008
「お早いお帰りですねお嬢様。して、そちらの憔悴した男性の方はどなたなのでしょうか?大方想像はつきますけれど」
厳重な鉄製の門をくぐり、細部に至るまで手入れの行き届いた庭を抜け、僕の身長の倍はあろうかという重厚な扉が開いたかと思えば、そこに立っていたのはいかにもなメイドだった。
とはいうものの、お辞儀が洗練されていたことと、彼女がメイド風の衣装を身にまとっていたというだけのことで、彼女が本当にメイドなのかはたまたただのコスプレなのかは定かではなかったけれども、お辞儀をしているところを見るに使用人的な立場の人間なのは理解できた。普通、同じ立場の人間に頭は下げない。勿論、土下座はその限りではないのであしからず。
「あなたの想像通りよ、瞑。私は少し準備してくるから、彼を頼んでも言いかしら?」
「かしこまりました」
「ありがと」
グロッキー状態の僕とは裏腹にやけにウキウキな彼女は颯爽と屋敷の中へと消えていった。そしてこの場には僕と恐らくはメイドであろう少女の二人だけが残った。
――気まずい、実に気まずい。
「では、案内いたします。えっと、名前はまだお聞きしてませんでしたよね?」
「えっと、そうですね。では自己紹介をば」
一つ咳払いをして僕はかしこまる。正直言ってまだ完全には回復できておらず、直立するのにも一苦労ではあるが、礼節を欠くわけにはいかない。あれほどまでに美しいお辞儀を見せられては、数々の舞台でお辞儀をした過去を持つ僕としては対抗せざるを得なかった。
「音無一、私立千色高校の二年生です。以後お見知りおきを」
「では音無様と」
「呼び捨てでも構いませんよ?」
ついつい、敬語になってしまうのは許してほしい。それに相手が敬語を使っているという手前もある。
「いえ、呼び捨てしてしまうとついつい殺してしまいそうなので、遠慮しておきます」
「今、殺すと聞こえたような気がするんですが……?」
「はい、音無様の聞き間違えではありません。殺すと確かに明言しました。瞑だけに」
「……、それは、何、メイド業界の隠語とかいうのではなくて、ただ純粋に僕を殺害するという意思の表れということで良いんでしょうか?」
――勿論、そのシャレとも分からない言葉には突っ込まない。僕の危険信号が黄色く点滅していた。
「結構です」
――いや、僕が結構ではないんですが。
「それではご納得いただけたようなので、ご案内いたしますね。これ以上音無様と話しているとついつい手が滑ってぶっ殺してしまいそうですので」
「それはいけない。では早く僕を案内してください」
「かしこまりました。ではこちらへ」
納得はしていない。納得はしていないが、『瞑』と呼ばれる彼女から明確な殺意を向けられているということは理解できた。『ぶっ殺す』なんていうメイドにあるまじき発言をされるぐらいである。もしかするとこれがメイドのリアルであり、空想上のメイド像しか持ち合わせていない僕との齟齬なのかもしれないが、それにしてもむざむざ殺されるほど、僕は人生というものに飽きてもいないのだ。
「ああ、それとこれをつけてくださいますか?」
取りあえず、屋敷の中へ通され、とある一室に案内された僕に手渡されたのは、両端にゴムのつけられた、何やら目が描かれた布だった。福笑いでありそうな絵柄である。これが冗談かどうか判断しかねるところだ。
「これは?」
「ただの目隠しですよ。何か問題でも?」
「……いえ、何も」
顔を傾け、笑みは浮かべているものの彼女の目はガチである。殺人者がどんな目をするのかは見たことないけれども、これ以上彼女に楯突けばどうなるかぐらい愚鈍な僕でも分かる。
「ではこちらでお待ちください」
「これは、どういうことですか?そういう趣向をお持ちという?」
「何を言ってるんですか、張り倒しますよ?」
「さいで」
ここで僕に目隠しをさせ、椅子に一人座らせ、挙句の果てには放置プレイをかますのに何の趣向もないらしい。
「あの、瞑さん、何をしているんですか?」
「何って、着替えですけど?別に見ても構いませんけどね。それなら合法的にあなたをぶっ殺せますから」
