日は酔ったや。泊まらせてもらうよ」

と、残った酒をぐっと飲み干すと、喜市は乱暴に横になってしまった。

「ああ、構わないが、それなら侘助も泊まるか」

頬を酔いで染めながら心配そうに聞く清次郎に、寝転がったまま片手を横に振ると

「侘助だってもう一人で寝れらあ。酒臭い方が嫌だろうよ」

と言って、わざとらしく大あくびをした。


清次郎は「ああ、そうかい」と言いながら、またもや不思議そうな顔をしていたが、構うことなく喜市は侘助に「布団で寝ろよ」と声を掛けると目を閉じてしまった。


一人きりになった喜市の部屋の古びた天井を見上げて、侘助は、今日が雨でよかった、とまだ少し冷えたままの体で目を閉じた。

雨音が思考を紛らわす中、知らぬ間に頬からは、一体この体のどこにあるのだろうと思うほど、熱いくらいの涙が止めどなく流れ出て驚いていた。


そうして気付けば侘助はわんわんと声を上げて泣いていたのだ。

しかし幸いにも、雨音がきちんとそれすら紛らわせてくれている。


この雨が去れば、もう夏は盛りを迎えるだろう。

晴れ晴れとした空はさぞかし気持ちがよかろうと思い浮かべれば、尚も浮かぶ八郎の晴れ晴れとした笑顔も浮かぶ。


侘助は目を開け、思いついたように、畳の上に放られた件の散薬を一つ、口に含む。

苦々しい香りと味が一瞬で口の中で膨らんだ。


「やぶめ」


一言呟くと、侘助は今度はそっと目を閉じた。



時は流れて元治元年、外はしとしとと降っていた秋の雨が、勢いを増してきている。

お陰で部屋はびろうどの厚い幕を下ろしたように、周りの音から遮られて、ただゆったりと時間が流れていた。


「奥詰とは、御出世でございんすな」

白く細い手で酌をするのは、吉原の花魁で左近といって、もう既に立派な青年となった八郎が、足しげく通う稲本楼の女だ。


「これからはお忙しくなりんすなあ」

伏し目がちで、少し間延びしたようなその言葉が、左近のしみじみとした寂しさを感じさせる。もちろん八郎もそれは重々承知であったが

「変わらず会いにくるよ」

とは言いがたい世の中の混乱が、二人の一時の邪魔をした。


「お前も益々忙しくなるね、小稲はここの看板だろう」

八郎は左近の肩を落としている寂しさを払うような笑顔で言った。

小稲、とはここ稲本楼において筆頭の花魁が襲名する看板である。

年明け、左近は先代の小稲身請けを待って襲名する予定なのだ。


「忘れられないように気をつけなくっちゃあな」

といたづらっぽく笑う八郎に、左近は漸く口許をほころばせた。

八郎は、この女の花の蕾がほころぶような笑顔が好きだった。

「しかし、酷い雨でありんすな。駕籠を使っても濡れましょう」

左近が戸を引けば、外は浮世絵さながらの線を引いたような雨が絶え間なく降っている。

「そういえば」

暫く二人で外を見つめていたあと、八郎がぽつりと口にした。


「私がまだ学問小僧だった頃にね、狸に化かされたことがあってね。ちょうどこんな雨の日で、お前にそっくりな狸だったよ」

「まあ、わっちが狸顔と申しんすか」

左近がわかりやすく、むう、と頬を膨らますと、八郎は嬉しそうに酒を一口飲んだ。


「違うよ、狸がおまえそっくりの女に化けたんだ。美しくてね、すっかり虜になったんだけど、まさかしっぽが生えていようとはなあ。すっかり騙されてしまってね。だから、おまえを見た時は驚いたよ」


