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その拾二

「おい、喜市見てみろ。ありゃあえらいべっぴんさんだな」


大店の軒下を借りた屋台で喜市が仕事終わりに棒手振仲間と一杯酌み交わしていると、仲間の一人で金魚売りの佐兵衛が往来を指差す。

言われて見てみれば若い娘が傘も差さずにすぶ濡れで歩いていた。

「いやしかし何でえ、あんなかっこで不気味じゃねえか。気狂いの類いかねえ」

ざる売りの権八が眉をひそめながら酒を飲み干して言うのを、喜市は田楽を頬張りつつ聞いていた。


広小路に何軒かでている屋台の明かりにぼんやりと微かに浮かび上がる顔は、佐兵衛の言う様に確かに美しくもあるが、どことなく痛々しさを感じずにはいられなかった。

少しの間、娘を目で追っていた喜市は、娘が闇間に消えようとするのを見ると、いきなり立ち上がり

「おい、権さん、ちょいと払っておいてくんねえ」

と言い、権八の野次を背に受けつつ席を立って女の後を追った。


「おい、待ちなよ。風邪ひくよ」

喜市は横に並んで歩き呼び掛けたが、いとはその重たげな足を止めようとしなかった。

「おい、娘さん」

二三度そう呼んだ後だった。


「おい、侘助」

痺れを切らした様に、喜市が少し声を荒げるといとは立ち止まり、聞き慣れた声にはっとしたように顔を上げた。

「あァあァ、ひでえ顔しやがって。折角佐兵衛がべっぴんだって褒めてたのによ」

喜市はそう言いながらいとの手を引くと、もう閉まった脇の店の軒下へ入る。

いとは驚きを隠せない顔で、ただ喜市を見つめるので精一杯だった。

「お前ねえ、風邪でもひいたらお医者に見せなきゃいけないだろ。狸だなんてバレたら大騒ぎになるんだぞ」

ふところに入れていた手ぬぐいを取り出すと、いとの目に押し当て「押さえてな」といとの手を取って手ぬぐいの上へと導いた。


止めど無く流れて来る涙は、喜市のごわごわとした手ぬぐいに吸い込まれて行き、嗅ぎ慣れた匂いが鼻の奥に忍び込む。

「何で、分かった」

いとは目許を押さえたままでようやく口を開いた。

「昔っから、夜道に現れる怪しい女は、狸か鷹かって決まってんだよ」

そういって喜市はいとに分かる様に、付けていた椿の帯留めをつついた。

実はこの帯止めは喜市が作ってくれたものだったのだ。正しくは、遊びで近所の子供に作ってあげていた帯止めを、侘助が欲しがったのでやったのだった。

椿は、侘助の気に入りの花なのだ。


「良く見えたな」

「そらそうだよ。あいつらが迷子になっても目印になるように立派に磨いて、分けてもらった漆まで塗ったんだよ」

そっと手ぬぐいを除けて隙間から見れば、なるほど確かに闇の中でも僅かな明かりでその艶が分かる代物だった。

「よし、帰ろう。最近お前の帰りが遅いもんだから清次郎どのが気をもんでるんだぞ」

喜市はあやすようにいとの頭を手のひらで優しく二三度叩くと「ちょっと待ってな」と言って先ほどの屋台まで戻っていった。


仲間に何か野次られたりしながらも、権八からざるを二つ拝借して帰ると、喜市はその一つをいとに差し出した。

「あまり役に立たないが、無いよりましだろう」


そういって笑う見慣れた顔にあまりにほっとして、侘助はこらえきれず、ついに小さな子供の様にわあっと泣き出してしまった。

走ったのと泣いているのとで喉はもうからからだったのに、喜市が余りに優しく背中を叩いてあやすものだから、涙は止めども泣く流れた。


「いけねえ、侘助、木戸が閉まっちまったら面倒だ」

しばらく泣いた後、一つ目の鐘が鳴ったのを耳にして喜市は慌てて侘助にざるをかぶせ、冷えきってしまった白くしなやかな手を引いて雨の中へと駆け出した。


しかし直ぐに喜市は侘助の引きずる様な足の様子に気付いた。

八郎の元から必死に走り去るうちに、足を捻っていたのだ。


仕方なしに嫌がる侘助を無理やりにおぶって走りだしたが、喜市の背中に揺られるうちに、泣き疲れた侘助はその体温と振動にあやされる様にうたた寝をしてしまい、ようやく目を覚まして長屋に着く頃にはもう鐘はとっくに夜は更けていた。


