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006

 さてもその翌週。僕は熱い熱いハイタッチを交わしていた。勿論、相手は熱々に熱せられた屋上である。つまり、僕は彼女との勝負に敗北し、彼女からの命令である土下座を現在進行形で行っているという訳だ。

 正直言って、6日と18時間前の光景は余りにも予想外過ぎたので未だに現実だとは思っていないけれども、しかしここ一週間の唯姉を見るにどうやら唯姉が僕に申し訳なく思っていたことは事実らしかった。僕を殴ることはおろか、怒ることすら一度もなかったし、挙句の果てには今まで一度たりとも料理をしなかったあの唯姉が夕食すら僕に振舞ってくれたのである。

 味はまあ、お察しではあったが、『すまなかった』と僕に細々と告げる唯姉の姿を見て、僕は自分の敗北を認めないほど愚か者ではない。正直言って、逃げたくはあったが、唯姉の拳に対する恐怖心は中々のようで、つまり唯姉に殴られるぐらいならという余りにみっともない理由でもって僕は今現在、彼女に頭を下げるのだった。

「もう、そろそろいいかな?そろそろ僕の手のひらが地面と癒着しそうなんだけど」

「大丈夫よ。手のひらなんて剥げても。そんなものがなくたって別にピアノは弾けるんだから」

 ――大丈夫ってそっちの方かよ。中々どうして日本語は面倒くさい。いや、僕は正真正銘日本人ですけども。海外だって碌に行ったこともない身の上である。パスポートの有効期限はとうの昔に切れている。

「それじゃあ、言葉を変えようか。指の先まで癒着しそうなんだけど、まだ僕は土下座をしなくっちゃあいけないのかい?」

「それなら、指を屋上から離せばいいじゃない。土下座にそんなルールはないんでしょう?頭を地面にくっつけることが土下座では重要なのだと聞いたんだけど」

「それはそうかもしれないけど、生憎と僕の土下座スタイルはこれなんだ。君は土下座をしろとは言ったけれど、土下座の形態を指定はしていないよね?ならば、僕のこの体制は命令に反していないわけだ。その上で聞くけれど、僕はこのままでいいんだよね?」

「……はあ、全く口の減らない男ね。良いわよ、もう土下座は見飽きたもの。それにあなたの土下座を見たところで何の面白みもないことが分かったことだし」

「よし来た」

 僕はほぼ条件反射で直立した。僕の類まれな論理的話術に感謝である。別名は屁理屈。

「それじゃあ、次の命令に行こうかしら?」

「……ん?いま、なんて言った?」

「あら、熱さで耳も悪くなったのかしら。私は今、次の命令をすると言ったのよ」

「命令が二つあるとは聞いていないんだが?」

「それはそうだけど、命令が一つだけとも言っていないでしょう?後悔するなら、あなたの詰めの甘さね。命令を盲目的に一つだと思い込んだ己の浅はかさを恥じなさい」

「……まあ、確かにそれはそうだ。だけど、これだけは聞かせてもらっても構わないかな。果たして、僕はいくつの命令をこれからされるのだろうか」

 流石にいつ終わるとも知れない命令を聞く気にはなれない。それが勝者の命令だとしても。

「私も、流石にそこまで鬼じゃないわよ。勿論あなたのお望み通り、次で命令は最後よ」

「それは有難い」

「でも、その為には私について来てもらう必要があるんだけど。まあ、別にそれぐらい苦でもないし、構わないでしょう?」

 そろそろビタミンDの供給過多である。

「勿論だとも、この灼熱の屋上から離れられるのならなんだって構わないさ」

「それは結構。それじゃあ私についてきなさい?それとも、手を貸した方がいいかしら?水が欲しいと言うなら口移ししてあげないこともないわよ?」

「その攻撃は言っておくが僕には通用しないからな。先日の君の処女発言で理解したとは思うけど、僕の心は潤ってはいないんだ。君の口移し程度の水分じゃ戻らない程度には、ね」

