その一
春も盛りをすぎ、そろそろその勢いを夏へと受け渡そうと言う季節である。
木々や草花の芽は萌え、濃く鮮やかに匂いたつ。
御家人崩れの侍、清次郎と、棒手振りの清次郎の住む神田は亀井町の長屋に、化け狸の侘助が来てもう半年近くが経とうとしていた。
「侘助、湯屋行くかい」
喜市が一足早い冷や水売りを終えて長屋に戻ると、侘助は冷や水に入れる白玉作りを終え、ぺたりと畳みの上に座り、どこからか持ってきたきちんとした表紙の本をかぶりつくように読んでいた。
担ぎ棒をしていた肩にかけてあった手ぬぐいを取ると、喜市は汗ばんだ額をぐいとぬぐい、そしてその手ぬぐいで今度は足の泥をさっと払うと、部屋に上がって侘助の本を後ろからひょいと覗き込む。
おかげで陰ってしまった本を、光の入る場所へと侘助は無言で移動させていた。
「お前、こんなむづかしい本が読めるのかい。清次郎殿のか。」
「文字くらい読める」
邪魔をされたのが嫌だったのか、見くびられたのが気に障ったのか、すこしむっつりとして、ぶっきらぼうな口調で侘助は言い返す。
「ふうん」
本を読むことにさして興味はないものの、鬱陶しがる侘助をよそに、どんなものかと中身に目を遣れば、蘭学がどうの儒学がどうの学問に関する講釈であろう文がつらつらとつづられている。
「はあ、お武家様は違うねえ。学問を学ぶ学問だなんて、回りくどくていけねえや」
そういうと喜市はあっさりと侘助の背中を離れた。
しかし、目の端に本をめくる侘助の手が、白玉粉で真っ白になったままであるのが映りこんだ。
「お前、そんなんじゃあ本が汚れちまうだろう」
思わず喜市は本を取り上げ、傍らに置いたままであった手ぬぐいでがしがしと侘助の両手をぬぐう。
そして次に本を持ち上げると、その表紙に手ぬぐいをぱたぱたと打ち付けて粉を払った。
侘助は綺麗に拭かれた手を開いて胸の前にかざしたまま、はらはらと舞う粉をじっと見ていた。
「怒るかのう」
誰に言うでもなく、ぽそりと心配そうに口にする。
その様子に気づいて、埃がかかったように少しぼやけた表紙の本を置くと、喜市は侘助の鼻の上に残る白玉粉を親指でぐいとぬぐった。
「清次郎殿なら、ちゃあんと謝りゃあ怒りはしねえよ」
そう言って微笑んで慰める喜市の顔をみて、侘助は頭を横にふるふると振る。
「清次郎の本ではない」
「じゃあこんな立派な本、どうしたんだい。岸本のじいさんか」
本を買えるような人間は、黄表紙が精々の長屋の住民には心当たりがなかったし、貸し本屋が子供にこんな本を薦めるはずもなかった。
「八郎から借りた」
聞いたことのない名前を口にすると、侘助はくりくりとした目を本に向け、綺麗になったその手に取って喜市がしたように何度か粉を払った。
侘助が言うにはこうであった。
今日の朝、いつもの店に白玉粉を仕入れに行った帰り、いつもその駄賃で金平糖を買う菓子屋に寄ったのだという。
すると、店の主人もかみさんも留守で、広くはないその店を奉公に来ている男子が一人でいっぱいいっぱいになりながら店番をしていた。
おそらく年が十二に届きそうなその男子は、読み書きも算術もいまだおぼつかなかったが、まだ開店して間もない時分であるのと、直ぐ戻るつもりであったのか、店主に店を預けられてしまったようだった。
しかし、そんなときに限って、客がぞろぞろと入ってきてしまう。男子がおろおろとするうちに客は勘定待ちにくたびれ、中にはいらいらとしだす者もあった。
「松吉、どうした」
既に店のなじみとなっていた侘助はこの男子ともよく知った仲で、番台に駆け寄るとついたてにぶら下がるようにして尋ねた。
「ああ、侘助。どうにも困った。旦那様が吉原のお得意さんに菓子届けに行っちまってね。
悪いが、呼びに行っちゃくれないかい。」
松吉は眉間にしわを寄せて泣き出しそうな目をぐっとこらえている様子で、そろばんをせわしなくはじきながらこっそりと囁いた。すると侘助はうなずくでもなく、ひょいと番台に上がると
「十三文足りないぞ」
と、目の前の客に言い放った。
侘助がそろばんもはじかずに言うので、客は「そんなことはない」と顔をむっつりとさせて反論をし始めた。松吉は客をこれ以上怒らせては大変と、おろおろとしながら頭を下げたが、その後ろに並んで同じく待っていた用心棒風の男が不意に前に出てきて、松吉のそろばんを奪うようにして自分の手元でぱちぱちはじいた。
「おう、本当だ、旦那。十三文たりねえや。すごいな、坊主」
松吉が目を丸くする中、用心棒風の男が、わははと豪快に笑いながら侘助の頭をがしがしと撫でると先ほどの客はそそくさと金を置いて出て行ってしまった。
侘助はこの調子で勘定待ちの客をすっかりさばくと、店主が書き付けた帳面を見つつ、店内の客に菓子の説明をしたり、途中、どこで覚えたのだか源平合戦の講釈をもじったりしてつまみ食いをしながらも客と談笑していた。
すっかり感心仕切りの松吉は額が畳で擦れるかと思うほどに何度も礼を言うと、自分の金で菓子を買い、侘助に教わりながら勘定をし、その金平糖を侘助によこした。
その様子を一部始終見ていたものが、八郎である。
見たところ、松吉よりも少し年上であるらしいその男は、涼やかな顔つきで、侘助曰く
「冷奴みたいな男だ」
とんことだ。その冷奴が
「お前は小さいが、賢いねえ」
と目を細めつつ言い、さっきの用心棒とは全く違う優しい手つきで侘助を撫でていると
「侘助は手習いなんぞ行ってないんですぜ」
松吉がまるで自分のことのように自慢げに口を挟んだ。八郎はそれを聞くと、驚いて両眉を引き上げた。
「では親御に習ったのかい」
「いないよ」
八郎の問いかけに、いつものように何てこともないぶっきらぼうな感じで侘助は言ったのだろう。それを聞いて少し、八郎は悲しげな顔をしたという。
そして侘助の頭に置いたままだった手で、もう一撫で優しく頭を撫でた。