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007

「はじめー‼朝ごはーん‼」

 階下から僕を呼ぶいつのも声が聞こえた。

 ――今日は休日では?

 ようやく高校二年生の耐えがたきを耐えしのび難きをしのんだ二週間が終わり、久方ぶりの惰眠を貪ろうとしていた僕は(このところ毎日早起きだったのだ)、そう愚痴りながらも体から布団を引きはがす。時刻は朝の七時。まあ、いつも通りと言えばいつも通りの時間ではあるが、しかし今日はせっかくの土曜日である。

「はーい」

 そう僕は返事をして、朝の支度を済ませる。文句がないわけでもないが、しかし唯姉に殴られると思えば安い安い。

「今日は何をご所望で?」

 そう言いながら、階段を降り、リビングへと続くドアを開いた僕の目の前に飛び込んできたのは――

「あら、意外と朝は早いのね。それはそうと私はフレンチトーストにコーヒーを所望するわ」

「……何故、君がここにいる」

「ここの家主はあなたじゃなくてそこでソファーに寝転んでいる音無先生なんでしょう?なら、私がここにいることに何も問題ないはずよ?」

「別に、君を不法侵入者扱いしているんじゃない。ただ単に君がここにいる理由を聞いているだけだ」

「ああ、そう言うこと」

 彼女は手に持つコーヒーカップをそっと置き、そう答える。既にコーヒーを飲んでくつろぎムードな事にはこの際目を瞑ろう。その上で僕にコーヒーを注文したことにも。

「この前、言っていたでしょ?つまり、良い作戦を思いついたのよ」

「ここんところ四日間、音沙汰なしだったからてっきり諦めたのかと思っていたんだけどね」

「ただの準備期間よ。それともなに、私が構ってくれなくて寂しかったのかしら?四日間なんて私と喋れなかった日数を数えるぐらいに」

「むしろその逆だ。君が僕に関わってこない日があまりに嬉しくて、指折り数えていただけのことだ」

「ふ――ん」

「どうでもいいなら聞くなよ……」

 まあ、どうでもいいのはこちらも同じだ。コーヒーに渋い顔をする彼女は置いておいて、ソファーで寝そべる唯姉に僕は注文を承る。

「唯姉はいつものでいい?」

「いや、今日はできればお茶漬けを準備してくれると有難い。昨日の晩はどうにも飲み過ぎたようでな」

「社会人ならちゃんとしてくれよ……」

 ならば、さっきの飯の催促は何だったんだ。いつもの倍は張りのある声だったのは僕の気のせいなのだろうか。

「一君。私はフレンチトーストをご所望よ」

「コーヒーのおかわりはいらないのか?」

「いらないわよ、こんなに苦いの」

「さいですか」

 どうやら、彼女の口にはコーヒーは合わなかったようだ。ならば、せめてミルクと砂糖でも入れろと言いたくはなるが、まあこれ以上僕の仕事を増やされても困る。黙って料理に取り掛かるとしよう。

 お湯は既に沸いている。それにご飯も炊けている。二日酔いの飲んだくれにしては一応やることはやっていたらしい。唯姉の分は急須に茶葉を入れるだけで事足りる。まあ、面倒なのは今か今かと僕の料理を待ち受ける彼女の方だが、まあフレンチトーストも簡単な部類である。卵と砂糖と牛乳を溶き交ぜ、それに食パンを浸しフライパンで焼けば十分もかからない。

「ほら、僕お手製のフレンチトーストだ」

「あら、美味しそう。あなたみたいな根暗男が作ったとは思えないぐらいにいい出来栄えよ?」

「そりゃどうも」

「それで、あなたの手に持っているのは何かしら?二人前も私、食べられないわよ?」

「こっちは僕の分だ」

「あらあら、あなたにも可愛いところがあるのね。私と同じものを食べたいなんて、まるで思春期の中学生みたいだわ」

「ただ、別のものを作るのが面倒だっただけだ。それ以外に理由はない」

「つれないわね」

「それを言うなら君の方こそだろう。君が先週弾いた曲は僕があの日弾いたものだったと記憶しているんだが?」

「ただの当てつけよ。それに記憶に残っている曲の方が、成功確率が高いと考えての判断よ。何か問題でも?」

「……いや、何も」

 言いたいことが無いでもないが、まあ彼女の言葉に嘘はないだろう。成功こそしなかったものの、僕の心をざわつかせたという点においては彼女の判断は正しかった。何せ幻聴が聞こえたぐらいなのだから。