「ふーん。まあ、あなたの心が砂漠のように枯れきっているのは分かったけれど、本当にいいの?今ならまだ間に合うわよ?」

「お、お生憎様だね。それより、さっさとその命令とやらをしてくれないかな。君だって時間が無限にあるという訳でもないんだろう?」

「……まあ、それもそうね。それじゃあとっとと終わらせましょうか」

「是非ともそうしてくれ」

 そうして連れられたのは教室棟四階の一番奥。音楽室だった。放課後の音楽室なんて吹奏楽部に占領されているのが普通なのだろうが、しかし吹奏楽部の練習場所は他にある。コーラス部も練習場所は別にあるし、軽音部もまた同様である。音楽は誰にでも楽しめるものでなくてはならないという、或いは占有されるものでもないという学校の粋な計らいの賜物ではあるけれども、しかし、その気遣いが今の僕には憎らしかった。

 何だって、こんなところに。

「久しぶりかしら?こうやってピアノのある空間にくるのは」

 僕は、僕が今いる空間に音楽室という存在があるというのは知っていたが、しかしこの学校に入学してからというもの、僕は一度も音楽室に入ったことはない。芸術課目も消去法で選んだ美術だし、そして唯姉が僕を殴る場所は学校中どこでもお構いなしではあったが、しかし音楽室で殴られたことも呼び出されたことも一度としてない。新入生の頃にあった学校見学は僕の記憶によれば休んだはずだし、つまりこの学校の音楽室が果たしてどういうものなのか僕は知っているはずがなかった。

 だが、現実が指し示す事実はそうではなかった。防音壁で包まれた空間に、黒い布が掛けられたピアノがポツンとあるその光景に僕はデジャブを感じていた。まあ、何処の音楽室でも似たようなものなんだろうが。似たような光景は幾度となく目にしてきた。

「君は人の夢を操る能力でも持っているのかい?」

「さあ?でも夢の登場人物っていうのは、何でも自分のことを思っている人間だっていうのをどこかで読んだことがあるわね。つまりあなたのことを探していた私の念みたいなものが干渉したんじゃないかしら」

 ――まあ、夢の内容で今更どうこう言うつもりもないし、今となっては夢の登場人物は自分が思っている人間だというのが通説である。千年も昔にそんな説は廃れている。

 なるほど。しかし、僕は油断していたらしい。そして、夢の言葉を借りるのならば、僕は今の生活を望んではいなかったということになる。

「じゃあ、手始めに私の演奏でも聞いてもらおうかしら?私の命令はそれだけよ」

 そう、大胆不敵に笑う彼女を前にして僕は、多分恐怖と好奇心が半々で埋め尽くされていたに違いない。あの時のトラウマは未だに残り続けているし、そして今もピアノという存在が恐ろしい。嫌悪感すら感じる。だが、心のどこかでは変わりたいという気持ちが、或いは何とかしたいという漠然とした思いがあったのかもしれない。春休みの間中見ていた夢はやはりそれの表れなのだろう。深層心理というやつである。

 僕にトラウマを植え付けた少女本人が、僕のトラウマを払拭するとは到底思えないけれども、僕は確かに現在進行形で、自分が変化している事実を実感していた。ほぼ強制的に矯正さ

 れているような気がしないでもないけれども。

 僕の目線は床から、椅子に座る彼女に、そして彼女の指へと、果ては彼女のその指先とそれが触れる黒と白の鍵盤へと移っていた。

 そして、僕の目線が映ったのを見て、彼女は高らかにオクターブの重低音を鳴り響かせる。あの時と同じ曲を。僕を失意のどん底に叩き落した曲を。

 だがしかし、彼女の指から流れる音色は、聞く者の命を刈り取らんが如くの気迫の満ちた演奏ではなく、確かに気迫はあったけれども、あのころとは違う繊細さと正確さを感じさせるものだった。つまるところ、僕のトラウマを呼び起こすには至らなかった。

 確かに、彼女が演奏した曲は、その曲自体に激しさというよりかは煌びやかさが、或いは華やかさがある。スピード感は確かにあるが、激しさと呼べるものはほとんど存在せず、優雅な曲だと言い切っていい。

 だが、彼女はそんな曲でさえも、人を叩き落す演奏へと昇華させる演奏家である。その片鱗が所々見えなくもなかったが、殆ど楽譜通りに奏でられたそれは、はっきり言って彼女らしからぬ演奏だった。


