その拾一
「これでは、余計に落ち着きようがございません」
遠慮がちに小さくつぶやく声に、八郎は自分の邪な心を顔から火の出そうな程に恥ずかしくなってしまい、それはもう急いでいとから離れたかったのだが、胸の高鳴りのわけをごまかす様に
「ああ、そうか」
と言って、さも穏やかな振りをして離れた。
すると、ぽとり、と畳の上に何かの落ちる音がした。
みやれば、椿の小さな帯留めである。
抱き留めた時に、何かに引っ掛けてしまったのだろうか、しかし随分と季節外れなものを着けるのだなあ、などと思いつつも
「申し訳ない、落としてしまった」
と言っていとの手を取り、その掌に椿を戻した。
いとが椿を受け取るなり顔を赤くしたまま手を引っ込めたので、八郎は自分の不躾さを恥じつつも、そのいとの仕草が可愛らしいくて思わず頬が緩んだ。
「大丈夫ですか、お医者を呼んでこようか」
「いいえ」
いとは間髪いれずに首を横に振った。
「よくある事で、慣れておりますから」
しかし、そう言ういとの目は何だかぼんやりとして酔っている風で、まるで平気には見えなかった。心配する八郎の頭の中に、ふと、自分の印籠の中身がよぎった。
いつも使っている薬の他に、昨日秀文から受け取った例の気付らしい薬を入れていたのだ。
「いと殿」
胸元に入れた印籠の紐を探るとそれを手繰り寄せて出し、中から一包み取り出すと、それをいとに見せた。
いとはそれが何か分からない様子でただぼんやりと眺めていたが、八郎は「少々お待ちを」と言うと湯飲みを一つ拾い上げて、ふうっと息を吹き掛け埃を掃い、落ちた鉄瓶に残った湯をそこに注いでいとに差し出した。
「これは昨日お坊様からいただいたものでね、恐らく気付の類いなのだが、飲まれると良い」
「坊様に」
やや訝しげに首をかしげて聞き返すいとに、八郎はしまったと思った。
「いただいた」だの「おそらく」だので、いとは不安になったようだった。
「大丈夫、自慢じゃないがこういう薬はもう目をつむっててもわかるくらい慣れているんだ」
実際、幼い頃から病弱で、色々と薬を処方された八郎はそうであった。
そう言うと八郎は、湯飲みを置いて薬の包みを開き、指の先でほんの少しつまんで口に入れた。
「ほら、やはりきつけだ」と確かめて言うつもりであった。
しかし、八郎を襲ったのは気付特有の苦みなどでは無く、恐ろしいほどの目まいであった。
座っていても倒れてしまいそうで、八郎は目を閉じて思わず畳みに手を突いた。
いとが何度も「八郎様」と呼んでくれているのはわかったが、その声もまるで水の中で聞いている様にくぐもって聞こえて、川の大きなうねりに飲み込まれる様であった。
大きな歪みが波が引くように去って、八郎がようやく俯いたままで目を開けると、その目に飛び込んで来たものは先ほどまでの青々とした畳ではなく、枯草色をして所々がほつれた粗末な古ぼけた畳であった。
目の端に映る、先程八郎が湯を注いだ茶碗は大きく欠けていて、その割れ目には長年かけて積み重なったであろう年季の入った茶渋があり、さっきまでの艶やかな青磁とはまるで別物であった。
一体何が起こったのか 、八郎は全く理解ができなかったが、ただ、このまま顔をあげていとを見るのが、ひどく恐ろしいような気がした。
「八郎様」
いとの心配そうな声が、今度ははっきりと聞こえた。先ほどまでと変わらぬつやつやとした声であった。
それを聞くとにわかに緊張が緩み八郎がゆっくりと顔をあげると、そこにはもう見慣れたいとの顔がある。
「八郎様、どこか具合でも悪いのでは」
