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その十

「お待たせしました、どうぞ」

しげしげと部屋の中を覗き込んでいるところ、気付くといとが手ぬぐいを差し出していた。

己のはしたなさに顔を赤らめつつも、八郎は貰い受けた手ぬぐいでぬれた肩口や袴、泥の付いた足を拭った。

「少し雨の弱くなるまで、どうぞいらしてください。今、お茶を用意させますのでどうぞ、おあがりくださいね。大通りまでは後で送らせましょう。」

いとの声はどこか機嫌の良さそうに弾んでいる。


確かに外の雨は強く、まだ弱まる気配もない挙句、八郎一人でここから大通りまで一人で戻る自信もなかったので、その言葉に甘えることとした。

「かたじけない。では、遠慮なく。」

縁側に上がった八郎が腰の大刀を鞘ごと抜きいとへ差し出しすと、いとは不思議そうに首をかしげて瞬きをした。


「お家の方は、今はこちらにいらっしゃらないのですか」

「ええ」

「どなたも」

「はい」

「そうですか。ですが、そうとは言えど腰の物をお預かり頂かなければ、そちらさまに無礼を致すこととなります。どうぞ、お預かりを。」


そう言って再び大刀が差し出されると、いとは小さくうなずいて、その白く華奢な両手で刀をしっかりと握って受けとり、脇の小部屋へと入って行った。

「刀掛けの部屋であったか」

呟いて、人気のなかったことに八郎は納得した。

家のものはいないと言ってはいたものの、いとは先ほど「茶を入れさせる」と言ったのだから、きっと奥にでも下女がいるのだろう、とも思った。

どういったわけか妙に胸騒ぎのするような心持ちであった八郎は、この家にいと以外の誰かがいることを確認したがっていた。


年頃の娘と二人になるという緊張もあったのだろうが、それよりもどことなく現とも思えぬような奇妙な雰囲気が八郎を不安にさせたのだ。


部屋に案内してくれるいとの後ろ姿を見て、八郎は奇妙なことに気付いた。

淡い藤色をしたその着物の裾には、一点の染みもないのだ。

あれほどの雨であれば、肩からもしっとり水が染み込むであろうし、いくらゆっくり歩いたとは言えど、泥水を跳ね上げずに行くのは困難である。

かといって、着替えるには余りにも短い時間だ。


現に、雨よけに高めの下駄を履いていた八郎の袴はじっとりと濡れて幾つもの水玉もようができていた。

そのようなことを考え混んでいた時、いとが突然振り返ったものだから、八郎は思わず肩を跳ね上げそうになった。


「こちらでお待ちを」


八十畳程の部屋に八郎を通すと、いとは「失礼」と言って再び奥へと消えた。

ほの暗い部屋には、湿った空気を照らす行燈と年季の入った煙草盆があり、炎が揺らめく度にそこにできる影や、浮かび上がる欄間や釘隠しの蝙蝠が一層不気味に見えた。

その揺らめきを目で追いながらも、昨日は昨日のことをぼんやりと思い出していた。


昼頃の話である。

浅草寺の坊主である謳秀にいつもついて回っているお弟子の秀文とばったり道端で出会ったのだ。

八郎は挨拶をしようと何気なく呼び止めて側に寄ったのだが、秀文は八郎に気付くなり駆け寄り、声を潜めて言った。


「八郎様、最近お変わりはありませぬか。」

「ええ、特段何も。秀文殿もお変わりは。」

久々に会う秀文に八郎は呑気に問い掛けたが、秀文は答えもせずに一層声を潜めて続けた。

「お気をつけなさいませ。お師匠が先日、八郎殿には何か良くないものが憑いていると。」

「良くないものとは」

「さあ、直ぐにお払いにならない所を見ると、むじなや狐でしょうな。

しかし侮られてはなりません。やつらは人を騙しますからね。」

神妙に話す秀文に、八郎は「そうか、気をつけるよ」と返事はしたものの、迷信の類いを信じてはいなかったのでその時はさして気にも留めなかったのだ。


それでもなお秀文は「ご用心に」と八郎の掌に薬を一服忍ばせた。

嗅ぎに行かずとも漏れるその苦々しい匂いからして、気付の類いだとすぐ知れた。八郎は体の弱いことで、この類のものの判別には望まずとも長じている。

撫ぜこんなものを寄越したのかという秀文の意図はわからなかったが、八郎は取りあえずの礼を言って、その場で秀文と別れたのだった。


「いとが獣だとでも言うのか」

自分の行き着いた考えに笑って首を左右に振ると、八郎は背筋を正していとを待った。

しかし、さらに日の落ちた薄暗い部屋はその考えに手を貸すように不気味さを増していた。

「お待たせしました」

襖が引かれると、鉄瓶と茶碗の乗った膳を持っていとは現れた。


「いや、気になさらず」

八郎は漸く一人で無くなったことに、ほっと胸を撫でおろしていた。

先ほどまで不気味に思えた部屋は、いとが入って来るとまるで、陽の射したかのように空気が和らいだのだ。

微かに漂う甘い香は、いとのものだろうか。いとが獣ではないかと一瞬でも思ってしまったことが馬鹿らしくなるほど、不気味さの欠片もない穏やかで可愛らしい娘だった。


八郎がそんなことを思った瞬間であった。

腰を下ろそうとしたいとの体が不意に傾き、空の湯飲みが二つ、でん、と畳の上に鈍い音を立てて落ちた。


そしていと自身もそのまま膝が崩れ、畳に落ちていこうとしたのだが、直ぐさま八郎がその体を支えたので、いとは倒れること無くその腕の中にすっぽりと収まった。


「申し訳ございません」

いとは慌てて起き上がろうとしたが、八郎は両手に力を込めてそれをさえぎり

「直ぐに立ち上がってはまた倒れる。少し落ち着くまで待ちましょう」

と、口にした。事実自分がそうであったために口から出た言葉である。


しかし、ふと冷静さを取り戻して自分のしている事に気付くと、その言葉を発した八郎の鼓動は段々と落ち着きが失われていき、いとをみやる事もままならなくなってしまった。

「八郎様」

「うん」

思わず返事をする声がうわずった。

ちらりと胸元を見下ろせば、そこにいるいとの耳も赤々と染まっていて、それが益々八郎の胸を跳ね上げた。

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