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その拾三

いとが去った直ぐ後、八郎は一人残された古びた部屋でただ後悔の念に駆られていた。

あのように怯えるいとの目を見る事など、いつ望んだだろうか。

言い分くらい、聞いてやっても良かったんじゃないか。

降りしきる雨の音と同じほどの胸のざわめきに、八郎は痛みに似たものを覚えた。


最初から、いと不自然であることなど分かりきっていた事であった。

わかっていながらそれを無視していたのは自分であったのに、と八郎は自分を責めるものしか見当たらず、乾き始めた下唇をぐっと噛んだ。


どれほど呆然としていただろう。時を告げる鐘の響きに、ふと我にかえった。

ここにいたところで、もうどうにもならないことは八郎にも十分に分かっていたが、しかしここを立ち去るのも、淡い夢から覚めるような妙な寂しさが涌き、後ろ髪を引かれる気分であった。


ようやく家から出てみれば、大通りまで出る道の心配が頭をよぎったが、どういう訳か二三道を曲がるとすぐに大通りに突き当たり、はたともう一度家へと戻ろうと振り返ると、そこにはもう先ほどの光景はなかった。


「やあ、すっかりだまされたのだな」

呟いた八郎に、自然と自らを嘲笑う様に少しの笑みが浮かぶ。

段々と自分が今までいとと過ごした時間までもがまやかしの記憶、夢うつつの物語のように思えた。


力の入らない足に体をゆだね、再びとぼとぼと歩き出す。明かりもなしに、雨の中を歩くのは、返って落ち着いて良かった。なだめるような雨音に身を包んでいれば、穏やかな気持ちになり、八郎はその些細な悲しみも包んでしまえる気がしていた。


大川を渡る頃には雨が益々重く笠を打ち、さしているのがおっくうになり、いっそ濡れてしまった方が楽なのではないかと、それを傾けた時であった。


「しかし、さっきの娘は別嬪だったなあ。さしずめ水も滴るいい女だよ」

端の袂に出ている店の軒下で、棒手振り風な男の一人が酒を飲みながら言う。


いとだ。


と、八郎は反射的に思った。思った時にはもう、八郎はその棒手振りに

「その娘はどこに」

と食いつくように尋ねていた。


棒手振りは強張った表情の若侍に驚いた様子であったが、その必死をくみ取ったようで

「ああ、この通りをずうっと行ったよ。こんな暗い中ずぶ濡れで歩いてるもんでね、俺らの棒手振り仲間が見兼ねて連れてっちまったよ。なんだい、お前さんの色かい。」

まだ少年のあどけなさを残す若い侍を冷やかすように、棒手振りは、へへっと笑った。


「その棒手振りがどこにいるかわかるか」

しかし余りに手一杯な感情のせいで、八郎は冷やかしさえ分からずに急く。

「わかるが、お侍様、あれは昨日今日の仲じゃないですぜ。なんせ俺らがいるのにこんな往来で抱き合っちまうくらいだ。わるいこた言わねえ。江戸っ子なら潔くあきらめねい」

だが実際の所、棒手振りが「抱き合って」いるように見たのは、泣くいとをあやすの背に手を回した姿である。暗闇と雨のせいで、佐兵衛にはそのように見えてしまっていたのだ。


八郎を落胆させるのにそれは十分なものだったが、なおもいとを追いかけたいという僅かな火種が胸の内にくすぶっていた。

いとは確かに存在したのだ。

棒手振りがいとを見たと言ったことで、八郎の中のいとはみるみる姿を確かにしていくことに、どこか安堵が産まれていた。

かくなる上は、会って確かめたいと思うのも仕方ないと思うくらい、心は浮つき始める。


「わかっている、ただ、聞きたいことがあるのだ。恨みつらみや憎しみでもない。その棒手振りはどこに」

八郎は棒手振りの忠告を聞かず、渋る棒手振りに頼み込んだ。

そのあまりの熱心さと、確かに恨みなどとは無縁の凛々しさに、棒手振りは根負けして、ついには八郎に喜市の所在を教えたのだった。


「かたじけのうございます。私は伊庭八郎と申します。」

綺麗に礼をすると八郎は、いとたちの去った方へとかけて行った。



「このように騙すようなこと、良いのであろうか」

「そんなこと言いながらこの酌を受けてんのはどこのお方だい。なあに、大家殿はとっくに気付いておられるさ。じゃなきゃこんな良い酒くれやしないよ。」

雨の音が響く長屋で、清次郎は喜市から酌を受けると一瞬ためらいつつも、その後振り切るように一気に酒を飲み干した。


ついさっきの事である。

わけあって喜市は長屋の大家の所へ行き、酒をくれるように頼んだのだ。


「長吉殿、夜分御免。」

大家の長吉の家は、長屋を入って直ぐ手前にあるほんの僅かだけ他の部屋よりもしっかりとした作りの板戸の家である。

喜市がその戸をどんどんと叩くと直ぐさま戸は開き、中からは年が四十程で色の浅黒く人の良さそうな空豆面が出て来た。


「どうした喜市。ああ、そういやさっき、女連れ込んだそうじゃないか。どこのどいつだい。お前もやっとまた身を固める気になったのか」

大家特有のお節介が口からぽろぽろとこぼれ出すのを遮るように、喜市は懐から先ほどの石田散薬を取り出して言った。

「長吉殿、酒を分けて欲しいんだ、一合ほど」


はて、と呟いて長吉は喜市の持つ薬に目をやった。

「侘助が足くじいちまってね。薬はあるんだが、酒で飲むらしい」

喜市はさも難しげな顔をして言う。


長吉がしげしげと見る薬の袋にある注意書きには、なるほど「酒をもって服薬す」と書いてある。

「こんな薬ははじめてだなあ。わかった、一合だな」

長吉が首をひねりながらも、酒を取りに棚へ向かおうとしたその時


「いや、一合じゃたらねえな」

喜市は益々難しそうに言うので、長吉は足を止めた。

「何でだい」

「実は俺もこの薬は初めてなんだ。大丈夫だとは聞いたが、飲んでもし侘助に何かあったら困るなあ。ああ、困る困る。ここは一度俺が飲んで確かめねば。よって、計二合頂きたい。」


あまりにうさん臭い話を悪びれずに喜市が言うものだから、長吉はあっけに取られてしまった。

「なんでい随分図々しいじゃねえかよ」

しかし、喜市が侘助と二人分の食い扶持を、時には清次郎の分までみているのを分かっていたので、ただの口実だと長吉はわかっていながらも良い酒を二合、喜市に振る舞ってやったのだった。


挙句、おまけだ、と侘助用の干し芋をつけてくれた。


「持つべきものは世話焼き大家だな」

喜市は片手で茶碗を拝むと、酒に口をつけた。

にわかに酒宴場となった清次郎の部屋には、火鉢であぶった芋の匂いが立ち込める。

外の冷たい雨のせいで、火鉢の暖かさは全く気にならなかった。


不意に、侘助が立ち上がった。

「どうした、厠か」

侘助がうなづくと、喜市は傘がわりに侘助の頭に手ぬぐいを二枚重ねてかけてやった。

相変わらずに外は激しい雨で、実の所、侘助は厠に行きたいわけではない。

喜市が気を回してくれていることに有り難いとも思ったが、どうも頭からは今日のできごとが離れず、このまま喜市の部屋で寝てしまおうと思ったのだ。


侘助が外に出て戸を閉めた瞬間、激しく水を跳ね上げる足音がこちら目掛けて向かって来た。

その音に思わず顔を上げた侘助が見たのは、もはや見慣れた男の姿だった

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