左近は再び酌をしながら「本当でございんすか」などと笑いながら聞いていたが、八郎は何かに気付き慌てて言った

「だが、だからお前を選んだのではないよ。お前の心に惚れたのだ」

言ってから、八郎は恥ずかしさについ視線を外へと逃がしたが、左近がその顔を覗きこむようにして

「じゃあ顔は好きではありんせんか」

といたづらっぽく笑う可愛らしさには、参ってしまっていた。


「わっちも」

雨戸を閉め、左近は障子に手を掛けたまま、思い出した様に口にした。


「狸さんにあいんしたな」

「へえ、どこで」

八郎は酒の手を止めた。

「浅草で。丁度わっちがここにきた日でありんす。お寺さんの脇で。小さな可愛い子で」

「化け狸か」

まだ言い終えぬうち、かぶせる様にして真剣に聞く八郎がおかしくて、左近は思わず笑ってしまった。


「ええ。まさかこんな町の中で狸さんが化けているなんて驚きんした。小さい頃から、そういうものは人気(ひとけ)のない所で見るものではありんしたが」


「化け物が分かるのか」

「まあ、あんな可愛らしいものを化け物と言うのなら、吉原なんぞ百鬼夜行じゃ」

息を詰めながら聞く八郎をあやす様に、左近はころころと笑う。

「化けるなんてのは、化粧(けわい)となんぞ変わりんせん。人を化かすと言っても、狸さんの方がここに先に住んでいたんじゃ。それなのに人に合わせてくれるなんて、ありがたいことじゃありんせんか」


左近はそう言うと、横にいた禿(かむろ)に「茶を持っておいでなんし」と囁いた。

八郎はそれには気付かぬ様子で、酔ってほんのり染まったほほをして、それもそうだなあ、などと、俯きながら呟いた。


「それでその狸はどうしたんだい」

「すこうし、話をして。最後にわっちの名をその子に預けんした。」

「名を」

その言葉に、左近はわずかに上の空で頷く。

どうやら目は、あの頃を追っているらしかった。


「家を出てから吉原に来る日まで、わっちが言葉を交わしたのは、女衒(ぜげん)以外にはその狸さんだけでありんした。

それでね、わっちはわっちの名が無くなっちまう前に、その狸さんに預けたんでありんす。」


言いながら左近は、何かを思い出したらしく、穏やかにほほ笑んでいる。

普段は江戸っ子らしく、どんなに興味があってもあっさりとして人の話に深く立ち入らない八郎であったが、今回ばかりは聞かずにいられず、再び聞いた。


「その狸、名は何と申したのだ」

「いと、と」

八郎はその言葉に、心の臓が止まるかと思った。

いとによく似た左近の口から出た

「いと」

と言う言葉。

一時は夢かと思ったあの出来事が、頭の中で鮮やかに蘇る。


「でも、いと、はわっちがつけた名前でありんすが」

ふふ、と八郎の呆気にとられたような顔に、左近は笑いかける。

「お前がつけたのか」

「あい、その子の名がまるで男子(おのこ)の様だと申しんしたら、それならおなごの名を付けてくれと言いんしたので。また縁を手繰り寄せていつか会えるように、いと、と名付けんした。」


懐かしそうに目を細め、左近は不思議そうな顔で聞く禿(かむろ)に「まことじゃ」と笑って話していた。

しかし八郎は少しも笑うことができず、左近の言う「いと」とあの日自分の目の前から去った「いと」が同じだという確信に、体の芯が震えた。


「何とも、お前の名付けた通り、奇妙な(えにし)のお陰だな」

突然の言葉に、左近は首をかしげたが、少しして察したのか、深くうなづくと

「本当に」

と口にして、運ばれた茶を八郎に差し出した。


「いつか、松前に行きたいなあ、その時はお前も来るかい」

その茶をぐいっと飲み干すと、伸びをしながら言った。

余りに突拍子もない言葉に、左近はまたころころと声を上げて笑い

「ぜひに」

と八郎を優しく見つめる。


八郎の帯で、龍の根付けがゆっくりと揺れた。

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