 そんなことを考えながら、僕はフレンチトーストを頬張る。

「ん、美味しい」

 その彼女の感想には大いに賛成だった。どうにでもなれと分量すら測らずに混ぜ合わせたが、意外といい塩梅の匙加減だったようだ。だてに毎日キッチンに立っていない。

「ほら、唯姉。お望み通りのお茶漬けだ」

「……ああ、悪いな。それともう一つ頼み事だが、暫く私を一人にしてくれないか?お前たちの声は少々頭に響く」

「そいつは失敬。食べ終わったら部屋に戻るからさ」

「いいや、それは流石に忍びない。ほれ、諭吉君を一人渡すから、高麗女史と遊びにでも行ってこい」

「どういう風の吹きまわし?」

 何故に、わざわざ胸元から一万円札を取り出したのかはこの際問うまい。

「流石に、私も姉として弟の成長を阻害してはならんと思ってな。故に、こうして社会人の姉らしく弟にお小遣いを渡しているわけだ」

「その二日酔いは演技?僕の記憶じゃあ唯姉が潰れた記憶はないんだけど」

「そりゃ、今まで潰れたことはないからな。だからと言って私が潰れない理由はないだろ?それに私が潰れてダメな理由もない」

 ――それもそうだ。

「偶には外でパーッと遊ぶことも大事だぜ?青少年」

 そう、僕の顔の前で諭吉君をひらひらさせる唯姉。いずれ、この『諭吉君』という呼称が死語になることを思うと、思うところもないでもないが、まあ、この際である。大人しく唯姉に従うべきだろう。そもそも、家にいたところで別段することもない。

「了解したよ」

「どうやら今日の予定は決まったようね」

「僕は何も言っていないんだが?」

「でも、何かはするつもりもないんでしょう?なら丁度いいわ、私を案内なさい。まだこの街に来て日が浅いんだからエスコート役が必要なのよ」

「それは、他の人に頼んでくれ。君の頼みなら涙を流して喜ぶような人間がごまんといるからさ」

「あら、見ず知らずの人にエスコートを頼めるほど私は常識知らずじゃないし、それにどうせ遊ぶなら見知った顔の方が良いに決まってるじゃない」

「それなら、クラスメイトにでも頼むことだね。それなら見知った顔だらけだろう」

「それは残念。クラスメイトなんてほとんど名前も顔すらも覚えていないわ。赤の他人よあんな人達」

 ――いや、あんな人達って。僕が言えたことではないが、例えそう思っていたとしても、言い方ってもんがあるだろうに。

「という訳で、私をエスコートできる人はこの場にはあなた以外にいないのよ。光栄に思いなさい?」

「そんな光栄の押し売りは聞いたことがないね。それに――」

「ああもう‼お前たちの声が響くって言ってんだろうが‼朝飯食ったんならさっさと家から出て行け‼」

 どうせなら一人で、と言いかけて僕らは口ばかりで二日酔いの片鱗すら見せない唯姉につまみ出されてしまった。文字通り。それも指二本で。計四本の指をもってして、僕は唯姉につままれ、それでもって投げ出された。「キャッ‼」などと教科書通りに叫ぶ彼女と共に。

「いたたたたた、全くあの暴れん坊はどうにかならないの?あなたのお姉さんでしょう?」

「生憎と、唯姉は僕の手に負えるような人じゃないんだ」

 腰をさする彼女に僕はそう返す。ざまあ見ろ。

「それで?不本意だけど、私たちは家主から出て行けと言われたわけだし、どうやら私の計算通りにことは運んでいるようね」

「計算通りなら、悲鳴を上げることはないと思うんだけど?それに不本意なのに計画通りってどういうことさ」

「悲鳴ぐらい上げるに決まってるじゃない。人間に片手で投げ飛ばされるなんて普通考えないわよ。それに出て行けと言われることが本意な人間なんてどこを探してもいないと思うんだけど」