「どうかしら?あのころとは違って数段レベルアップした演奏だったでしょ?」

 五分に及ぶ演奏を経て、彼女は僕にそう聞いた。背もたれに寄りかかり、少し息が上がっているところを見ると、ふざけて弾いていたという訳ではないらしい。

「さあね。音楽をやめた僕が判断できる領域にもはや君はいないっていうことは理解できたけど」

「一々回りくどいわね。素直に褒めたらどうなの?僕のような下賤な耳が判断できないほどに素晴らしい演奏でしたって」

「相変わらず僕を貶すことに余念がないな」

「誉めてる?」

「誉めてるさ。器用なもんだ」

「それはありがとう。初めてあなたから感想をもらった気がするわ」

「そりゃそうだ。普通、意見の交換会なんてするような世界じゃないからな。感想戦なんて存在すらしない」

「それじゃあ感想戦でもする?一年触ってないからといって全く弾けないという訳でもないんでしょう?音無先生は丁寧に顔と腹を殴っていたって言ってたし、機能的にも問題なはずよ?」

「そんな配慮があったとは驚きだね。僕の知る限り殴りやすいから顔を腹を殴ると言っていた気がするんだけどな」

「あれでしょ。愛情の裏返しって奴」

「愛憎そのままって方が正しい気もするけどね。可愛さ余って憎さ百倍って奴なんじゃないのか?」

 ――僕に頭を下げてきた唯姉を見る限り多分そんな気がする。まあ、加害者の言い分と言われればそれまでだが、まあ一種の励ましを込めて僕を殴っていたんだろう。それでもやりすぎな気がするけれど。

「まあ、どっちでもいいわ。取り敢えずは私の命令はこれで終わりね」

 そう言うと、彼女は椅子から立ち上がり大きく背伸びをした。どうやらその発言は嘘ではないようだ。彼女の緊張の糸は確かに切れた。

「やっと僕は解放か。思えば長い日々だった気がするな」

「実質的な拘束時間は2時間もない気がするけど?」

「気分の問題だよ。この一週間僕は君のことで頭が一杯だったからね」

「あら、嬉しい。愛の告白ってやつかしら」

「憎しみの告白だ」

「愛憎の?」

「憎しみオンリーだ。純度百パーセントの憎しみでお届けしている」

「あら、それは悲しいわね。私の演奏を聞いて正気でいられる人間の方が少ないのに、あまつさえ憎しみをぶつけられるのは流石の私も初めての経験だわ」

 ――ん?どうやら、先程の演奏は彼女曰く普通に、いつも通り弾いたらしい。とすると、変わったのは僕の心の腐れ具合ということか。彼女の演奏を聞いてかつてのような感想を抱かなかったのはそう言うことである。そこら辺の草花に彼女の演奏を聞かせたところで何の変化もないのと同様に。

「そりゃ嬉しいこって。誰だって君の初めてになれたらそれはそれは嬉しいだろうさ」

「あら、皮肉かしら?」

「さあね。ただの冗談なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」

「あなたってそんなに適当な人間なの?」

「誰だって常に真剣には生きていないだろう?」

「話を逸らさないで欲しいわね。私はあなた個人に対して質問しているの」

「僕の話を聞いて何が楽しい?かつて叩きつぶした人間にこうやってまた自分のご自慢の演奏を聞かせて何が楽しい?君はサディストなのか?」

「被害妄想は辞めて頂戴。あなたが勝手に叩きつぶされたんでしょう?」

「そう言えば、そうだったな。それじゃあ話は単純だ。君の目的はなんだ?こうやって放課後の音楽室で、自分の演奏を僕に聞かせた理由はなんだ?」

「さっきから言ってるじゃない。あなたをあの世界に再び立たせるためよ。だけど、そうね。あなたの態度を見る限り私の作戦はどうやら失敗に終わったようね。てっきり反骨精神で対抗してくるかと思っていたんだけど」

