18 朝の景色
王都に着いた翌朝、ルセルは早々に目が覚めた。もともと早起きだが、今日はさらに早い。
宿の部屋は仕事で王都に来る者のための簡素な一人部屋だ。高位貴族は王都にタウンハウスを持っているもので、下位貴族のための宿は家族向けがほとんどなので、商人向けの宿がルセルにはありがたい。
もちろん、ルキシア侯爵のタウンハウスを頼る手もある。父と一緒に住んでいる弟が歓迎してくれるのは分かり切っているが、八年も顔を合わせていない父と弟に会うのも気恥ずかしい。
ルセルは、ベッドから下りて窓を開ける。気持ちの良い春の朝だ。雲一つない空は明るいが、朝陽はまだ地平線に隠れ、東の空が薔薇色に染まっている。
朝陽を待ちながら、王都の街路樹や庭園の緑は強く伸びやかである。春とは言っても夏が間近なのだ。
起きたばかりだというのに、ルセルは大きなため息を一つつく。落ち着かないのだ。こんなことなら、ぎりぎりまで寝ていた方がマシだ。しかし、目は冴えざえとし、二度寝が出来る気はしない。
「着替えよう」
普段は無言で事を行うルセルだが、わざと声にして言ってみる。
落ち着かないのは、午前中にレナードの店でサムスと会う約束があるからではない。むしろ、午前中の約束があるからこそ、そちらに意識を向けるべく努力している。
寝巻きを脱ぎ、昨夜、クローゼットに掛けておいた黒いシャツに袖を通し、黒いパンツを履く。ぎこちない手つきで寝巻きを畳み、クローゼットの足元に置いた古い旅行鞄の中に突っ込む。
「顔を洗おう」
洗面台で顔を洗おうと、並べた両の手で掬った水がこぼれ落ちて、着替えたばかりの黒シャツをびしょ濡れにした。
「ああ…」
自分の失態に落胆の声をあげて、真っ白なタオルで顔の水を拭き取る。そして、ぱちんと指を鳴らして、一瞬でシャツを乾かした。乾いたシャツを確認して顔を上げると、鏡に映った自分の目と合った。
リース王子のことを、考えてはならない。
わかってはいる。そして、よそに意識を向けているつもりだ。
それだのに、なぜ、手足の動きが少しずつずれるような、自分の声が遠くに聞こえるような、妙な感覚に落ち込むのだろうか。
あの魔法は使ってはならない魔法だった。ルセルとの別れでどれほどリース王子が落胆しても、時が経てばリース王子の気持ちも落ち着いたはずだ。
あの時、自分はどうかしていた。多分、別れが辛かったのはリース王子以上に自分だったのだ。だから、魔法を使ってリース王子の記憶を変えなければ、リース王子の下を去れなかったのは、自分の方だったのだ。
暗い方へ重い方へ、自分の考えが向かって行くのを振り切るようにルセルは頭を振った。
顔を拭いた白いタオルはタオルハンガーに掛け、裸足に気付いてスリッパを探そうとベッドサイドへ踵を返すと、何もないところで躓いて、そのままベッドの上に転ぶ。
うつ伏せの体勢から、ぐるんと体を回して仰向けになる。宿の低い天井を見ながらルセルはつぶやく。
「大丈夫、大丈夫」
何をとっても大丈夫とは思えないが、気休めは必要である。
リース王子と会うことが、怖い。再会の喜びより、空白の八年間がリース王子に与えた変化と成長を、目の当たりにすることの方が怖かった。
それでも、会いたい。ルセルは、自分の愚かさに苦笑いした。
自分がしたことの結果を見るために、わざわざ傷つきに行くのだ。
ルセルは、ベッドから身を起こすと食堂に向かった。マリーとケビンには悟られてはならない。ルセルは、気持ちを引き締めて朝食の席に着いた。
「よう、おはよう、お二人さん」
先に席に着いていたケビンが言う。
「おはよう、素敵な朝ね」
マリーは、昨日からずっとご機嫌だ。
「……おはよう」
ルセルは、二人の挨拶に一拍遅れて何とか挨拶した。
朝の食堂は、昨夜の賑わいから一転して、静かで爽やかな雰囲気に満たされている。窓が大きく、朝の光がふんだんに差し込むからだろうか。
朝食は、着席すると間もなく運ばれて来た。
「ケビン、今日はどこへ行く?」
うきうきした調子で、マリーはケビンに尋ねる。ブーエにいれば朝寝坊の娘も、今日の特別な日に、朝からしっかり元気だ。
「マリーは買い物したいんじゃないのか?親父さんに小遣いたっぷり貰って来たんだろ?」
「そうなの!でも、どこに行けばいいか、わかんないわ」
「王都の道案内が必要なら、人をつけようか?」
ルセルが口を挟む。
「ありがとう、ルセル。でも、二人きりで王都を楽しみたいから、いいや。迷ったら誰かに聞くさ」
確かに、ケビンなら、どこででも誰にでも、気さくに声がかけられるだろう。
「調子が悪いのか?」
ルセルの顔色を見てケビンが尋ねる。この男は人をよく見ている。しかし、ルセルの中で高まる緊張感など、分かるはずはない。
「大丈夫。二時に宿で集合だ。私は、先に出かけるよ。二人も楽しんで」
言うだけ言って、ルセルは、朝食をほとんど手付かずで席を立った。
「おい、ルセル、レナードの店まで馬車で送るよ」
ケビンも立ち上がる。
「いや、いいよ。馬車で行けば時間が早すぎる。歩いて行くよ」
ルセルは、王都の美しい街並みを眺めながら歩けば、気分も幾らかマシになるだろう、と思った。
ルセルがふわりと羽織った真っ黒なローブの丈は短く、暖かい季節に着られるよう薄手の生地だ。フードを被る方が魔法使いらしい装いになるが、ルセルは、フードが背中に垂れている方が気楽に感じ、そうしている。着る服を選ばなければならない煩わしさから解放されるために、常にローブを着ると決めているだけで、それは、魔法使いらしさを演出するためではないからだ。
しかし、この爽やかな季節に真っ黒なローブはいささか目立っていた。レナードの店にたどり着く前に、道でルセルを見かけたサムスに声をかけられた。
「おはよう、ルセル嬢」
長袖の白シャツの袖をたくし上げ、ベージュのスラックスを履いた、昨日よりラフな格好のサムスは、屋根なしの荷馬車の御者席にいた。