いとは、八郎の額に浮いていた脂汗をぬぐおうと懐から懐紙を出して八郎の額にその白い手を伸ばす。
「お主の望みは何であるのだ」
額に手が触れる刹那、八郎は低く呟くと、いとは肩を跳ね上げて手を止めた。
「悪いが、いくら我が身が弱い灯なれど、命だけはやれぬぞ」
八郎はまだ眩暈の余韻があるのだろう、揺らめく体を、いとをじっと見つめることで支えているようにして話す。
「何をおっしゃっているのですか」
いとは不安げにたずねるが、八郎は少し目を揺らしただけで、ちらりとも顔色を変えなかった。
「まさか本当にむじなが人を化かすとはねえ」
八郎はそう言うと一瞬でいとに詰め寄り、藤色の着物に包まれた膝の横に手を伸ばした。
いとは驚いて身を退いたが、間に合わず、八郎はぎゅっといとの何かを掴んだ。
急に走った刺激にいとは声を上げ、立ち上がって逃れようした。しかししっかりと八郎に押さえ込まれているためにそれはかなわない。
八郎がつかんだものとは、ふさふさとした獣の尾であった。
いとの尻からすらりと伸びたそれは、正座をした足を囲むように横たわっていたのだ。
「俺の命が弱いからと、あわよくばくば食らおうとでも言うのか」
八郎はいつもの優しくいたづらっぽい目をひそめ、冴えた剣のように目を光らせている。
「違います。断じてそんなことを企んでいたのではございません」
いとは一瞬にして真っ青になった顔を震わせ、懸命に否定する。
「それでは乗っ取るつもりでもいたのか。それともからかったのか」
八郎は段々と声を荒げ、立て続けに問い詰めた。
いとはただ「違う、違う、八郎さま」と連呼していたが、時の経つごとに八郎のつかんだ尾はその姿をくっきりと現していた。
それを見ると八郎は手を離し、そのまま腰に残っていた脇差に手を伸ばした。
一瞬、恐れに震えて八郎を見つめると、いとは転げ落ちるように廊下から縁側へと駆けていき、煙のようにさめざめと立ち込める雨の中へと消えていった。
いとは走った。舞い上がる雨の中をずぶ濡れになりながら、ひたすらに走って逃げた。
恐ろしくて逃げたわけでは無く、ただ、自分の浅はかさが憎くて、八郎が自分に向けた目の冷たさが悲しかっただけなのだ。
ほんの少し、欲が出たせいだ。もう少しだけ供にいられたら、とあの家に招いたのだ。
人をそのまま化かすのが、自分だけが化けるよりもよほど労がいることはわかっていた。
しかし、つい浮かれたのがいけなかったのだ。
慣れぬ大仕事に目を回し、うっかり気の緩んだところをあっさりと見破られてしまった。
大川に渡された橋にくると、水かさを増した川がうねる音が橋下で響く。
ちらと見ればその濁流とも言える混沌が、まるでいとの心そのもので、こちらへ来いと手招きをしている様に思えた。
細い体に打ち付ける雨が、すべて冷や汗のごとく体を這い、目尻から伝う水滴は涙の道筋を辿って落ちていった。
途中、道行く人の幾人かに呼び止められたが、気にせず走り続け、そのまま橋を渡り終えると、いとはそこでようやくこらえきれずに立ち止まり、上下する肩で息を整えた。
喉の奥で血の味がする。
激しい動悸が少し緩むと、今来た道を振り返る。
八郎がまさか心配だと追いかけて来るわけは無いのだが、それでも心のどこかで芽吹く一縷の希望に揺れる自分が情けなくて堪らなかった。
頬を、雨粒とは違う温かいものが流れていく。
はっとしてきつく握り締めていた手をゆっくりと開くと、つい先ほどまでは八郎の手の内にあった帯留めが姿を現し、いとは雨に冷たくなった手で愛しそうにそれを何度も撫でてから付け直し、再びとぼとぼと歩いて行った。