「その等価交換は成立しないのでは?」
「一々うるさいですね、ぶっ殺されたいんですか?」
「せめて、他の部屋で着替えるとかできないんですかね?」
流石にこれは心臓に悪い。視覚が遮断されている以上、僕の聴覚が研ぎ澄まされるのはごく自然なことだった。衣擦れ、と言うのかは分からないが、シュルシュルと兎にも角にも彼女が服を脱いでいるらしい音は僕の腐った想像力をよみがえらせるには十分だった。
「それはできない相談ですね。私が自由に使える部屋は生憎ここしかないんです」
「来客が来てもここに通すんですか?」
「その場合にはちゃんと応接間に通しますよ。まあ、一度も使われたことはありませんけど」
――なるほど。どうやら僕は客扱いされていないらしい。
まあ、これだけのある種、辱めを受けている時点でそれは明白だけれども。取り敢えずは何か喋っておかねば僕の精神が持たない。
「それに、あなたのことはお嬢様からどうとでもしていいとまで言われてますからね。つまりはそう言うことです。客扱いをして欲しいならそれらしい振る舞いをすることですね」
「僕があなたに何をしたと?」
「お嬢様の後ろに乗っただけで十分だとは思いませんか?ぶっ殺されないだけ有難く思って欲しいぐらいなんですが?」
「別に、彼女は――」
瞬間、ヒュッ、と僕の耳を何かが掠めた。恐らく僕は何か刃物を投げられたに違いない。トスッ、という僕の後ろでやけに軽い、何かが突き刺さる音がした。
「今、何か言いましたか?お嬢様のことを彼女だと言った気がするのですが?」
「いやいや、そんなのただの代名詞じゃないですか。勘違いはよしてほしいですね」
「それではお嬢様と恋仲ではないと?」
「いったいどこをどう考えればその結論に至るのかは、全く予想もつきませんが、僕達は何なら出会って二週間ほどですよ?会話したのだって両の手で数えられる回数しかしてないですからね。友達と言うにもまだ遠いほどだと、僕は思いますけどね」
「そうだったんですか。なら先に言ってくれればよろしかったのに」
「はい?」
――僕に発言権はほとんどなかったと思うんですが?それは僕の勘違いだったと?
「これは失礼しました。てっきりお嬢様の恋人なのかと思ってついつい手心を加えすぎてしまいました」
――これが、ちょっと?
「では目隠しを取ってもらっても構いませんよ?」
「いや、それは有難いですけども、今の今まで着替えていたのでは?」
「ただの振りに決まってるじゃないですか。それとも私の着替えが見たかったんですか?」
果たして、目隠しを取った彼女の姿は何も変わっていなかった。手に黒い布を持っているのを見ると彼女の言葉に嘘はないらしい。いよいよ謎である。
「では、どうぞ。応接間へとご案内いたします。私の後についてきてください」
「それは、どうも」
余りの豹変ぶりに僕は面食らっていた。手元を自由にさせておいてなお、目隠しを取ろうという考えすら抱かせなったあの恐怖は何処へやら、彼女の姿はいたって普通のメイドである。
今までの会話から察するに彼女の逆鱗は恐らくあの暴君なのだろう。出会ってまだまだ数十分だが、彼女の恐ろしさ――いや、危険性は十分に理解した。彼女の前では暴君の話題は出すまいと心に誓う僕だった。
「あら、遅かったじゃない。そうそう、試しにクッキーを焼いてみたのよ。一君もどうかしら?紅茶は一通り揃えているわよ?」
だがしかし、応接間で僕を待ち受けていた彼女にそんな気配りは存在しない。
「はじめ……君?あれ、おかしいですね。音無、というのは苗字だったと記憶しているんですが?一、というのは名前でしたよね?」
――ほらもう、一瞬で怒りマックスじゃないか。
「彼女が人を名前を呼ぶタイプなんじゃないんですかね。聞くところ他のクラスメイトにも下の名前で呼んでいるようですよ?」
「そんなことしてないわよ。私が名前を呼ぶのは一君、あなただけよ?」
「ほほう?」
「いや、まあ。それは、うん、あれだ。ただ単純に彼女がまだクラスメイトとの関係性をそこまで築いていないというだけのことですよ」