「唯姉を勘定に入れるからそうなるんだ。あの人を常識で測れるなんて思っているなら今すぐその考えを改めた方がいい」

「ええ、そうするわ。少なくとも直接利用するのは辞めておく」

「やけに素直じゃないか」

「だって、もうすでにあなたは私の術中だもの、それとも今日一日中私に付きまとわれたいとでも?翌日、何者かに怯える不審者としてクラスで噂話にされても知らないわよ?」

「君の提案を飲んでも噂話はされるんじゃないのか?君を連れて歩いていたというだけでも僕は一躍有名人だ」

「確率の問題ね。人目に付きやすいかどうかをまず考えなさいな。確率が分からないという訳でもないんでしょう?」

 確かに、確率というのなら、彼女の提案を飲んだ方が目に付く可能性は低いだろう。あたりを始終キョロキョロする人間が誰の目にも留まらないほど、人は他人に無関心でもない。多分。

 それに、外はいくら休日の朝とはいえ、そこそこに人目もある。これ以上彼女と会話をしていては、近所の誰かしらに姉につまみ出されたという無様な光景が見られるに違いない。

「良いだろう、君の提案に乗るとするよ。木を隠すなら森の中というしね」

「賢明で何よりね。それじゃあ私についてきなさいな。今日の予定は分刻みで決まっているのよ」

「エスコート役を頼んだのでは?」

「そんなの嘘に決まってるじゃない。この二週間でここら辺りの土地勘はもうすでに培ったわ」

「そいつは結構。実に楽しい一日になりそうだ」

「皮肉?」

「いや、実に客観的な意見さ。君に振り回されるなんて普通の人間にはまずできない経験だからね」

「分かってるじゃない。それじゃあ行くわよ。まずはこれを被りなさいな」

「これ?」

 渡されたのはフルフェイスのヘルメットだった。ご丁寧にインカムまでついている。

「服装は……まあ、いいか。こけたらどのみち一貫の終わりだし」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ状況が把握できていないんだけど?それに今不穏な一言が聞こえた気が……」

「それじゃあ、あれを見れば分かるかしら?」

 彼女の指さす方向、つまりは我が家の駐車場には唯姉ご自慢の車と、そして見覚えのないバイクが一台停まっていた。僕が手に持つヘルメットとその光景が指し示す事実とはつまり――

「どうやら、状況も飲み込めたようだし行きましょうか。ああ、別に胸を揉んでも反撃はしないから安心して良いわよ?ま、個人的には腰回りを持つのをオススメするけど」

「いや、僕の心配しているところはそこじゃないんだけど。え?バイク?」

「ええ、別にバスでも電車でも良かったんだけど、まあせっかくだしバイクにでも乗ろうかと思って」

「免許は?」

「はい、これ」

 見ると確かに彼女の事細かな個人情報が羅列されていた。どうやら、彼女が免許を持っているというのは本当らしい。発行日も今日から丁度一年前である。つまり、僕が彼女の後ろに乗ることに何の問題もないわけだ。少なくとも法律上は。

「それじゃあ、ちゃんと掴まってよ?飛ばすから」

「せめて法定速度でお願いします」

「当たり前じゃない。こんな狭い道飛ばす方が難しいってものよ。大通りに入ってからはその限りじゃないけどね」

 そうして、嫌な笑みを浮かべた彼女はアクセルを捻る。

 本来ならば、ここで彼女の胸がどうこうやら、心音がどうこうやら、肌が密着してどうこう、なんていう下らない感想を漏らすのだろうが、しかし僕にそんな余裕は存在しなかった。彼女がハンドルを握るバイクの加速に置いてけぼりにされないように必死に彼女の体にしがみついていたのだから。それはもう、絡みつく蛇の如く僕は彼女の体に抱き着いていた。

「さあ、着いたわよ」

 僕がその地獄から解放されたのは一時間となかったのだろうが、しかし僕には永遠にも思えるほどだったのはやはり言っておくべきだろう。

 目の前に広がる周りの住宅街の景色とは不相応な大豪邸を前にして僕は、驚きより先に解放されたことへの歓喜の声を漏らさずにはいられなかった。

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