10 ブーエ男爵の結婚
ここ毎日、ルセルは、マリーの家へ徒歩で出向いていた。マリーの家までの道は一面の見事な麦畑だ。じきに来る収穫期を前に、美しい緑の稲穂が風に揺れている。
広い麦畑の一番奥、麦畑の終りにマリーの家、ブーエ男爵の屋敷がある。屋敷の両脇には、野菜畑が広がり、屋敷と畑の後ろは、北の町との境となる深い森があった。
「ガーシュウィン先生、おはようございます」
畑の方から穏やかな声がした。
「おはようございます。マクシマ卿。精が出ますね」
ルセルは礼義正しく、控えめに微笑んで挨拶を返した。
ルセルに挨拶したのは、マリーの父、パトリス・マクシマ・ブーエ男爵である。
「こんな格好で失礼します。まだ野菜の手入れ中でして」
泥だらけの作業着に身を包んだブーエ男爵は、農作業の真っ最中であったが、ルセルを見かけて、わざわざ挨拶に出て来たのだ。
ブーエ男爵は、領地の管理運営だけでなく、自ら田畑を耕し使用人と共に農業を行っている。
身長は175センチで痩身、優しそうな目元に小さく整った目鼻立ちで人好きのする中年男性である。
マリーが男爵に似ていれば、その見目と魅惑的な肢体で男達を虜にしただろうに、残念ながらマリーの容貌は母方の祖母似である。
「先生、毎日ありがとうございます」
マリーが礼儀作法を学んでいるのは、一重に、自分が運命の相手と信じる第三王子リースとの謁見を果たし誘惑するためだが、表向きは「憧れの王宮サロンデビューのため」としてある。
マリーの父親としては、娘の社交界デビューに骨を折ってくれているマナー講師のルセルは、大恩人と言える。
「先生、マリーはどうですか?真面目にやってますか?」
「ええ、デビューが目の前ですから、集中して取り組んでいますよ」
マクシマ家は下位貴族の男爵位。王宮に出入りするために必須の上位貴族とのコネはない。領地経営のための下位貴族同士の付き合いや、この辺り一帯を統治する侯爵家との繋がりはあるものの、男爵自身が興味のなかったために、社交界とは無縁であった。
「何だか今更っていいますかね、社交界にデビューしたかったら、遠慮しないでもっと早く言ってくれたら良かったんですが……」
社交界デビューは十二歳が通常である。マリーは十七歳。もしも本当に社交界デビューに憧れていたなら、幼少期に徹底的に礼儀作法を教わっていなければ間に合わない。
「失礼ですが、マクシマ卿は王都の社交界においでになったことは?」
「いやあ……侯爵家のパーティーに呼ばれて、若い頃に二、三度顔を出しただけで。世間知らずで随分と恥をかきました。私の性に合いません」
社交界が性に合わないと考えるブーエ男爵は、娘を社交界へ送り出す気は毛頭なかったに違いない。
「この領地は爵位と一緒に、そのうち上の娘の婿に譲る約束です。マリーには好きにしていいと言っていたんですがね」
ブーエ男爵は大きなため息をついた。
「私がパーティーに出たときには、最初は多くの人が挨拶にやってきました。田舎者の男爵の息子が物珍しかったんでしょうな」
まぁ、ブーエ男爵のこの見た目なら、若い頃に社交界へ顔を出せば、婚約者を探す若い娘が寄ってきたのは当たり前だろう。
ルセルは心の中で頷く。
「それがねぇ、私の立ち居振る舞いを見た途端に、誰も彼も潮が引くようにみんな去って行ってねぇ……」
ブーエ男爵は苦笑いしながら、昔のことを思い返している。
ルセルには、会話では女性に誉め言葉の一つも言えず、ダンスでは転びそうになり、おろおろと困り果てるブーエ男爵の若かりし日の姿が容易に想像できる。
「マリーも十七歳ですし結婚してもおかしくない年頃ですが、社交界でどこぞの貴族様とご縁があっても、どうしたらいいものか。アレンとの婚約もありますしね」
ブーエ男爵は頭を掻く。マリーの性格もマリーの素行も分かっているのだろうか。
「結婚相手を探しに行くわけではありませんから、心配なさらなくても大丈夫ですよ」
ブーエ男爵には本当に申し訳ない。マリーは意中の相手を狩りに行く気満々である。その片棒を担ぎ、ブーエ男爵に嘘偽りの理由を並べてマリーを王都まで連れて行くのだから、とにかく無事に連れ帰って来ようとルセルは心の中で誓う。
「しかしねえ、マリーは近頃アレンを避けているでしょう。社交界デビューもアレンよりいい男を見つけに行くんだと私は思ってるんでね。」
アレンとの仲は良好と信じて疑わない母親より、父親の方が娘をよく見ているようだ。
「アレン様は確か、隣のハーケン男爵のご令息でしたね。婚約解消はブーエ領にとって損失となりますか」
ルセルは、率直に質問してみた。
「いやあ、ハーケンとは昔からの付き合いだし、アレンは次男だから婚約を解消しても大したことはありません。ただね、マリーは贅沢な暮らしに憧れているから、男爵家の親戚筋あたりが妥当だろうと思ってね。上位貴族がお相手なら贅沢は出来るでしょうが、マリーの性格では長続きしないでしょう」
ブーエ男爵は、ルセルが思う以上にマリーのことを理解しているようである。この良識ある父親から、どうしてあんなに自由奔放で考えなしの娘が育つのか、ルセルは興味が湧いた。マリーは母親似なのか。ブーエ夫人は、どんな人物なのだろう。
「不躾ですが、マクシマ卿は奥方様とどういったご縁なのですか?」
「いやあ、押しかけ女房でね。プラナの雑貨屋の娘で、店番をしてるときに話す程度でしたがね、品物を届けに来てそのまま家に居ついたんですよ。私みたいな男の所へ来てくれるなんて、ありがたいことですがね」
ブーエ男爵は照れながらも嬉しそうに話す。いや、そこは照れる所でも喜ぶ所でもない。ルセルは突っ込みたくなるが、そこは黙ってにこやかに頷いた。
なるほど、マリーが恋愛に積極的なのは母親の血らしい。
「マリーも、マクシマ卿のように良い縁に恵まれることを祈るばかりですね」
ルセルは小さく微笑み、軽く会釈して男爵邸へ歩き出した。