「それは違うわよ。私はあなた以外のクラスメイトと会話するつもりはないわ」
「らしいですが?」
「それでも、せめて友達が関の山で、ただ単に下の名前で呼ぶ程度の関係はあるというだけのことに過ぎません」
「それも違うわ。私はあなたと友達以上の関係になりたいと思っているのよ。当の本人にその気はないんでしょうけどね」
「ぶっ殺す‼」
さあ、僕の断罪は決定的となってしまった。どう取り繕ったところであまりにも彼女の一撃が重すぎる。一を言えば百で返されてしまう。
ああもう、何処からともなく棍棒なんか取り出して。しかも片手で担いでいると来ている。これでは1000回の拳で鍛え上げられた僕の体も耐えきれないだろう。
「表へ出ろ‼」
そう言われた時には既に、僕は棍棒の餌食となり空を飛んでいた。なぜか開いていた応接間のドアを通過し、僕はその言葉通り表へ、ぶっ飛ばされた。
およそ数十メートルという距離を飛んだ僕はあえなく、一瞬意識を手放してしまった。まあ、人間一人を数十メートルを飛ばせるほどの力を受ければ人体の体など簡単に壊れるのだろうが、そこはだてに1000回も殴り飛ばされてはいない僕の耐久力の見せどころである。体だけはまともな状態を保てていた。
唯姉に、感謝。
「どうかしら?瞑は中々に面白いでしょう?」
地べたに伏す僕を見下すようにして、と言うか絶賛見下しながら、僕を覗き込むようにして嘲るように僕に彼女はそう問うた。
一言物申してやろうと思ったが、どうも体が動かない。
「人一人がぶっ飛ばされているのに面白いと言える君の神経の方が愉快だと思うけどね」
結局、地面で天を仰ぎながらそう返すことと相成った。まことに威厳もへったくれもない。まあ、既に土下座をしているこの身の上ではあるのだが。
「あら、失礼ね。もう一度瞑をけしかけてもいいのよ?さしものあなたも二発も喰らえば流石に無事じゃいられないでしょうね」
「自分のメイドを殺人者にするつもりか?」
「まさか。命までは取らないわよ」
「どうだか。そもそも、僕以外ならあの一発でお陀仏だ」
「じゃあ試してみる?」
「遠慮しておくよ。僕だって棍棒に殴られて最期は迎えたくないからね。今は戦前でもなければ、僕は旧日本軍でもないんだし」
「それは結構。私も犯罪者の主としては生きたくないもの」
「そりゃ殊勝なこって」
僕を瀕死に追い込んだ当の本人は僕を殴り飛ばして清々したのか、彼女の焼いたクッキーとやらを頬張っていた。僕の視力は割かし良い方なのだ。ここからでもその表情すらはっきりと見えるほどに。
――全く、憎らしいほどに幸せそうな顔をしてやがる。
と、そこらで僕の体も回復したのか、ようやく僕は身体を起こした。
「それじゃあ、体もほぐれたようだし本題に入りましょうか。一君」
「本題?今日の本題はご自慢のメイドに僕を殴らせることじゃなかったのか?」
「人を痛めつけて喜ぶような残虐趣味は持ち合わせてないわよ。それともあなたの方にマゾヒズム的な趣味があるのかしら?そんなに殴られたいのなら心行くまで瞑に殴らせるわよ?」
「いや、もうこれ以上殴られるのは御免だね」
「なら大人しくついてきなさいな。瞑は少なくともクッキーがなくなるまではあの状態だから」
「それで僕に貸しを作ったつもりならお門違いだからな?そもそも僕がここに来て一時間足らずで満身創痍なのは君のせいが殆どだ」
「さて、本当にそうかしら?」
「どういうことだ?僕の存在そのものが理由だというのなら反論はさせてもらうが?」
「さあ、それは自分で考えなさいな」
この所業に彼女とメイド以外に介入の余地があるというのなら小一時間ほど問い詰めたくはあったけども、時間は刻一刻をあらそう。クッキーが尽きるようなことがあれば、今度こそ僕は一貫の終わりである。それは避けねばならぬバットエンドだ。
つまるところ、話はこれまでよ、と言わんばかりの彼女に着いて行くほか僕にはなかった。
痛む腰をさすりながら。
――ひょっとして今朝のやり返しか?