「それは僕を甘く見過ぎだな。だてに一年間灰色の世界で生きていないんだ。僕の心に火を灯すのは多分水中で火起こしするより難しい」

「私の演奏もそうだけど、あなたも中々よね。眉唾物として聞いていたけれど、本当に千回以上殴られててもおかしくないわ。あなたって本当に腐りきっているのね」

「いやいや、それすらも通り越して僕はもう水分一つない砂漠さ。自分でもびっくりするぐらいにね。まさか、君の演奏を聞いても何も思わないとは思わなかったよ」

 ――彼女の演奏を聞いても何処か懐かしく感じる程度で、つまるところ僕が再びピアノに触れるまでには至らなかった。僕自身何か変わるのかもしれないと思っていただけに残念である。多分。

「本当に残念だわ。それじゃあ、私は次の作戦を練ってくるから戸締りはよろしくね。鍵はピアノの上に置いてあるから」

 しかし、残念なのは彼女も同じなようで、だがしかし、しっかりとした足取りで彼女は椅子から立ち上がり、そしてピアノを直そうともせず音楽室を後にする。

 結果としてこの場所には僕とピアノが一台残ることになった。


「どうしたんだい、音無少年。君は弾かないのかい?」


 不意にそう僕に問いかける声が聞こえた。

「ああ、そうともさ。僕がするのはピアノの片付けと教室の戸締りだけだ」

「あれだけの演奏を聞いて君は何も思わなかったと?」

「確かに懐かしいとか素直に凄いとは思ったけど、それ以外には何もないね」

「彼女のように再びピアノを弾きたいとも思わなかったのかい?」

「それも思わなかった。そもそも今の僕があれだけの曲を弾けるわけがないだろう?ピアノに触ってすらいないんだ。あの曲は確かにメジャーだし、思い入れのある曲ではあるけども、だからと言って簡単という訳じゃない」

「だけど、君だってそれを望んでいるんじゃないのか?さっきまでそんなことを言っていたじゃないか」

「それは一時の気の迷いだ」

「今は違うと?」

「そう言っている。僕がピアノを弾くことはもうない」

「そいつは残念だ。だけどそうだね、一つ君に聞くけれども、今君が手に持っているそれはなんだい?」

「ただの布だ。ピアノにかけるためのただの布に過ぎない」

「ほほう。それは興味深い。音楽室すら無意識的に疎んでいた君にしては大した進歩だとは思わないかい?」

 そう言われて僕はふと我に返る。僕は確かに、ピアノに触れていた。布を通して間接的にではあるが、目に入れることすら疎んできたそれに僕は確かに触れていた。

 まあ、ただ単にピアノを片付けているだけなのでとやかく言うことでもないかもしれないが、確かな変化であるのに間違いはない。それが進歩と呼べるかどうかは置いておいて。

「どうやら、君が元の君に戻るのも近いのかもしれないね」

「さあ、それはどうだろう。ピアノに触れることぐらいもしかすると既にできていたことかもしれない」

「屁理屈が多いねえ君は。そんなことどうだっていいんじゃないか。重要なのは今君が元の君の世界にほんの少しでも触れたことだろうに。それとも、今ピアノを触っている君は嫌いかい?」

「……嫌いじゃないね」

「なら、それが今日彼女が得た戦利品だ。つまるところ、今君はその脆い牙城を彼女によって崩されたのさ」

「破壊率は一パーセントにも満たないと思うけどね」

「確かにそうだろう。だが、今まで一年間、あの姉をもってして全く持って動かなかった君を彼女はものの一週間で動かしたんだ。それは果たして無視して良いものなのかな?」

 そう言い残して、声は聞こえなくなった。やけに饒舌だった気もするが、もしかして一週間ぶりの登場にテンションでも上がっていたのだろうか?

 とまあそんなことを考えながら、僕はピアノを黒い布で覆い隠し、ドアを閉める。この音楽室は四階で、鍵が保管されている職員室は一階。つまりそこそこの距離を歩いて、僕は鍵を返しに行くのだが、その途中で唯姉にあった。僕が音楽室のカギを持っていることに気づいたらしい唯姉は僕へといきなり距離を詰める。殴られるかもと身構えた僕だったが、しかし唯姉の両手は僕の肩に掛けられていた。それも無言で。

 僕は余りの恐怖と違和感に思わずその場から逃げ出したが、しかしまあ唯姉のどこかに僕を殴ったことの罪悪感があるのかもしれないと改めて、本気で思った瞬間だった。

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