途中までの木戸番は、喜市の顔で何も言わずに通してくれたが、喜市の長屋の木戸番だけは怪しんで「誰でい」と若い女の素性を喜市に問い掛けた。


しかし、喜市があっさりと「侘助でい」と答えたものだから、木戸番はそれを喜市が女を連れ込む言い訳だと思い込み、笑って通してくれた。

「不始末もたまには役に立つもんだよ、女連れ込んでもだあれも何ともいいやしねえ」

部屋に入ると漸く喜市は侘助に話しかけ、侘助を背中からおろして綺麗めの布巾を取り出すと、一つ渡して自分は背を向けて体を拭きはじめた。

しかし、侘助は布巾を手にしたままじっと立ち尽くしている。何の音もしないことを不審に思った喜市が振り返れば、そこにはまだ心細げに表情を歪める少女の姿の侘助がいた。


「侘助、見ねえから、化けるんなら化けちまいな」

そういって再び振り返った喜市に、侘助はやっと安堵した。長い沈黙にくわえて、背を向けられたものだから、もしや大層怒っているのではないかと不安になったのだ。

しかしなるほどそういうことかと合点すれば、それからは早かった。


「わかった」と侘助の返事が聞こえてすぐ、喜市は自分の膝にすり寄るものを感じ、驚いて声をあげた。

「この方が拭きやすいだろう」

と、毛艶の良い可愛らしい狸が喋る。

「ああ、違いねえが驚かすなよ」


喜市はけらけらと笑いながら、かくように侘助を拭いてやった。

「喜市、侘助は戻ったのか」

その笑い声を聞きつけてやってきたのか、戸の向こうからいつもの声がする。

「ああ、戻ったよ清次郎殿。どうぞはいっとくんな」


戸を開けて現れた優しげな顔のその男は狸を見て少し目を丸くすると、直ぐに頬を緩めて侘助を抱き上げ、尻を一つ大きく叩いた。


ぎゃっ、と叫ぶかわりに、侘助は獣の鳴き声を高く一声上げると、くりくりとした目を清次郎に向けた。

「遊んで来るのは構わないが、心配をさせてはいけないよ」


少し厳しい言葉に侘助がうなだれると、清次郎は置いてあった布巾を取り上げ、ぼさぼさの毛並みを整える様に優しく拭いてやった。

傍らで喜市は自分の体を拭きながら、わずかに笑みを浮かべてそれを見ていた。

侘助が元々女であることは前から知っていた。


ある時喜市の隣りで寝ていて、うっかり気が緩んだのであろう侘助が狸に戻っていた時に気付いた。

だから何となく、今回侘助が年頃の娘に化けていた理由も、泣きながら帰って来た理由も分かった気がした。

見掛けはいくら子供といえど、それは化けたのちの姿でしかなく、本当の所はさっきの娘の姿こそ、侘助に相応の姿なのかもしれない。


そして恐らくその姿は八郎の為だったのだろう。


朝な夕な、八郎から教わったことを喜市に教える侘助は楽しそうだった。

しかしそれを一切口にする事がなくなったのが、侘助の帰りが遅くなりはじめたときだった。

その時喜市は何かあるのだなと感じ、帰りの遅い事には段々と口だしをしない様になっていたのだ。


そして今日泣いて帰った、という理由は、やはりそういう事なのだろう。


「清次郎どの、侘助足を捻ったらしいんだ。湿布なんぞ持って無いかねえ」

聞くなり清次郎は侘助の後ろ足を念入りに探った。

「だいぶ腫れてるなあ。生憎湿布は切らしててね、明日岸本殿に見て貰おうな」

と言って足をなでた刹那

「あ」

と清次郎は少し間抜けな声をあげた。


「ちょっと、待っていてくれな」

一人で焦るさまに呆気にとられた二人を残して、清次郎は自分の部屋へと戻ると、片手に何かを持って、十数えるまでもない早さで戻って来た。

「それは」

膝に乗った侘助を拭きながら喜市が訝しげに問いかける。

「いや、今日な、律真館に妙な道場破りが来てね」

律真館とは、清次郎が稽古をつけに行っている剣術道場である。

剣術の達者な清次郎は口入屋の紹介で、最近同流派であるその道場で臨時の師範として稽古をつけているのだ。


「多摩の方から出向いて来たらしいが、自分が勝ったら薬を買ってくれと仕合いを申し込んで来てね」


「清次郎殿負けたのか」

「まさか、負けては皆伝をお返しせねばならぬよ。しかし、筋のいい男でね、目なんかはこう、まるで三日月の切っ先の様な光さ」

剣の話となると長くなるのを重々承知していた喜市が

「それで、その薬は」

と遮る様に聞くと、清次郎は「すまんすまん、仕合いの礼にともらったんだよ」と包みを開いて見せた。


「石田散薬。聞いた事ねえな」

包みの文字をまじまじと眺めて呟いた。

「何でも打ち身なんかによく効くらしい。その足にも効くかもしれんな」

得意げに話す清次郎にふうん、と喜市が相づちを打つと、侘助が後退りを始める。


以前岸本からもらった漢方の余りの苦さに、侘助はすっかり薬が苦手になったのだ。が、理由はそれだけではない。

「どうする侘助」

悪戯っぽく笑う喜市が聞き終える前に侘助は首を振った。

「だよな。清次郎殿は優しいがお人が良過ぎるのが玉に傷だ」


それに頷くと侘助は直ぐさま喜市の後ろに回り込んでしまい、清次郎は困った様に

「そうかねえ、ああいう男がわざわざ人を欺いて売り物するかねえ」

などと、相変わらずお人好し丸出しの顔で呟くものだから、喜市はたまらず吹き出してしまった。


侘助はその傍らで笑う喜市や怒る清次郎を見て笑ううちに、何だか先ほどの八郎とのことが、まるで夢物語で自分が化かされた事かの様に思えて来た。


しかし、あの目を思い出すとぎゅっと胸が締め付けられる思いがして、この気持ちを拭う薬ならいっそ苦い方がいいのかもしれないとも思っていた。

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